第二話 危機感
帝釈天に『危うい立場』と言われた仏陀だが、彼自身は現状に危機感を抱いてはいなかった。それよりも阿修羅にとっての自分の立ち位置が危ないことの方が気になっていた。
宝賢、満賢の館で見た彼女とリュージュの様子は、今までの二人と明らかに違っていた。何があったか問い詰めるつもりはない。阿修羅の気持ちが彼に傾いているとも考えてはいなかった。仏陀にとっても彼女にとってもお互いは唯一無二の存在であって、何事があってもそれは決して揺らがない。それは信仰ではなく真理だと思っていたからだ。
それでも、彼女を助け守り、支えになるのは自分でありたいと思っていた。今、それが危うくなっている。
「そう考えたら、やっぱりこの現状は危機なのかな」
他人事のようにぼんやりと仏陀は呟いた。
「仏陀様? 何かおっしゃいましたか?」
「あ、いや、シュリー。なんでもありません。瞑想を続けて下さい」
その元凶である女修行僧シュリーは、仏陀とともに修行中だ。前には百人近い同じく修行僧が思い思いの姿で瞑想している。尤もシュリーはこの瞑想中も迷走中である。どうしたら仏陀を落とせるか案を巡らせていた。
仏陀が先日阿修羅の助けに向かった時、修羅界ではなくまず天界に向かったのは、シュリーのことがあったからだ。彼女がここに来たのは、間違いなく天界が絡んでいると踏んだ仏陀はそれを確かめるために梵天、帝釈天に会いに行った。
そこで得た情報は、クベーラ王の行方不明だ。仏陀はなるほどと思った。そしてそこでシュリーの正体も判明したが、仏陀はあえて二人の神には言わなかった。二人が、もしくはどちかが、自分のところにシュリーを送ったと考えたからだ。そう、シュリーはクベーラ王の妻、シュリー・マハデーヴィその人だった。
仏陀は彼女が初めて教団に来た時から、人ではないことに気が付いていた。恐らく阿修羅絡みの罠であることも。だが、狙いがわからなかったのでしばらく様子を見ることにした。人間界に手を出したことに腹は立ったが、自分で対処する自信もあった。簡単に言えば、『舐めるなよ』ということである。
売られた喧嘩は勝ってやる。と本来のシッダールタの性格が出てしまった。しかし、このことにかまけたお陰で阿修羅のところに通えなくなったわけだから、仏陀にとっても多少の誤算はあった。
――――だが、逆に言えば、こちらに人質があるとも言えるのだ。天界の二人は気づいてないだろうなあ。
二人の内、どちらかなら間違いなく帝釈天だろう。だが、シュリーはこの二神の両方共と関係を持っている。どちらかと決めることは短絡的だと仏陀は思っていた。
――――いずれにしろ、厄介な客であることは間違いないな。見張ってないと、弟子たちを食いそうで目を離せないし。こんなことで彼らの道を誤らせたくない。
仏陀を人間界に足止めする。それもシュリーの役目の一つだ。知ってか知らずか、その役割だけは十分果たしていたことになる。
修羅王邸は今日も好天に恵まれた(というかいつも好天なのだが)、春の陽気である。天界から帰ると決まって疲労を感じる阿修羅は早々に自室に引きこもってしまった。
リュージュは白龍の煎れてくれたお茶を飲んでいる。
「で、いかがでした? 天界の様子は」
ただで白龍がお茶を煎れているわけはない。しっかり情報共有である。
「帝釈天って、本当にいけ好かない奴だな。阿修羅やおまえが嫌うのがよくわかったよ」
まあ、私達があの神を嫌うのはそれだけではないですけどね。と白龍は心の中で思う。
リュージュからあらかたの様子を聞いて、白龍はなぜ帝釈天がわざわざ呼び止めて仏陀のことを話したのかが気になった。
「帝釈天は、仏陀様の苦境をさも知っているような口ぶりですね。あの方が帝釈天に何かを言うなど、考えにくいのですが……」
白龍はあの日、修羅王邸に現れた天界軍と仏陀の姿を思い浮かべた。あの時は自分もものすごく焦っていて、細かい異変や状況に気を配れなかった。とにかく一秒でも早く阿修羅の元へ行きたかった。
仏陀、帝釈天、梵天と並んでいた。あの時確かに違和感を感じていた。やはり人間界で何かが起こっている。仏陀様は何も言われないが、また天界が人間界を干渉しているのだ。万華鏡を見てみる必要があるな。と、すぐにも万華鏡を見に行こうと茶席を立った白龍は、旨そうに自分がいれた茶を啜るリュージュを見下ろした。
白龍はなんだか無性に腹が立ってきた。こんなに知力を尽くして阿修羅のことを守ろうとしているのに、なんでこいつはこんなに能天気? いやいや、つい最近死闘を演じた事、忘れたわけではない。命がけで彼女と戦ったのはリュージュである。しかし、あの時何があったんだ。あの雰囲気はただ事ではない。
白龍は呑気に茶を飲んでいるリュージュの前で百面相を演じ、結局一度立ちかけた席に再び座り直した。
「リュージュさん、ところで……。宝賢、満賢の館で、何があったんです? 阿修羅王と」
「え゛っ……、ゲホッ!」
白龍の不意打ちにリュージュはお茶が気管に入ってしまった。激しくむせる。
「な、なんだよ。いきなり。それは聞かないお約束では……?」
「誰がそんなお約束しましたかね」
にやーっと口角を広げて笑顔を見せるが、目は全く笑っていない。リュージュは諜報部トップの取り調べを受けるはめになったことを悟った。
十数分後、真っ白になってテーブルにうつ伏したリュージュの姿があった。すでに魂を抜かれたように力尽きている。
「なるほどね。この期に及んで王に告白しましたか。しかも玉砕したわけでもなさそうですね」
白龍は射るような視線でリュージュを見たが、既に彼は白旗を上げている状態である。白龍は仕方なさそうにリュージュの束ねられた髪を軽く引っ張ってみる。
――――まあ、貴方は今回よく頑張りましたね。これくらいのご褒美あってもいいでしょう。阿修羅王は貴方を別の意味で大切に思ったことも間違いないですし。ちょっと妬けちゃいます。
軽く引っ張っていた髪を最後はぐいっと引っ張った。
「うわ! いて!」
たまらずのけぞるリュージュ。そこには謎の微笑をたたえる、銀髪美しい白龍がいた。その微笑が何を意味するか、リュージュには永遠に解けないだろう。
つづく