第九話 急変
仏陀とシュリーは向かい合っている。シュリーは仏陀の膝の上だ。そこまで見れば、大抵みんなスイッチオフとなる。もちろん、釘付けになる人もいるかもしれないが、修羅王邸にはいなかった。
だが、本当はそこからが大変な事態になっていたのだ。
「やっぱり、バレてたんだね。うちの人も、あんたには気を付けろと言ってたよ」
諦めたように、シュリーは肩をそびやかし、仏陀の足の上から腰を上げた。ようやく重しがどいたので、やれやれとばかりに首を横に振り、仏陀も立ち上がった。
「おまえをここに寄越したのは、誰だ? クベーラとは連絡を取っているようだな。手荒な真似はしたくない。どこにいるのか、さっさと教えなさい」
仏陀は全てを見透かす鋭い目つきでシュリーを見る。すうっと、背筋が寒くなるのを女神は感じた。
「何も言うことはないよ」
それでもシュリーは怯まない。身バレしたところで何も失うものはない。
「では、仕方ないな。人間には使わないが、おまえなら構わないな」
そう言って、胸の前で印を結ぶと、何やら唱えだした。シュリーは金縛りにあったように体に自由が利かなくなった。だが、大きな目を見開くと、何故か仏陀の頭の上を見た。そしてまだ動かせる口元を緩ませた。
「やめろ。そこまでだ」
仏陀の首に冷たいものが触れた。そして痛み。首筋に刃があてがわれ、皮膚を裂いた。
「あんた! 来てくれたんだね!」
嬉々としてシュリーが声を上げた。仏陀の呪文が解けたとたんに動けるようになった彼女は彼の背後にいる者の所へ駆け寄る。
「クベーラ王か」
仏陀は振り向かずに問うた。相変わらず左肩にどっしりと刃が乗せられている。少しでも動くと皮から肉に食い込みそうだ。
「嫁が世話になったな。貴様を我が家へ招待しよう」
仏陀の背後、その遥か頭上に、雲を切って山のような大きな物体が浮かんでいる。音はしないが、チラチラと灯りが見え隠れし、その桁外れな大きさを不気味に表していた。
「断ったら?」
クベーラは鼻で笑う。
「我が家は戦車でね。このあたり一帯を焼き尽くそう。今夜は雲が多い。落雷からの火事も起こるんじゃないか?」
「クベーラ! 天界が人間界を干渉するとは何事だ! 重罪だぞ!」
仏陀が思わず後ろを振り向くと、今度は刃を喉元に突きつけられた。剣先が喉に当たり、つうっと血の線が描かれる。ゆっくり見上げると、仏陀の倍はあるだろう大きな男が不敵な笑みを浮かべて立っている。黄色と青を基調にした、派手な鎧と縦長の兜をかぶり、手にあったのは三叉槍だ。意外にも粗野な印象はなく、整った顔立ちは育ちの良い神そのものだ。
「知った事か。俺はもう、天界の神じゃない。向こうでは反逆者と呼んでいるだろうが。それよりもおまえを拉致して阿修羅王と取引する。そうすれば、何もかもが俺の物。俺の勝ちだ」
クベーラはにやりと笑う。
「阿修羅と取引? 何の話だ」
「おまえには関係ない! 餌は黙って付いてくればいい!」
三叉槍に力が入る。仏陀は体を思い切り反らすと三叉槍を躱し、体を捻って槍の柄を握った。だが、反撃はそこまで。クベーラの背後にいた部下たちにあえなく抑えられてしまった。
「私がいなくなれば、人間界に混乱が起きる」
押さえつけられながらも、仏陀はなおも抵抗し、クベーラを睨みつけた。
「心配するな。代役は立てておいてやる。よし、連れていけ」
両肩を持ち上げられ、引き摺られる仏陀の真横を、驚いたことに自分が歩いていく。仏陀は思わず二度見した。
「貴様そっくりだろう? 我々には変化を得意とする者も大勢いる。まあ、頭の中身はイマイチだけどな」
「や、やめろ!」
「あ、はははは! これであんたの教団もおしまいだねえ! ざまあないよ!」
さっきまで黙って様子を窺っていたシュリーが大笑いしだした。仏陀は眼力を込めて睨むが、今は唇を噛むことしかできなさそうだ。
「さあ、『黄金の天車』へようこそ!」
再び頭を上げる仏陀。目の前の光景に息を飲んだ。「黄金の天車」と呼ばれたそれはまるで金の山のように聳える宮殿。五、六の屋根を重ね、塔にも見える。荘厳な黄金煌めく宮殿は、宙を浮遊していた。
ところ変わって修羅王邸。三人が三人とも眠れぬ夜を過ごして朝を迎えた。リビングにはいつものようにコーヒーと紅茶が用意されている。寝不足で不機嫌な顔をしたリュージュがコーヒーを飲み、全く会話をしない白龍がサラダをよそっている。その横では何が起こったのか見当もつかないクルルが二人の顔を上目遣いで眺めていた。
「ねえ、何かあったの? 阿修羅王は起こさなくていいの」
そう恐る恐る言うと、二人同時に睨まれた。これ以上ないくらいの重たい空気がリビングを覆う。
「何? もう! 僕、トバシュに朝ごはんあげてくるよ! これでいい?」
クルルは白龍が準備していたトレイを取り上げると、さっさと行ってしまった。小さくため息をつき、白龍がリュージュに声をかける。
「今から散支殿とカリティ様に会ってきます。少し気になることがあるので」
「え? なんだよ、気になることって」
「それは帰ってからお話します。阿修羅王のことよろしくお願いします」
「あ、おい!」
リュージュが呼び止める間もなく白龍はさっさと変化して飛んで行った。
「お願いしますって。どうしろって言うんだよ。全くどいつもこいつも……」
阿修羅王の部屋の扉は閉じられたままだ。リュージュの頭の中では今も阿修羅の声が響いている。『おまえは私の心の中に入ってくるな。耐えられん』。俺の心の中も頭の中も、おまえのことばかりなのに。
それでも一人部屋でどうしているのか。気になって仕方がないリュージュは部屋の前まで行ってみる。ノックをするかしないか逡巡していると、軍議室から呼び出し音が聞こえてきた。
「なんだ? 誰だろう」
リュージュは一人、軍議室に向かう。特別なにも起こっていない。モニターを開くと、何かの書類が映った。
「ん? 報告書かな? え?……、な、なに?!」
リュージュは茫然としてそのモニターを見ていた。冗談じゃない、と何度もつぶやきながら。
つづく
クリフハンガーで申し訳ございません。
明日、明後日更新できないかも……。




