第二十八話 人質
私の心は初心なのさ。
ちょうどその頃、阿修羅の元にも夜魔天から連絡が入っていた。それはクルルからの身の上話で得た、白龍の推理を裏付けるものだった。
「人質を取られている?」
リュージュが驚きを纏った声で聞き返した。修羅王邸軍議室にいつもの三人が、磨き込まれた白い大きなテーブルを挟んで座っている。
「ああ。散支はそう言っているらしい」
「らしいってどういうことだよ」
どこか不服そうな質問に、阿修羅は慎重に言葉を選びながら答えた。
「これは夜魔天も言っていたことだが……」
夜魔天との連絡はアナログだ。使いの者が密書を届けに来た。画面を見ながらの通信はもちろんできるが、盗聴を恐れている。夜魔天との共通認識の一つに、おいそれと天界を信じないということがあった。もちろん最も用心しているのは天界ではなく、宝賢、満賢兄弟の陣営だったが。
「天界の神は気まぐれだ。連れ去られたところで、その相手とよろしくなるやつもいるんだよ」
天界の住人だった頃、散支は奥方を宝賢に連れ去られた。怒った散支は宝賢を相手に戦を起こした。だが、宝賢は弟の満賢と組んだために手ごわく、結果長期戦になってしまった。帝釈天や梵天の介入が必須となった時、旧知の仲だった夜魔天が待ったをかけた。
だが、仲裁に入った夜魔天に宝賢はこうのたまったらしい。
『奥方はこちらが気に入られたようで、帰りたくないと仰っております』
「そんなことがあるのかな」
阿修羅の説明を最後まで聞くと、不満げにリュージュが口にする。
「ああ、でもそれは、本当かどうかわかりませんよ。宝賢が勝手に言ってるだけかもしれない。少なくとも散支殿は信じなかった」
白龍が阿修羅の後を繋ぐようにそう言った。納得できなかった散支夜叉は、天界の仲裁を受け入れず、修羅界に堕ちることとなった。その経緯は夜魔天も納得している。宝賢、満賢兄弟の修羅界堕ちは夜魔天の提言を天界が受け入れた格好だ。喧嘩両成敗と言ったところか。
「そうだ。白龍の言う通り、修羅界に堕ちても散支は宝賢に奥方を返すように迫っていたようだ」
「じゃあ、宝賢はそれを逆手に取ったということか?」
阿修羅と白龍は同時に頷いた。
「散支に奥方を返してほしければ一緒に戦えと言ってきたらしい。散支は、やはり奥方は捕らわれていたと確信したが、彼の思い込みを宝賢が利用したとも考えられる」
ちなみに浄玻璃鏡ではそこのところ、よくわからなかったらしい。散支は奥方と会わせてもらっていなかった。
「散支夜叉の思い込みじゃないさ」
リュージュが小声で、しかしきっぱりと言った。
「ん? どうしてだ。単なる勘か?」
阿修羅がリュージュの顔を覗き込んで聞き返す。顔を傾けた時に、束ねられた長い髪が後ろではらと揺れ落ちる。白いテーブルの光に照らされて一瞬きらりと光った。
「違うよ。散支がそんなに思っている人なんだ。簡単に裏切るような、そんな女じゃないように思う。会わせないのもそのためだ。芝居ができるなら、会わせてる」
揺れる髪に目を奪われながらそう答えると、白龍がからかうわけでもなく至って普通に応じた。
「見かけによらず、初心なこと言いますね」
「見かけによらずってどういうことだよ! おれは見かけも心も初心だよ!」
ちょっとむくれた様なリュージュの言葉に、阿修羅と白龍の二人が顔を見合わせた。が、彼はそれにも構わず、ゆっくり、言葉をこの空気の中に刻むように続けた。
「一途に本気で思ってたら、絶対相手にも通じる」
阿修羅の顔をちらりと見る。その一瞬のまなざしは言葉よりも多くを語る。白龍は弛緩した口元を引き締める。だが、肝心の天然系美少女は、ぽかんとしていた。
「いや、でも一理ありますね。クルルの話でも、奥方様は散支殿を大切にされていた節がありました」
不意に訪れた気まずい沈黙を破るように、白龍がリュージュの意見に賛同した。彼の心情はともかくその見方は正しい。
沈黙の理由が理解できていない阿修羅は、また右手を唇のところへ持っていっている。指で挟んで、思慮を巡らせているようだ。もちろん、宝賢、満賢兄弟の攻略について。
三人の前には、白龍が煎れた紅茶が既に湯気をあげなくなったまま置かれている。気恥ずかしさを鎮めるように、リュージュはそれを一気に飲み干した。
「人質がいると想定して、攻めるか……」
阿修羅がひとり言のようにつぶやく。ふっと息を吐くと腕組をし、軍議室の固い椅子の背もたれにどっぷりと浸かるように体を沈めた。
宝賢、満賢兄弟は、西の区画に広大な土地を持っている。悪鬼神の中でも最上位の扱いだ。ここを攻めるにはかなりの戦力と戦略がいる。そこに人質までいるのは難関至極。
さすがの阿修羅もすぐにはいい案が浮かばないようだった。一人、沈思黙考の世界へと入っていく。
「ところで、奥方様の名前はなんていうんだ?」
物思いに更ける阿修羅の手元にあった密書を、ひょいと取ってリュージュが聞く。
「ここにありますね。『カリティ』様だそうです」
阿修羅に代わって白龍が密書を指さす。その指先を見て、リュージュは独り言のように呟いた。
「ここに堕ちてからも随分と長い時が経っているんだな。神様って気が長いよな」
「百万年くらい余裕で生きる方たちですからね。むしろ寿命があることが不思議ですが」
阿修羅も寿命があるのだろうか。リュージュの脳裏にそんな思いが浮かんだ。自分はあと何十年かしたら、また人間界に転生する。人間界での一生を終えたら、また六界のどこかへ修行に出される。そしてまた人間界に転生だ。
『龍樹』という偉い坊様になるまで、4回の転生が必要と言われていた。気が遠くなるような年月だ。
――――俺が阿修羅と一緒にいられるのは、今回限りなのかな。また転生したら会えるんだろうか。阿修羅は人間界には転生しないだろう。仏陀とともに永遠に輪の外にいるのか?
考えても仕方ないことだが、こうして供にいる時間は限られている。今がとても貴重で大切な時間だということを今更ながら思う。
「リュージュ、どうした? ぼーっとして」
いつの間に沈思黙考が終わったのか、阿修羅が光を集めた赤い瞳で自分の顔を覗いている。金色の耳飾りが目の前で揺れる。その無防備な表情にリュージュは心の中でため息をついた。
「あ、いや何でもない。何か妙案は思いついたのか?」
「そうだな。なくもない」
そう言うと、顔色を伺うように白龍を見上げた。その小悪魔的な視線を感じて、白龍は苦笑いしながら、
「ろくな案じゃなさそうですね」
と肩をすくめて言った。
つづく