第三十四話 唯一無二
連絡がうまく取れない。阿修羅はそれを、館に張られた結界のせいだと考えていた。だが、事実は違った。
仏陀はその頃、深い眠りについていた。
『祇園精舎』。北インド、コーサラ国はシュラーヴァスティの富豪が仏陀に送った寺院。雨季の今、仏陀率いる教団はここに滞在していた。その中、最も奥の部屋で、仏陀は眠っている。
この土地の雨季は蒸し暑く、ただ立っていても汗が滲むような不快な季節だ。だが、仏陀が眠るこの部屋は冷たい空気が沈み、寺内を響き渡る鐘の音が重たく床を叩いていた。
そして、眠り込む仏陀の枕元には、両の瞼を軽く抑える女修行僧の姿があった。
場所は同時刻の修羅界、宝賢、満賢邸に戻る。
館の周りには、手持ち無沙汰な見張りの夜叉が数人いるくらいだった。大方は、阿修羅達を探すために森へ行っているのだろう。リュージュが入っていったであろう裏口は、小さな灯りがぽつんとついているだけで、辺りは薄暗く、しんと静まり返っていた。
阿修羅はここに来るまで少し遠回りをしてきた。なんとしても白龍達が見つからないようにしたかったからだ。満足に飛べるまでは、まだ少し時間はかかるだろう。クルルのおかげで最悪の事態は免れたが。
そのため、館とは全く逆側まで木々を渡り、そこでひと暴れしてきた。夜叉共はその付近に阿修羅達が潜んでいると考え、目下鋭意捜索中である。これでいくらか時間稼ぎできたはずだ。
城のように聳える兄弟の館を見上げながら、こうも広いと、探すのが骨だな、と独り言つ。だが、あの得体の知れない宝賢の攻撃にリュージュも晒されているはずだ。そうでなければ、あそこにあの男が現れるはずがない。
――――リュージュ、自分で治癒しているとは思うが……。
見張りの夜叉を悲鳴も上げさせずに倒すと、阿修羅は足を忍ばせ裏口から侵入する。すると建屋内に踏み入れた途端、体の中に慣れ親しんだあたたかな気が流れてきたのを感じた。
「あ!」『阿修羅か?!』
同時に、それは耳ではなく、直接脳に声が響いたように感じた。
「リュージュ! 無事か? どこにいる」
リュージュが波のように広げていた思念が、阿修羅の足元に届いた。それはしっかりとした意識を持っている。
『わからない。牢屋のような所だ。窓がないから地下かもしれん。おまえは無事なのか? 白龍は?』
元気そうなリュージュの思念にまずは胸を撫でおろす。
「白龍は……、大けがを負った。私のせいだ。宝賢の光の攻撃でやられたんだ」
私のせい。という言葉がリュージュは気になった。それでなくてもいつもの溌溂とした阿修羅の声じゃない。白龍の怪我が相当重いことが窺えた。
『ここは、戦場だ。白龍もわかっているよ。宝賢の攻撃は、雷光と言う鏡から発せられるんだ。俺もまともに喰らったが、ナーガのおかげで復活した。すぐにも白龍を治療するから、心配するな』
声ではなく、体に直接届くその言葉は、彼の優しさをそのまま阿修羅に届けていた。まるで龍王の治癒力のように癒されていく。ふと思いついた阿修羅は、リュージュの思念波がどこから流れてきているのか見当をつけた。
「リュージュ、このままおまえの思念波をまっすぐ伸ばすことはできるか? 出来れば扇型に広げていって欲しい。かなり遠いが、白龍に届けば治療ができるかもしれない」
『なるほど。やってみるよ』
リュージュの気がさっきより強くなった。一方向に定めたため、流れ出るエネルギーが多くなったせいだ。おかげで、さっきより明確に気の流れ出る位置がわかる。
「私はおまえの気を辿って、そこに行く。待っていてくれ」
阿修羅は音を立てずに、だがさっきよりも確実に力強く、前方に暗く続く廊下を進んで行った。
屋敷にいたほとんどの夜叉が森の探索に行っているのか、なかにあまり兵は残っていなかった。出来れば立ち回りはしたくない阿修羅は、身をひそめながら進んでいく。どうしても相対しなくてはならない夜叉には、背後から忍び寄って口を塞ぐと首を狩った。
どんどんリュージュの気が強く感じるようになっていた。もうあいつの場所まで近い。そう思うと走り出したくなるような気持ちになった。胸のなかで心臓は大きく波打って、阿修羅の耳にうるさいくらいに響いている。
階段が見えてきた。どうやらここを降りればリュージュがいるようだ。慎重に阿修羅は左右を確認する。この階段を抑えられると脱出が難しくなる。もはや早鐘のように打ち出した心臓を無理やり抑え、階段に向かった。
先ほどまでのせわしない足音や人の気配が静かになっている。白龍は阿修羅が辿った足取りから、敵の捜索をかく乱していたことを知った。
「余計なことをしますね。でも、助かりました」
「え? 何か言った?」
