第七話 号泣
ロックされた扉の前で、大の男二人がにらみ合っている。いや、正確に言うと、睨んでいるのはリュージュの方だけだ。
「どういうことだよ! おまえ、理由わかってんだろ?」
中に聴こえないようリュージュは小声で、しかし険しい口調で問い詰める。右手は今まさに白龍の襟元をつかもうとしている。それをリュージュより十センチ近く長身の白龍がやんわりと制した。
「私が何かをしたわけではないですが、私のミスです。ごめんなさい」
素直に頭を下げる白龍に、リュージュは一旦手を引っ込める。だが、
「いったい何があったのか、説明してくれ」
と再び険しい表情をした。
「そうですね。すぐにお話するつもりだったのですが……」
白龍はリュージュの天界での話から、仏陀の身になにか起きているのではと思い、一人で万華鏡を見ていた。そこに映っていたのは、仏陀がとびきりの美女、しかもダイナマイトボディの持ち主に言い寄られている姿だった。
前後の繋がりからしっかり見れば、危ういところで一線を越えずにいるのだが、ぱっと見だといかにも『やってしまいました』感満載の映像になっていたらしい。
白龍が言うには、この映像を切り取って流せば、教団の存続問題に直結するほどのスキャンダルになるものだったらしい。
「映像って言うけど、人間界じゃ、そんなもの無いだろう?」
「人間界にはね」
リュージュは、はっとする。この映像はここだけでない、天界からも見ようと思えば見れるのだ。もしこれが誰かの差し金だったら? 正直言って天界の奴ら、特に帝釈天は信用ならない。
「火のないところに煙は出ない。教団に噂を流されることもあります。でも、それより恐ろしいのは……」
そこで言葉を切って、白龍は扉を見る。
「これが、阿修羅王と仏陀殿の絆を断ち切る罠だとしたら、由々しきことです」
「そうだな……。話はわかるが、おまえがその片棒担いでるじゃないか」
「あー。本当に。面目ないです」
白龍はその映像を何を思ったのかデータ保存してしまった。他意はなかった。仏陀を問い詰めようとでも思っていたのか、ただリュージュに見せようとでも思ったのか。しかし、ここで思わぬことが起こった。不意に修羅王軍本部から警告音が鳴り響いたのである。そちらに注意がいってしまい、データを保存したまま軍議室を後にしてしまった。
阿修羅王が軍議室に入ったのは偶然だった。トバシュから聞いた多くの武器の行方を検索するため部屋を訪れた彼女。最初は武器の所有者がわかるデータを調べていたのだが、ふと部屋にある万華鏡が目に入った。
阿修羅は万華鏡で人間界を見ることはなかった。何か緊急事態があれば別だが、平時に仏陀の姿を見ることはしなかった。姿が見えなくても彼とはいつでも通じ合えるし、すぐにこちらに来てもくれる。だから必要性を感じなかったこともある。何よりも、仏陀が修行している姿を盗み見ることをしたくなかった。
だが、ここのところ、こちらに来るどころか、ろくに話もしていなかった。修行の邪魔になるだろうからと、阿修羅から声をかけることは滅多にない。困ったときは別だが。だが、あまりに放置されているので、三日に一度くらいは声をかけてみた。仏陀はすぐに返事をしてくれたが、数分も経たないうちに『また後で』と言って話を終える。そして『あと』はなかった。
鏡の前で逡巡し、ついONに手が伸びてしまった。ぼんやりと画面に光が宿り、阿修羅の顔を明るくする。『あれ? 誰かデータを保存したままかな?』。残された映像にゆっくりと輪郭が浮かんできた。阿修羅は全身が凍った。
阿修羅の目に飛び込んで来たのは、半裸で横たわった仏陀の上に馬乗りになる、こちらもほぼ半裸の絶世の美女だった。しかも見事な形と大きさの胸が白く眩しい。あろうことか、仏陀の右手がその片側を握っていた。
