第八話 誘惑
キスの日なのですが……。
「おまえは私の心を乱す! もう耐えられない!」
仏陀に裏切られたと思い込んで荒ぶる阿修羅に、どうにか落ち着いてもらおうと思った。それなのにいきなり思いもかけない非難の言葉を浴びせられた。
「どういうことだよ……」
リュージュはわけがわからず唖然とする。
「もう、放っておいてくれ!」
そう言うと、阿修羅は軍議室を飛び出す。扉の前にいた白龍に気が付くと、思い切り睨んで自室へと足早に去っていった。
「お疲れさまでした」
まだ床にへたり込んでいるリュージュに白龍が声をかける。憮然とした表情で銀髪の美青年を見ると、
「結局、誤解なんだろ。お師匠様も何やってんだ。おまえもおまえだよ、うっかりし過ぎだよ。なんで俺があんなこと言われなきゃいけないんだよ」
腹立ちまぎれにそう吐き捨ててた。
「俺、一寝入りしてくるから」
不貞腐れながら白龍の横を通り、自室に戻っていった。白龍はその後ろ姿を見ながら独り言つ。
「人間界ではプレーボーイだったって、信じられないです。どうして女心がああもわからないんでしょう。相手が阿修羅王だからですかね」
長い髪をかき上げると、白龍は軍議室に入っていった。そして再び例の忌まわしい画像を上げ、「人ではないかもしれない? どうでしょうか」とつぶやいて、ディレートした。
修羅王邸で思わぬ修羅場となった、その映像が撮られたのは昨夜のことだった。仏陀はその日の朝から、忙しく立ち回っていた。
陽が昇る前に寺院の掃除、弟子たちを集めての説法を終えると、市井に托鉢に出る。雨季ももう終わり、彼らはこの居心地の良い祇園精舎を後にして再び旅を続けることになる。
今日はここでの最後の日だ。次の雨季まで長い旅、遊行が始まる。
その準備で仏陀を始め、百人にも及ぶ弟子たち総出で準備に追われていた。寺院や周りの緑深い広い庭、蓮の花を称える池。全てを清めていく。それがこのところの仏陀達に日課だった。
そして明日からはさらに過酷な遊行が始まる。一カ所にとどまることなく、亜大陸のインドを歩いて回る。宿もないし、ほぼ野宿である。食料は行く先々の寄進や托鉢によって得る。
「やってられない。なんで私がこんなことを!」
池に浮かぶごみを掬いながら小声で不満を口にするのは、女修行僧、いやクベーラ王の妻、シュリーである。ここに来てふた月あまり、思ったような成果があげられないどころか、禁欲生活を強いられている。そのうえにあり得ない労働までさせられ、いらだちもピークだった。
「明日から遊行が始まっちまう。一体いつまで私は仏陀を見張ってなきゃいけないんだ。全く、クベーラは仕事が遅いよ!」
シュリーがクベーラから依頼されたのは、まず一つ、仏陀を人間界に足止めしておくこと。二つ目が仏陀の評判を落とすために誘惑することである。
一つ目は図らずも達成できているが、二つ目は未達成のままだ。こんなことを妻に依頼するだんなもどうかと思うが、シュリーに対して貞操を願うことがそもそも無駄である。ならばその美貌と性格を利用することこそ夫の本懐だろう。
実際、シュリーは仏陀を一目見るなり、この仕事を喜んで請け負った。不衛生な人間界に行くのはちょっと嫌だったが、それよりも変わった食材の魅力の方が勝ったのである。
「主菜がなかなか食べられないから、つまみ食いでもしたいのに、仏陀が目を離さないからそれもできやしない。今夜、決めて、さっさとここをおさらばしてやる」
シュリーは並々ならぬ決意をしたのである。
そんなシュリーの決意を知ってか知らぬか、その夜、仏陀はゆっくりと湯に浸かっていた。明日からはこのようなこととは無縁の遊行である。温泉のある土地もあるが、限られている。大体が冷たい大河での沐浴となる。ここ祇園精舎には、裕福な寄進者の計らいで、大きな外風呂がいくつか作られていた。
「お師匠様。お背中をお流ししましょう」
今夜決めると決意したシュリーが、風呂に浸かる仏陀に声をかけた。ゆっくり風呂にも浸かれないな、と内心で思う仏陀は、
「いや、もう出るので大丈夫だよ」
そう言って湯から出ようとした。すると、そこにほぼ全裸のシュリーが現れた。仏陀は軽くため息をつく。『まあ、今夜は危ないかなとは思っていたが……』と驚く様子はない。
ところで、印度では入浴も沐浴と同じ意味を持つ。風呂でも何故か下着は着けたままなのが普通、というか、宗教上の習慣で裸では川や温泉には浸からないのである。仏陀も当然のことながら、下着は着けていた。(ああ、どうでもいいこの説明……)
シュリーも薄い布を全身に纏ってはいるが、透けているので無いも同然である。
「シュリー。今すぐ退室しなさい。それとも、湯に浸かるかい? 私はもう出るから」
「お師匠様!」
するとシュリーは涙を浮かべて仏陀に迫った。
「どうして私の気持ちがわかっていただけないのでしょうか。ずっとお慕い申しておりますのに」
そう言って、仏陀に抱きついてきた。豊満な胸をこれ見よがしにぐいぐいと押し付けてくる。全身脱力しそうな仏陀は、仕方なくシュリーの背中をポンポンと叩く。
「うーん、それは残念ですね」
「え?」
どういうこと? とでも言いたげにシュリーは仏陀の顔を見上げる。
「私は、胸は小ぶりの方が好きなんですよ。巨乳はお断りです」
「な、なんですって!」
今まで、自分の姿を見て心を動かさなかった男は神でも何でもいなかった。名のある神はみんな自分の虜になって、自分を巡って争ってきた。そのヒマラヤよりも高いプライドが音をたてて崩れた。怒りと共に、今の今まで丸坊主だった頭に亜麻色の髪がわさわさと生えてくる。あっという間に見事な髪は彼女の腰に届いた。
「もう、我慢できない! このエセ坊主が!」
シュリーはそのまま仏陀を押し倒し、馬乗りになり、首に手をかけた。驚いた仏陀は咄嗟に手を伸ばす。そこには自己主張してやまない大きな乳房があった。
「痛い! 何するのさ! 巨乳は嫌いなんでしょ!」
「あっ、すまない。シュリー、だが首を絞めるのはやめて欲しいな」
そう言うとぐいと両腕でシュリーの腕を掴み、体勢を整え仏陀は一気に起き上がった。代わりにシュリーは彼の体の上から滑り落ちそうになる。
「シュリー、おまえは何をしにここに来たんだ? おまえの夫、クベーラ王はどこにいる?」
「え……?」
シュリーは仏陀の両足に跨ったままポカンと口をあけた。仏陀の落ち着き払った目に、自分の姿が映っている。
「あ、髪が……」
「狐のしっぽも生えているかな?」
仏陀は口角をきゅっと上げて、声を出さずに微笑した。
つづく
キスシーンなくてすみません。