第四十二話 急転
数刻前、白龍はカリティとクルルを連れて宝賢達の屋敷を後にした。てっきり敷地外に出るのには強力な結界を抜けなければと思っていたが、型通りのもので白龍でも簡単に抜けられた。
なんだか腑に落ちなかったが、今はとにかく急ぎたい。カリティを安全なところに連れていったらすぐにも阿修羅達ところにとって返したかった。
白龍は最も安全な場所、修羅王邸へと急いだ。ところが、修羅王邸の前には、思いもかけない人物が待っていたのだ。
「夜魔天様!」
白龍とカリティが同時に叫んだ。白龍から降りると、カリティは夜魔天の前に傅き涙した。
「此度のこと、夜魔天様のご配慮でしたか……。お礼の言葉もございません」
「カリティ、元気そうで何よりじゃ。だが、すまぬ。今は事を急ぐのでな。散支殿は私の所にいる。しばし、この修羅王邸で待っていてくれないか」
夜魔天は、言いたいことがたくさんあるだろうカリティを申し訳なさそうに制し、白龍に声をかけた。
「それで、阿修羅殿は無事なのか?」
見るからに動揺している白龍を見て、夜魔天は事態が良くないことを感じていた。不安げに白龍に尋ねた。
「わかりません! 急がないと、急いで戻らないと!」
冷静な白龍にしては、文法が定まらないほど慌てて応えた。
「わかりました。それでは参りましょう」
カリティとクルルが修羅王邸に入っていくのを右目で追うと、再び白龍は修羅界に向けて飛び立とうした。そこにまた、予期せぬ客人が現れたのである。
突然目の前に現れたのは、天界、帝釈天が率いる六界最強の軍、天界軍だった。修羅王邸の上空を埋め尽くさんばかりの大軍隊。先頭には金色、白銀に光る鎧を付けた帝釈天、そしてその横には同じく勇ましい鎧を纏った仏陀がいた。
随分と大げさなことになっている。白龍は息を飲んだ。いや、だが元々この地で起きていたことは、我らが三人で何とかできることではなかったのだ。人任せにしていた天界が重い腰を上げた。それはなぜか?
仏陀殿が何か知っているのか……。白龍は帝釈天の隣に何の違和感もなく収まっている仏陀を見てそう思う。阿修羅王は仏陀殿と連絡が取れないと言っていたな。一体どうなっているのか。
「白龍とか言ったな。阿修羅王は苦戦されているのか?」
いつになく焦りの色を見せる白龍に向かって、馬上の帝釈天が嫌味な笑みを浮かべながらそう言った。
「元々、これは天界のお仕事でしょう」
負けじと睨み返す白龍だったが、今はこの無礼な奴と舌戦している暇はない。
「仏陀殿、私にお乗りください」
そう仏陀に声をかけると、天界軍、地獄の鬼軍を率いるように、白龍は修羅界へと飛び込んでいった。
そして今、宝賢、満賢の館の上空。ボロボロになりながらも無事な阿修羅達に再会することができた。
「阿修羅、良かった。無事だったか」
白龍の背から、仏陀が阿修羅の名を呼ぶ。白龍はさっきまで緊張していた仏陀が、今は一転、安堵の想いでいるのが、彼の体温を通じて伝わった。
「シッダールタ! 来てくれたのか」
応じた阿修羅の様子を見て、白龍は違和感を感じた。いつものわかり易いほどの満面な笑みが、どこか遠慮がちだ。人目もはばからず駆け寄りそうなものが、天界の軍がいるからか、今いる位置から動こうとしない。中途半端な笑みを投げかけるにとどまっている。
加えて、一言も発しないリュージュ。彼は仏陀の目を見ようとしなかった。
「帝釈天。これは何の騒ぎだ。宝賢と満賢は倒した。そこに転がってるから、さっさと回収していけ」
自分の動揺を誤魔化すように、阿修羅は帝釈天にいつもの不遜な態度で声をかけた。馬上で帝釈天は苦々しい顔をしている。あわよくば、阿修羅を助けて恩を売るはずだったのにとんだ見込み違いだった。
「さすがですな。天界でもその名を馳せた宝賢、満賢をお一人で倒してしまわれるとは」
「私一人ではない。多くの者の力があってのことだ。特にリュージュと白龍がいなければ成しえなかった」
被せるように言った阿修羅の言葉に、そこにいた者は当人たちを含めて少なからず驚いた。無敵を誇る阿修羅王が他の者の力を認め頼りにするとは、今まで考えられなかったことだ。随分素直になりましたね。とは白龍の感想。
「それは、それは。優秀な部下をお持ちだ。で、回収は後程部下にやらせますのでご安心を。私たちはこれから別の館にまいりますので」
「え? それはどういうことだ」
「阿修羅殿」
それまで黙って二人のやり取りを聞いていた夜魔天が口を挟んだ。阿修羅は今の今まで夜魔天の存在に気が付かず、驚いたように声のした方を見た。そこにはほっとするような優しい目をした、あご髭を右手でしごいている夜魔天がいた。
「散支の協力と浄玻璃鏡の解析で、他の八大夜叉大将が判明したのです。私もこれから帝釈天殿に同行して、彼らを処分します」
寝耳に水とはこのことだ。一つ一つ潰していこうとしていたのに、そんなに簡単なショートカットで済ますというのか? 一体自分達はなんでこんなに苦労していたのか。
「及び腰だった天界がどういうことだ! 私も同行させてもらおう」
阿修羅は俄かに血気ばむ。今にも天馬に乗ろうと歩を進めている。それをようやくひと段落したと胸を撫でおろしていたリュージュがあきれ顔で見た。
「それには及びません、阿修羅王。宝賢、満賢兄弟が今回の中心だったのです。それをあなたが倒したのですから、後の雑魚は私どもにお任せください。さあ、夜魔天殿、急ごう。逃げられては事だ」
帝釈天は、長居は無用とばかりに夜魔天に声をかけると、馬を操り踵を返す。夜魔天は阿修羅に目配せをした。『詳しいことは後で話しますから』とでも言うように。
「阿修羅、今日はもういいだろ。俺はもう休みたいよ。夜魔天殿にお任せしよう」
それでも諦めきれない様子の阿修羅にリュージュが声をかける。自然に右肩に手をかけた。阿修羅は振り向くと、少し間を置き仕方なさそうに「わかった」と言って頷いた。
つと背中に冷たいものを感じたリュージュが、恐る恐るその源を見上げる。そこにはその一部始終を黙って見つめていた白龍と仏陀の四つの目があった。
つづく
あともう少し、第一部続きます!