第三十八話 告白
どのくらい時間が経っただろうか。青いオーラに包まれて、二人は一つになっていた。こうすることで、阿修羅と共に治癒者のリュージュも同時に癒されていく。
二人の血流が一つの流れになってゆっくりと揺蕩う。それはまるで大陸から大海原へと水を運ぶ大河のように。清流は静かな波を立て、音もなく下流へと向かう。
細胞の一つ一つが目を覚ます。その目は抱き合う二人をじっと見つめている。回復のサインを出す時を待つように、息をひそめている。
棒のように力を失っていた阿修羅の腕は、いつの間にかリュージュの背中にあった。術者の傷を確かめるように、指は背中を這う。
その指につと力が入った。リュージュははっとする。
「あ、ご、ごめん……」
もう随分と回復した。先ほどの激痛が嘘のように楽になっている。リュージュは阿修羅の体温を惜しむようにゆっくりと体を離す。瞳に濡れた唇が映る。その柔らかい感触だけが残像のように絡みついた。
「何を、謝るのだ。おまえのお陰で、命拾いした」
阿修羅は少し首を傾げて、一言一言を区切り、噛みしめるように答えた。本心からの言葉だ。所在なさげに両腕を抱え、手を上下させている。
いつも首に幾重にも巻かれていた瓔珞は、金と白銀の二つきりになっていた。瞳と同じ赤い宝石が輝く耳飾りも片方落ちてしまったようだ。
「阿修羅、おまえ、泣いてるのか?」
改めて目の前にいる大切な人の顔を見る。両目から頬に一筋光るものがあった。
「あ、なんだろな。別に痛くて泣いてるわけじゃ……」
リュージュは右手をすっと伸ばし、指で涙をぬぐった。先ほどまで血の気が失せて真っ白だった頬は、少し赤みが戻ってきている。阿修羅は何も言わず、されるがままじっとしていた。
「阿修羅……」
今がどういう時なのか、わかっていないわけじゃない。結界というシェルターにいるが、いつまでもここにいられるわけではない。ここから出て、もう一度宝賢と、『雷光』と戦わなければならない。しかも、阿修羅は短剣すらない、文字通り丸腰だ。
だが、リュージュは溢れる思いを留めることが出来なかった。涙を拭った右手を手繰って阿修羅を再び抱きしめた。腕の中で「あっ」と小さな声が洩れ聞こえる。
「阿修羅、俺はおまえが好きだ……」
両腕を華奢な体に纏わせる。自分の顎の下にある阿修羅の金色の髪飾りに顔が映った。傷は閉じているが、所々に乾いた血がシミを作って二枚目も台無しだ。こんな時に告白してる、俺は全く馬鹿だな。リュージュは心の中で自虐的に笑った。
あれほど激しい戦いをしたというのに、阿修羅の髪からはレンゲの花のようないい匂いがする。なんだかいい気持ちになって、リュージュはそのまま頬を乗せた。腕のなかの愛しい人は、自分の胸に頭を預け、添えるように両腕を背中に置いていた。
どのくらいそうしていただろうか。やがてその置かれた腕がぴくりと動く。背中にそんな気配を察して、リュージュは心臓がきゅっと掴まれたように感じた。やはり……、嫌なのか?
「ふふっ。こんな時に、ふざけた奴だな」
リュージュの逞しい胸板にうずめたまま、阿修羅がそう呟いた。そして、悪戯っこのような瞳をしてリュージュの顔を覗く。
「あ、ああー。そうだな。ホントに」
赤い瞳が人を食ったような表情で自分を見ている。急に恥ずかしくなったリュージュは、名残惜しい気持ちに蓋をしつつ体を離した。
「ま、悪くはないけど」
「え?!」
謎の言葉を残して阿修羅は立ち上がると、準備運動のようにぐるぐると腕や首を回しだした。
「さあ、あいつを倒して修羅王邸へ戻るぞ! 私はここで死ぬつもりはないからな」
「ああ! もちろん俺もそのつもりだ! あいて!」
阿修羅の飛び切り明るい声に、リュージュも勢いよく立ち上がる。が、身長が高いリュージュは結界の天井に頭を打った。
「あ、ははは! もう、笑わせるな!」
今の今までしおれた花のようだったのに、春爛漫に咲く木蓮のように笑う。あの魔鏡にどう対峙するのか何もとっかかりがないが、この笑顔の美しい人が負けるわけがない。そんな揺るがない自信がリュージュの胸に宿った。
宝賢は、今もまだバルコニーに突っ立っていた。阿修羅達が消えたところを何度も何度も歩いては立ち止まる。まるで動物園のライオンのようにその動作を繰り返している。今は立ち止まったところだ。
阿修羅に仕留められた満賢は、屋敷の中で横たわらせている。満賢の場合は息の根を止められているので、癒しの術では間に合わない。もちろん完全な死ではないが、このままでは復活は数年単位になってしまう。
天界にはいい術師がいる。宝賢は自分の雇い主に救いを乞うた。だが、今日に限ってなんの音沙汰もない。
「まさか、裏切られたのか?」
宝賢は胸騒ぎを覚える。
