第十話 拉致
リュージュはふらふらと軍議室から出てきた。両手で頭を抱え、目は焦点があっていない。冷や汗のようなものが額や背中に伝う。
「リュージュ。どうしたのだ?」
そこに聞きなれた声が耳に届く。リュージュは飛び跳ねるように頭を上げた。
「阿修羅」
「昨夜は……、すまなかった。取り乱してしまって」
目の前に阿修羅が立っていた。彼女の目はまだ赤く腫れていたが、幾分表情は落ち着いていた。泣くだけ泣いて、すっきりしたのだろうか。
「ああ、もういいよ、それは」
リュージュは気の無い返事をした。阿修羅の顔を見もしないで、それがどうした、と言わんばかり。
自分から謝るなんて、阿修羅にしてみれば相当勇気が言ったことだ。こんな事は多分今まで一度もなかっただろう。それなのに気のない返事を返された。
「お、怒っているのか? そうだよな。怒るよな」
「いいって言ってるだろ!」
つい、大声を出してしまった。阿修羅は瞼の腫れた両目を見開いて、リュージュを見た。
「そうか。わかった」
今度はこっちが憮然とする。苛立ちをぶつけてしまったリュージュは、慌てて言葉を繋いだ。
「あ、すまん、大きな声出して。なあ、阿修羅。おまえ、本当に俺のことが邪魔か? いない方がいいのか?」
「何を言っている……。今はおまえがいないと困るに決まっている。おまえがいてくれるお陰で怪我を気にせず戦えるのだぞ」
何を言い出すのかと、阿修羅は思う。昨日のあの発言は、そういうことではないのだが、相変わらず察しが悪いな、と。
「そうか、そうだよな。俺、ちょっとトバシュに話あるから」
「え? おい、白龍はどこにいる?」
「散支のところに行った。そのうち帰るだろうよ!」
既にリュージュは走り出し、トバシュが捕らわれている留置場に向かっていた。たとえ戦力としか見てもらってなくても、それは大事なことだ。トバシュはあんな凄い武器を作れるんだから、何とかしてくれるかもしれない。
リュージュは混乱を極める頭の中で、最優先されるべき問題を解決しようとしていた。
一人残された阿修羅は、事態が呑み込めずにリュージュの後姿を見ていた。そして小さなため息をつくと、重い足取りでリビングに向かう。紅茶のいい匂いがしていた。テーブルにはトバシュのところから戻っていたクルルがいる。
「阿修羅王、おはよう。紅茶煎れてあげるよ」
テーブルの前には置きっぱなしのタブレットがある。それを指で軽くなぞりながら、情報を集める。昨日のトバシュの一件について、カルラから報告が上がっていた。どうやら失態を責められる前に、必死で調べ上げたようだ。だがそうは言っても、昨日本人に聞いた以上のことはない。ま、当分休み返上で働いてもらうか。と阿修羅は考える。
「王、おはようございます。お話しても大丈夫でしょうか」
クルルの煎れてくれたお茶を飲んでいると、白龍が帰ってきた。正直、胸に苦いものが去来するのは否めないが、こいつが悪いわけではない。長い睫毛を伏せたまま、頷いてみせた。
「ありがとうございます。散支とカルティに会ってきました。わかりましたよ。あの女性はクベーラ王の妻、シュリー・マハーデーヴィだそうです」
『あの女性』。阿修羅にもすぐわかる符号。思い出したくもない絵がまたよぎる。出来ればその話題を今はしたくなかったが、クベーラ王の嫁だとすれば、そうもいかない。
「ということは、女神か」
「阿修羅王、仏陀殿と連絡は取れますか? あの方に限ってまさかとは思いますが……」
本当なら、こんなことを阿修羅に頼みたくはない。だが、事は急を要する。白龍は言葉を選んで伝えた。
シュリーは美、富、豊穣、幸運の女神だ。もちろん美しさは天界一の呼び声も高い。しかし、その美しさを独りの者にしておけない。心はいつも揺れ動き、自由奔放、鎖を付けてもじっとしていられない。移り気ですぐにどこかへ行ってしまう。
クベーラの妻でありながら、梵天、帝釈天と名のある神々と関係を持っている。あの密厳夜叉が入れ込んでいたのも彼女なのだ。だが、誰もそれを咎めない。それこそが一つところにいない、美、富、豊穣、幸運の象徴なのだから。
「いや……。取ってない」
「阿修羅王、気持ちはわかりますが、仏陀殿は王を裏切ったりはしていません。それは断言できます。クベーラ王の策略を甘く見てはなりません」
クベーラがなぜ自分の嫁を仏陀のところに送ったのか。はっきりとした理由はわからないが、阿修羅絡みだということだけはわかった。恐らく仏陀が阿修羅の戦いに手を出すのを嫌ったのだろう。
ガキみたいに泣いている場合じゃない。裏切ったかどうかは、別の話だけど。と、そこはまだ疑っている阿修羅だった。
「しまった……」
だが数秒後、一瞬にして阿修羅は青ざめた。連絡が取れないどころか、気配がない。人間界から仏陀が消えてなくなっている。
「万華鏡!」
二人は軍議室に走った。急いで万華鏡を覗き、仏陀がいるはずのところに照準を合わせる。二人はさらに驚愕した。そこには似て非なる者がいた。姿かたちは似せれても、顔に締まりがなく、立ち居振る舞いも仏陀のそれからは程遠い。
「なんてことだ。こんな一大事を気付かずにいるなんて! 白龍、すぐに天界を呼び出せ! 帝釈天を! シッダールタが拉致された!」
つづく
仏陀様(色気ありすぎ)
@神谷吏祐先生
急転必須! 次回を待て!
いつもありがとうございます!
今後スピード感を持って物語は進んで行きます。
よろしくお願いします!