第二十一話 屈辱
夢見る少女じゃいられない。
一方、修羅王軍が攻めてきた頃、中庭にいたサンチラたち敵本陣は、既に臨戦態勢で阿修羅達が本部に雪崩れ込んで来た様子を見ていた。中庭と言っても、競技場トラックが十分入るほどの広さである。緑に覆われた小さな池やベンチはもちろん、体を動かすためのアスレチック器具なども置かれていた。隊員の憩いの場であった場所も、今は武装した夜叉達が敵の到来を迎え撃つ殺伐とした風景が広がっていた。
夜叉の軍は、修羅王軍が建屋に入ってきたら挟み撃ちにする手筈を整えていた。このような狭い建物での戦いだ。多勢がいいとは限らない。修羅王軍のはるか後方に、もう一つ軍を敷いていた。それこそが無比力の本隊だった。だが、その計画は最初から頓挫することになる。
「行けえ! 本陣はすぐそこだ!」
本陣の背後をつく、リュージュの隊が中庭に流れ込んできたからだ。
屋上にいたカルラは、阿修羅達が前進したのを見るとそのまま裏門へと走った。そして扉を開けると、リュージュ率いる別働隊を迎え入れる。三百を超える修羅王軍別働隊が本陣の後ろを突いた。
阿修羅は自身の本隊をおとりに、軍を三つに分けていた。一つはカルラ達の急襲隊。そしてもう一つはリュージュが率いる別働隊である。
別動隊の参戦により、中庭で乱戦が勃発。阿修羅達を挟み撃ちにすることは叶わなかった。その事実を後方で知った無比力夜叉は、舌打ちをして後退していった。サンチラの軍が見放された瞬間だった。
阿修羅率いる本隊が中庭に入った時には、雌雄は既に決していた。リュージュの隊に傷めつけられた夜叉達がそこらじゅうに散らばっている。残るはサンチラたち大将級だけだ。
「阿修羅! こっちだ!」
リュージュやカルラ達がサンチラたちに迫っている。じりじりと間合いを詰め、すでに詰んでいるといっても過言ではない状況だった。
「おまえがサンチラか。人型も人相が悪いな」
阿修羅が、白龍の背の上から言った。体はさほど大きくない。しかし、ねめるような目は、冷血動物のそれのように冷たく光っている。
「阿修羅王か。先日はどうも」
その声は、間違いなくあの時に聞いた声だった。阿修羅は一瞬鳥肌が立つ。
「ひひひ、おまえ、俺が怖いだろう」
敵に囲まれ、既に絶対絶命なのに、なぜか余裕があるサンチラ。イヤラしい、舐める様な目で阿修羅を見るとこれまた下卑た笑い声を立てた。
「なんのことだ。冗談はよせ」
そう言うと白龍から飛び降り、阿修羅は改めて剣を下段に構える。しかし、剣を握る手にはなにか嫌な汗が滲んでいた。
「この蛇野郎、そんな目で阿修羅を見るな!」
リュージュが隣でサンチラを睨みつける。修羅王軍三百騎ほどに対して、サンチラたちは十数名。誰が見ても観念した方がいいに決まっている。
「ふ、そう焦りなさんな。そうそう、こんなのが、飛んできてたよ」
ピンっと指をはじくと、後ろにいたサンチラの部下が箱をかざした。
「ピピピピッ!」
箱の中には、水色の羽が綺麗な小鳥がバサバサと暴れていた。
「ピーちゃん!」
阿修羅達が同時に叫ぶ。
「俺はこういうの好物でね。丸のみだよ」
「やめろ!」
後ろにいるヤツの部下たちも同じ類なのだろうか。目の形が横になった三日月のような爬虫類系が何人かいる。感情の無い、負けが決まっていても体温の低そうな嫌な連中である。
「おまえ、この期に及んで、せこすぎだろ! 助かると思ってんのか!」
「おまえ達の鳥だろ? こいつがウロチョロしてたの、わかってたよ。私が阿修羅王の部屋に入った時も邪魔してくれたからね。ほら、あの夜だよ。いい夜だったねえ」
まるで呪術にでもかかったように、阿修羅はサンチラの言葉に怯む。いつもの自信満々の言も出てここず、金縛りにあったかのように動けなくなってしまった。
「野郎! 許しちゃおけねえ!」
そんな阿修羅の様子を見て、我慢しきれなくなったリュージュが飛び込む。両手で片刃の剣の柄を力を込めて握った。
「ピッ!」
「どうれ」
サンチラは箱の中からピーちゃんを掴み、今まさに呑み込もうとする。
「ウゲッ!」
その瞬間、白いものがサンチラの腹に体当たりした。衝撃に耐えれず、緩んだ手から、水色の鳥が宙に舞った。白龍がとてつもない速さでサンチラに突進した!