まだ少し怯えているクルルが白龍の顔を覗く。
「大丈夫です。しばらくはここに誰も来ないでしょう」
安心させるように白龍は微笑む。クルルはいくらか安心したように頷いた。
「ねえ、聞いていいかな」
二人きりになったしばしの沈黙が耐えられないのか、クルルは小声で話しかけてきた。天然のくせ毛が混じった水色の髪は両肩で跳ね返っている。無意識にその跳ねてる部分に目がいく。
「ん? なんでしょう?」
「あの……、白龍もリュージュも阿修羅のこと好きなんだろ?」
クルルは木の洞の中、凹んだところに体を収めて、膝を抱えながら座っている。そのままの姿勢でそんなことを聞いてきた。
白龍はそんなクルルを見つめ、ふうっと息を吐いた。
「どうしてそんなことを? まあ、言う通りですけどね」
「やっぱり……」
膝を抱いたまま、両足でぽんぽんと土で蹴る。クルルのふんわりしたパンツが土の上を擦って裾を汚す。
「阿修羅は……、仏陀が好きなんだよ。いつも仏陀のことばかり考えてる。二人のことなんか、何とも思ってないから」
拗ねた子供のようにクルルが呟く。修羅王邸に来てから、クルルはずっと住人の様子を見ていた。二人が阿修羅を好きなのは、誰の目にも明らかだったし、二人も隠そうともしなかった。
だが、当の阿修羅は、二人を信頼はしていても、心はいつも仏陀にある。クルルはその様子が不思議で仕方なかった。いつかこの質問を投げたいとずっと思っていた。
そして今、その質問をなげてみたのだが同時にしまったかな、とも思っている。上目遣いで白龍を見ると、彼は寂しそうな顔で笑っていた。
「どうしたんですか? ヤキモチか何かですか?」
「ち、違うよ! 僕は、お、おまえ達が可哀そうだと思ってさ!」
「可哀そうでも、惨めでもないですよ」
かぶせるように白龍が言った。それは意思表示なのか、今までになく強い口調だったのにクルルは驚いた。やっぱりまずいことを言ってしまったか、と少し後悔する。
「ご、ごめん」
「あの人は、私にとってもリュージュさんにとっても特別なんです。唯一無二の存在と言ってもいい。彼女に会って、恋に落ちない自分を想像できません。それを言葉にして言えることに誇りさえ持っています」
木の壁にもたれながら、白龍は言葉を繋ぐ。命を賭しても惜しくない。それほどに思える人、それほどに思いを寄せられる人がいる。そのことこそ奇跡のようだ。出会えたことに感謝こそすれ、悔いも何もない。触れると熱く火傷しそうで、それでいて脆く崩れてしまう儚さを併せ持つ。
「報われたいと思わないと言えば、嘘になりますけれどね」
そこで一つ息をつく。白龍は少し熱くなったかな、と自嘲気味に笑うと、逆にクルルに問いかけた。
「クルルさんにはそういうお相手はいないのですか? 素敵なオス鳥とか」
「え? オス?」
神妙に聞いていたクルルだったが、最後の一言に思わず聞き直した。
「何を驚いているのですか? クルルは女の子でしょ? まあ、それを知ってるのは私だけかもしれませんが」
「あ……」
狐に包まれたような顔をして、クルルは白龍を見つめた。クルルのような種類の鳥は性別の判別が難しい。番いで飼ったつもりが、同性だったこともよくある話だ。
クルルは白龍同様人型に変化できるが、飼い主のカリティは小鳥の姿を愛したので、天界にいる間は人型になることはほとんどなかった。
加えて番いでもない子供の鳥だったことから、自分でも性別を意識したことがなくここまで来た。改めて言われてクルル自身が戸惑っていた。
「同じ獣人同士だからね。そういうことはわかるんで……、あ!」
白龍はふいに会話を途絶えさせる。
「なに? だれか来たの?」
体操座りをやおら解いて、ククルは身構える。
「いえ、違います。リュージュさんの思念波が届きました」
『白龍か?!』
リュージュの小さいが、しっかりとした意識の声が届いた。
「リュージュさん。阿修羅王には会えたのですね」
『まだ顔は見てないが、今向かってくれてる。白龍、どれくらいできるかわからないが治癒してみる。もう少しの辛抱だからな』
「助かります」
既に送られてくる思念波から、癒しの力を感じている。ほっとしたところにリュージュが続けた。
『それと……。阿修羅を守ってくれてありがとう』
ありがとう? 白龍はふっと鼻で笑うと、
「貴方に言われる筋合いはないですよ」
と返した。
波のような思念から、少しずつ白龍の体に暖かいものが流れていく。それは血管、毛細血管を通り、体の細胞の一つ一つに行き渡っていく。内臓にあった大きなしこりがほどけていく。痛みが引き潮のように去っていった。
つづく
また一話分が長くなってきています。汗)
キリのいいところと思っていますので、ご了承ください。