第三十二話 逃走
※これまでのあらすじ
修羅界の王、阿修羅とその部下、白龍とリュージュは、修羅界を揺さぶる「八大夜叉大将」の首領である宝賢、満賢の館に潜入する。捕らわれの身となっている『カリティ様』を救出するためだ。
しかし、潜入がバレたリュージュは宝賢の魔鏡の攻撃にさらされ捕まってしまう。
一方、阿修羅達は、カリティ様の所へ辿り着くが……。
クルルは勇んでカリティ夫人のところへ飛んで行った。夫人が赤い爪を煌めかせ優雅に指を出すと、クルルはそこに着地した。
「そこにどなたかいるのですね。少しお待ちください」
鈴を転がすような美声である。奥方様は南側の壁にある出窓をパタンと音をたてて開けてくれた。阿修羅はまるで重力がないかのように身軽にそこから入り、奥方様の前で傅いた。白龍もそれに倣う。
「カリティ様。修羅界の王、阿修羅と申します。お迎えにあがりました」
最大限の敬意を払う阿修羅の前で、ささっと衣擦れの音がする。ただ、妙なことにどこかで嗅いだことのある、ツンと鼻腔を刺激する強い匂いが漂ってきた。甘いといえば甘いが、強すぎるその香りは阿修羅の苦手なものだ。
不審な思いを持ちながら、頭をあげる阿修羅。そしてその目の前にあった光景に思わず声を上げそうになった。
「誰が迎えに来いって?」
襟元からは溢れんばかりの胸がこれ見よがしに露わになり、盛り上がる谷間が目の前に飛び込んでくる。その姿は妖艶というより、淫乱のほうが相応しい。
「ピー! ピピピッ!」
そして何よりも、指に止まっていたと思われたクルルは足を掴まれ、バタバタと羽を揺らしている。その目は『違う、違う』とでも言うように涙ぐんでいる。
クルルの慌てふためく様をあざ笑う、女の濃いアイライナーが瞳を下弦の月のようにかたどっている。お世辞にも控えめとは言い難い化粧を施し、真っ赤な紅を引いた唇は半開きになっていた。
「貴様は誰だ。カリティ様はどこにいる」
ゆっくりと剣の柄に手を持って行く。事態の深刻さを飲み込んだ白龍も、預かっていたリュージュの剣を早々と抜いた。
「ふん、情報によると散支は天界に捉われたってことだったけど、まさか、生きてるんじゃないだろうね。うるさいね! この鳥は!」
カリティに化けたと思われる女はクルルを床に投げつける。
「ピヒャ!」
「クルル!」
床に転がったクルルは気絶してしまった。慌てて白龍が駆け寄ろうとしたのを阿修羅が止める。
「構うな。気絶しただけだ」
白龍に聞こえるようにそう言うと、偽カリティに向けて剣をたてた。
「さあ、どうだろうな。今はそれよりおのれのことを案じろ。貴様が偽物であることは一目瞭然だ。大体、カリティ様がそんな下品なわけがない。さっさと本性現わしたらどうだ」
阿修羅はそう強気に吐きながらも、嫌な予感を覚えていた。さっきまで何の気配もなかったこの離れに、とてつもない殺気が充満してきている。
「下品? ご挨拶だねえ。そりゃ、私は趣味でやってるんだけどね。まあ、このままでも構わないんだけど……」
最後の『構わない……』からは、男の太い声に変っていた。
「う!」
綺麗なドレープのドレスはその折り目からピシピシと避けていき、豊満だった胸は筋骨隆々な肉体へと変化した。紫の髪に金色の目、大きく裂けた口からは牙が覗いている。
「満賢!」
白龍が叫んだ。その容姿は資料で見た満賢そのものだった。これほどの変化ができるのか、この夜叉は。二人は目の前で起こった事実に一瞬言葉を失った。
「おまえが送り込んだ修羅王軍の連中は兄者が既に捕らえた。おまえたちも仲良くそこに送ってやろう」
「なんだと!」
誰の目から見ても明らかなほど、阿修羅は激しく動揺した。
「ふざけるな! おまえ、私の部下に何かあったら許さん!!」