まだ天界にいたころ。宝賢は蓮池で舟遊びをする散支の奥方、カリティを見初めた。きらきらと輝く水面に光をもらって、白い肌はさらに煌めいていた。『美しい』。一目で心奪われ、その日のうちに連れ去った。
天界では妻だ夫だといっても、略奪上等、惚れさせれば文句はない。相手の散支は自分より格下、財産も圧倒的に宝賢が上だ。簡単なことだと思っていた。
だが、散支とカリティ夫婦の絆は固かった。思いもかけず、散支は戦をしかけてきた。当然武力も自分のほうが数段上と思っていたのに、粘り強く戦われて苦戦した。仕方なく弟の満賢の手を借りた。そしてここで夜魔天の登場だ。
夜魔天にはすぐにカリティを散支のところへ返すようにと言われた。そうすれば何もかも不問にするという。もちろん悪い話ではない。肝心のカリティは、屋敷に連れ帰ったはいいが、宝賢を頑なに拒否し指一本触れさせない。弟の満賢を巻き込んでしまったことも宝賢が強気にでられない理由だった。だが……。
「兄者、このままあの女を返すのか? そんなこと俺は嫌だ。完全な敗北じゃないか! 兄者は悔しくないのか? あの女は兄者にこそ相応しい。散支にも夜魔天にも、わからせてやればいいんだ」
当の満賢が宝賢を焚きつけた。
「修羅界に堕ちるぞ。それでも良いのか?」
「兄者となら、そこもまた天国さ」
宝賢は弟の言葉に決断し、『カリティは俺といたいと言っている』と返答した。結果、満賢と二人修羅界に堕ちたが、蛇の道は蛇。意外と快適だった。
今や宝賢にとって手放せない武器、魔鏡『雷光』も修羅界に来てから手に入れた。さすがに戦いの修羅界だ。秘密裏に流通する武器や珍品に事欠かない。
この『雷光』を作ったのは天界でも高名な武器職人だ。こいつもいつの間にか修羅界に堕ち、ひっそりと、だがとんでもない武器を作り続けていた。
天界から隠し持ってきた財力があったとしても、目が飛び出るほどの高額だったが、宝賢は迷わず手に入れた。元々剣技においては満賢の足元にも及ばない。修羅界で生きるため、ひいてはカリティを盗られたくないがために手を出したのだ。
賭場を始めたのはそんな理由もある。賭け事はそれほど好きではない。それよりも、蓄財が目当てだった。カリティに金のことで不自由な思いをさせたくなかった。
「俺はおまえを大事にする。誓って言う。どうだ、修羅界に堕ちても、俺の財力は限りない。どんな綺麗な着物もどんな高価な食べ物も好きなだけやろう」
宝賢は子供が欲しかった。とびきり可愛い子供が。だからこそ、天界でその美しさを称えられたカリティをどうしても手放したくなかった。
「それは嬉しゅうございます。では、ここに書いてある書物を全ていただけませんか? 宝賢殿にも読んで欲しゅうございます」
だが、カリティが宝賢に与えたのは偽りの笑顔だけだった。のらりくらりと宝賢の矛先をかわし続けた。満賢が援護射撃をしても、より一層事態を悪化させるだけだ。
そんな時だ。天界に住む一人の王から声がかかったのは。修羅界を乗っ取って、天界を攻めるという。確かにこの世界には戦に飢えた悪鬼や夜叉がふんだんにいる。天界でも名の通った王だ。その王のいう事だから信じるに足りたし、十分に納得できた。
――――天界を支配する。もしそれが出来れば、カリティは俺に振り向いてくれるだろうか。
そんなことを宝賢は考える。散支との力量の差を示したい。そしてまた天界に復帰する。宝賢はその申し出を受けた。
修羅界を司るために降臨した阿修羅王は一筋縄でいかない。慎重を期して動くことを求められた。そこで結成されたのが、八大夜叉大将だ。
宝賢を総将に、修羅界でも力のある八人の悪鬼神が秘密裏に集められその名を名乗った。散支を加えたのは、歴然とした力の差を見せつけるためだ。全てに勝利した暁には、自分は天界のナンバー2になれる。散支は阿修羅王に殺されても構わないし、生き残ったら難癖付けて修羅界に閉じ込めてしまおう。そんなことを目論んでいた。
だが、今その頼るべく王との繋がりが突然ぷっつりと切れてしまった。そればかりか……。
「俺はカリティと、その間に授かる美しい子供が欲しかっただけだ。なぜこんなことになってしまったのか……」
白い天馬に乗って、カリティは行ってしまった。いつか、俺を見てくれる日が来ると思っていたのに。最後に雷光を向けた。阿修羅の剣に遮られたが、もし、あの剣が飛んでこなかったとしても、雷光を発光させただろうか。
ぽっかりと穴が開いたような胸に手を当てる。宝賢は再びライオンのように歩き回った。
「だが、あいつらは絶対に許さん。いずれ必ず出てくるはずだ。満賢の仇は必ず討たせてもらう」
月のない夜空は相変わらず暗く、重たくのしかかる雲は鳥の声すら吸い取ってしまいそうだ。宝賢は懐から魔鏡『雷光』を取り出すと、念入りに磨きだした。
つづく
お読みいただきありがとうございます。
第一部も終幕が近づいてきました! 阿修羅達の決死の戦いにご注目ください!