喉元に冷たいものが下りてくる。声すら凍り付いたように、阿修羅はしばし何も言えずに固まっていた。そこに白龍が扉を開けて入って来た。
「阿修羅王? 何かわかりましたか?」
その声で、阿修羅はわかってしまった。いつもと同じように声を出したつもりだろうが、白龍の声は確かに上ずっていた。瞬時にこれが、白龍によって保存されたものだということを知った。
もし、これを見たのが自分だけだったら、まだその誇り高さから持ちこたえたかもしれない。でも、白龍は知っている。見られてしまった。まるで自分の恥部を見られたかのような感覚に阿修羅は耐えきれなくなった。
「入ってくるな! おまえ達、出ていけ!」
見れば後ろにリュージュもいる。あいつも見たのか? 知っているのか? 阿修羅は頭の中の情報を処理できなくなっていた。力任せに扉を閉める。
何かを冷静に考えようとするのだが、胸が痛くてそれをさせてくれない。いつも優しい仏陀の眼差しが脳裏を通り過ぎていく。阿修羅の切れ長の瞳が熱くなる。鼻の付け根が痺れてきた。気が付くと涙が後から後から溢れてくる。
「うわぁぁぁ!」
阿修羅は声を上げて泣いた。自分でもどうしようもなかった。濁流を必死で堰き止めていたのが一気に崩れ落ちた。こうなったら、全てが流れきるまで、止めることはできない。
夜明け前、扉の向こうはようやく静かになった。廊下にいる二人は扉に耳をあて、中の様子をうかがう。
「俺、中に入ってみる。話してみるよ」
リュージュの言葉に白龍は顔をしかめる。
「そうですね……。一度眠らせてからの方がいいかと思いますが……。どうせ眠れないでしょうし、嫌でも顔を合わせる。行ってくれますか? 多分私は当分避けられるでしょうから」
白龍は扉のマスターキーを渡した。通常は顔認証で扉は開くのだが、中からロックされたので非常時用だ。リュージュは白龍から受け取った筒状のマスターキーを所定の場所に入れる。音もなく扉が開いた。
「阿修羅? 起きてるか?」
努めて優しい声を出して、リュージュは部屋へ入る。万華鏡に目をやると、まさしく目のやり場に困る絵が飛び込んで来た。思わず二度見する。彼はそっとその画面を消した。低く籠った振動音が静かな部屋に響いた。
「阿修羅、大丈夫か?」
部屋の隅で、阿修羅は小さくなっていた。膝を抱え、頭をその膝の中に押し込んでいる。リュージュは胸が締め付けられるのを感じた。師匠と言えど、仏陀が許せなかった。何があったか知らないが、あまりに迂闊過ぎる!
「何の用だ。行けといったはずだ。一人にしてくれ」
阿修羅が小さい声で、しかしはっきりとした口調で言った。
「喉が渇かないか? おまえの好きな紅茶を煎れてやるよ」
リュージュはそっと阿修羅の肩に手をかけた。ぴくりと彼女の肩が反応する。膝を折って阿修羅の顔を覗き込むようにすると、右手で髪を撫ぜた。
ふいに阿修羅が顔を上げた。泣きはらしたその顔は、目も鼻も赤く腫れて、頬には涙の跡が無数についている。リュージュの目をじわりと熱いものが滲ませた。髪を撫ぜていた右手を涙の跡をなぞるように頬へといざらしていく。
「やめろ……」
阿修羅は真っ赤な目を大きく見開き、リュージュを見た。まるで何かに怯えるように。
「やめろ! 私の心に勝手に入ってくるな!」
阿修羅は跳び跳ねるように立ち上がると、リュージュを突き飛ばした。思わずのけ反って尻餅をつく。
「阿修羅、どうしたんだ?!」
「おまえは、おまえは私の心を乱す! もう限界だ!」
リュージュと目を合わすこともなく、阿修羅は拳を握りしめていた。
つづく