「白龍!」
「死ねえ! この蛇野郎!」
白龍の突進でたまらず倒れたサンチラ目掛け、リュージュが片刃の剣を降り下ろした。やった! と誰もが思った。だが、リュージュの刃の下には鎧だけがあった。
「何?」
「きゃああ!」
背後で悲鳴が聞こえた。今まで聞いたことのない悲鳴だ。驚いて後ろを振り向くリュージュや白龍達。自らが大蛇に変身したサンチラが、阿修羅を今にも襲おうとしていた。あの夜の憑代よりも倍ほど大きく長い化け物だ。これこそサンチラの本体なのだろう。
「阿修羅、危ない!」
取って返そうとしたリュージュと白龍、だがサンチラの部下たちに行く手を阻まれる。それにも構わず必死に前に進もうとするが、大蛇はもう阿修羅に向かって鎌首を上げている。
赤い目と赤い二又に割れた舌、大蛇は大口を開いて、阿修羅の目前に迫ってくる。
――――う、動けない……。
蛇に睨まれた蛙のように体が竦む。剣を持つ指が震えた。それは恐怖のためではない。辱めを受けた屈辱だ。あの夜、大蛇に何も纏っていない全身をなぞられた感触が頭から離れない。まるでレイプされた少女のように硬直してしまう。
赤い目が阿修羅の首元にロックオンされる、その時だった。突然聞き慣れた声が全身を覆った。
――――阿修羅! 目を背けるな!
――――シッダールタ!?
頭の中にシッダールタの声が鳴り響く。自分の体がその声に共鳴する。
――――私が供にいる。斬り落とせ! こいつは絶対許さん!
その刹那、阿修羅の中に大きな力が漲った。さっきまで震えていた指先もしっかりと剣をとらえ、上段の構えに入る。
「て……めえ! ぶっ殺してやる!」
阿修羅が言ったのか、それとも……。
震えていた指も動けなかった体も突然沸き起こった力が漲り渡る。阿修羅はその力に身を任せるよう、上段の構えから一気に剣を振り落とす。
大蛇の頭から入って、長い胴体を通り、尾に達する。阿修羅の剣はその身体を二つに裂いた。斬った端から血飛沫がほとばしる。返り血を存分に阿修羅は浴びた。
断末魔の声を上げ、砂袋を叩きつけるような音を晒して大蛇は地に落ちた。二つに裂かれたまま、ぴくぴくと動いている。
「ち! 気持ち悪い。ちっくしょう! この蛇野郎、ぼけ!」
悪態をつきながら、蛇が二度と復元しないようにぶっ刺しまくる阿修羅。いつかは復元するだろうが、ここまで細切れにしたら、復元するのに相当年月がかかりそうだ。
「阿修羅、大丈夫か!」
サンチラの部下たちを討ち取ったリュージュが駆け寄る。だが、目に飛び込んで来た人物の登場に「あっ」と小さく驚きの声を上げた。
そこには仏陀がいた。阿修羅と共に大蛇を退治した彼は、そのままこの場に留まるべく姿を現していた。
仏陀はいつものインド風の青い袈裟でなく、何故か修羅王軍の鎧と似たような武具を付けている。戦場と化したここでは、袈裟は目立つと思ったのだろうか。
「この気色悪い奴をすぐに回収しろ!」
阿修羅の号令で、修羅王軍が動く。粛々と斬られたモノを回収していく。大蛇の屍が回収され安心したのか、ふっと息をつくと阿修羅が仏陀の方に顔を向けた。
「シッダールタ、ありがとう。ちゃんと約束を守ってくれたのだな」
「約束は守るよ」
仏陀は優しげな笑顔を見せ、阿修羅の頭、ちょうど髪を束ねたあたりに手を置いて弾ませた。武具を付けると、まるでその姿は往年のシッダールタ王子そのものだ。鎧は前掛け型なので、肩や腕のほどよい筋肉が誇らしげに見える。
「おまえ、知っていたのだな。私が襲われた夜のこと」
仏陀の大きな手のひらを頭上に感じながら、阿修羅が消え入りそうな声で言った。
「ん? なんのことだ?」、と、仏陀はとぼけたように言うと、「今日はもう人間界に帰らないと。また修羅王邸に行くから」
と続けた。
阿修羅は仏陀を仰ぎ見る。修羅王軍の鎧が良く似合う。逞しい腕が眩しい。
「あ、ああ、わかった。本当にありがとう」
今来たばかりなのにもう帰るのか。少し寂しい気持ちもしたが、見られたくないところを見られたような気恥ずかしさもあった。複雑な想いが整理できない阿修羅の細くて長い指を取って、知ってか知らずか、仏陀は自分の唇に持って行く。
「じゃあね」
手の甲にキスをすると、すっと消えてしまった。空を掴むかっこうになった自分の手を、阿修羅はしばらく見つめていた。
「助かりましたね」「お疲れ」
仏陀が去ったのを見計らって、人型に戻っていた白龍とリュージュが阿修羅の元に戻って来た。周囲では修羅王軍の兵たちが戦闘不能の夜叉達を回収し、土煙と怒声という喧騒に包まれていたが、二人の表情は湖面のように穏やかだった。
「ああ、恥ずかしいところを見せてしまったな。おまえ達もよくやった。とにかく本部を取り戻せた。良しとしよう」
「いや、俺たちが間に合わなくて、こっちのが恥ずかしい」
リュージュが小声で言った。白龍にははっきりと聞こえたが、その言葉は阿修羅の耳に届いたのか。彼女に今まで聞いたこともないような悲鳴を上げさせ、二人は何とも言えない苦い思いを味わっていた。
阿修羅は剣についた血を払うと、音もたてず鞘に戻した。
「ピピピピッ」
ふいに彼らの頭上、高らかな歌声が響き渡る。みな一様に空を見上げた。修羅界の灰色の空に、水色の鳥が楽しそうに舞い飛ぶ。まるで曇り空に覗く青空のようだった。
つづく
イラストは神谷吏祐先生から
ロゴは草食動物様から
ありがとうございました。