言うが早いが阿修羅は床を蹴って飛ぶと、剣を満賢に向けて振り落とす。
「阿修羅王!」
白龍が叫ぶ。血相を変えて飛び込んだ阿修羅を見て、言いようのない不安がよぎった。
天井を突き抜けるような高く乾いた音が響く。満賢が持つ巨大な矛と阿修羅の剣が火花を散らす。その瞬間、どこから湧いたのか、一斉に武装した夜叉達が阿修羅に襲い掛かる。
白龍は伸びてるクルルを拾って胸元に入れると、リュージュの片刃の剣で応戦した。しかし、数に勝る夜叉に対して慣れない剣での対戦は少々分が悪い。白龍は何とか阿修羅に近づこうと悪戦苦闘する。
手っ取り早い方法を思いついた白龍は剣を鞘に納め、そこら辺にある椅子やテーブルを夜叉目掛けて振り回したり投げ飛ばしたり。馬力自慢の白龍の一撃に、夜叉は吹っ飛んだ。綺麗に整理されていた広間は、様々なものが飛び散って見る影もない。
「おまえら邪魔するな!」
阿修羅は剣を縦横無尽に操り、襲い掛かって来た夜叉達を振り落とす。その合間を縫うように突いてくる満賢の矛から身を捩って避けると返す剣で急所を襲う。だが、敵も難なくその攻撃を防ぐと、間髪いれずに矛を薙いでくる。それをこれまた体を反り紙一重で逃げる。
「こいつ、出来る!」
久々に歯ごたえがありすぎる敵だった。阿修羅は危機感を覚えながらも、血が沸き踊るのを抑えられなかった。刃を突き付けあうごとに血が滾ってくる。周りの雑魚夜叉をほぼ撃退したころには、体中に纏う真っ赤に染まったオーラが炎のように燃え盛る。
「阿修羅王! まずい!」
白龍は残りの雑魚夜叉を何とか撃退すると、天馬に変化した。
戦いに魂を奪われるように阿修羅は満賢に向かっていく。剣と矛が突き付けあう度に耳をつんざくような金属音と火花が散る。二人とも呼吸もしていない。
お互いが放つ刃に手や肩、頬と細かな傷が刻まれる。その都度真っ赤な鮮血が上がるが、全く動じることもなく止まることがない。興奮によるアドレナリンで痛みも感じていないのだろう。阿修羅の目の色も表情も完全にトリップしてしまっている。
「ウッ!」
カランッという音とともに何かが床に散らばる。満賢の矛が阿修羅の胸元を飾る瓔珞を裂いた。同時に胸元につっと血の線ができる。だが、何事もなかったかのように瞬時にその矛を剣で払うと満賢に斬りかかる。振り落とされる寸前に頭を傾げる。紫の髪が舞い散る。
「なんの!」「させるか!」
再び矛と剣のかち合う音が部屋中に響く。
「やめろ、満賢! 下がれ!」「阿修羅王!」
白龍が叫ぶと同時に、空気を揺らすような太く大きな声がした。咄嗟に声のした方を振り向く。満賢の背後にいたのは、
「兄者!」
宝賢の声に満賢は我に返ったように、ほうっと息を吐いた。
「そいつの剣技に引き込まれるな!」
一瞬、満賢の矛の勢いが止まる。それを阿修羅が見逃すはずもない。
「もらったぁ!」
真っ赤に光る眼をして満賢の頭上に剣を振りかざした。その時、辺りが真っ白になり、全てが光に飲み込まれようとした。
「いけない!」
何が起こったのか分かったわけではない。動物の勘だったのかもしれない。この光を浴びてはいけない。白龍は咄嗟に阿修羅王の前に走ると、有無も言わさず主を背に乗せ、出窓に向かった。
背中に腹に足に翼にとてつもない痛みが走る。だが、そんなことに構っている暇はなかった。
窓を突き破り、白龍は空へと飛んだ。ちょうど阿修羅の瓔珞が作った結界の切れ目が見える。白龍は真っすぐそこへ突っ込んだ。
「何をする! 白龍!」
「黙ってなさい!」
その白龍の背後を、もう一度光が追ってきた。
「くう!」
月もない暗黒の空を舞う、白龍の白い肌も翼も、見る見るうちに赤く染まっていった。
つづく
白龍 @神谷吏祐先生