第十一話 残酷な天使
密厳夜叉は結界や流動といった、空間を操る術に長けていた。
元はと言えば、天界のある王に仕えていた武将だ。士気も高く、誇りも持っていた。
だが、何百年も続く太平の世。ちょっとばかり退屈した。そして、好きになってはならない女神に恋をした。得意な空間を操る術で、愛しい人のところに入り浸る。逢瀬のときは結界を張って人を寄せ付けない。
相手は自分のことなど便利な遊び相手にしか思っちゃいないのに、どんどん嵌って、後戻りできなくなっていた。ついには彼女の夫にバレて、自前の兵とともに戦を起こす羽目になる。勝てるわけないのに。
『勝ったらおまえのものになってあげる』。女の戯言を信じて。
醜くはないにしろ、異性にそんなことを言われたことがなかった密厳。美しく妖艶なその女神の言葉に身の程を忘れ、勝ち目のない戦でも必死に食い下がって戦った。
だが……。見事なまでに惨敗し、兵と共に修羅界に堕ちた。
それから気の遠くなるような年月を経たある日のことだった。驚くことに、戦った相手の男から声がかかった。「修羅界を手中に収める。手を貸して欲しい」と。
密厳にとっては願ってもない話だった。
女については、もうとうに吹っ切れていた。彼女は端から密厳が勝つとは思っていなかった。退屈しのぎに戦が見たかっただけだ。自分を巡っての争いを。
女の夫は天界で名の知れた王だった。どう足掻いても勝てる相手ではなかったのだ。だから、その男から声をかけられたのは惨めでもなんでもなく、むしろ光栄だった。
密厳は喜んで配下に降った。どうせ、このままでは天界に戻ることは叶わない。それなら、この男について修羅界を手に入れ、天界へ戻るのもアリだと。
「あ! ここは? ここはどこだ?!」
リュージュは自分が今までいたところと全く違う場所に来ていることに気付いた。何かに吸い込まれたような感じがして、そして吐き出された。
どうやら密厳邸のどこかにあった流動の跡に入り込めたのだろう。十畳ほどの天井の高い部屋。リュージュはきょろきょろと辺りを見渡す。
「ん? これなんだ?」
黒く光るテーブルがある。側に寄ってみるとモニターになっていることに気付いた。
「あ! 阿修羅、白龍! て、おいお前なにして!」
そう言いかけた時、ガツンと何かが自分の体にぶつかって来た。
「だれだ!」「何者!」
二人は同時に叫んだ。
「おや、おまえは阿修羅んとこの元人間じゃないか」
リュージュにぶつかった男はそう言って口の右端を釣り上げた。
「貴様は誰だ? 今、流道を通ってきたな。おまえか、空間を操る術師は」
リュージュは剣の柄を握り、臨戦態勢を取る。
「術師? ふざけるな。そんな術は私のアクセサリーにすぎんわ。ふうん、おまえ……」
物珍しそうに男はリュージュを見下ろす。元人間を馬鹿にするこの男は体がリュージュの倍ほどでかい。武具の合間から覗く筋骨隆々の肉体が、存在感を出している。
「ショウトラを殺ったのはおまえか。なるほどな」
「なんだよ! ああ、俺が首と胴体を分けてやったぜ。そうか、貴様が密厳夜叉か」
「だったらなんだ?」
密厳は流道を通って、この場所に帰って来た。阿修羅達の様子が気になったからに他ならない。
「来い!」
密厳がそう叫ぶと、どこからともなく長さ二メートルほどの矛が現れた。それを右手で受け取り、一振りする。
矛の刃は太く長い。切れ味もよさそうだ。リュージュは後ずさりして間合いを取る。
「ふん、いくら龍の加護があったとしても、人間ごときに殺られる私ではないわ!」
「な、龍? 何言ってるんだ、アホか! 元人間をなめんな!」
リュージュの方こそ何を言ってるのかわからないが、とにかく挨拶は終わった。
「死ね!」
鋭い矛先をリュージュに向けて振り下ろす。リュージュは転がってそれを防ぎ、回転を利用して起き上がると、相手の懐に入る。
「無駄だ! 遅いわ!」
しかし、足で蹴られて壁に叩きつけられる。ショウトラとの闘いで痛めた背中と腰、体中が悲鳴を上げる。
「くそ!」
びゅんびゅんと音を鳴らして頭上で矛を振り回す。ずりずりと壁を背にしてリュージュは立ち上がった。
――――ここまで来て、やられてたまるか!
再び振り下ろされた矛にリュージュは片刃の剣で応戦する。乾いた音が狭い部屋に響き、火花が散る。受ける刃は重く、腕が痺れてくる。
「ふふ、ほらほら、どうした?」
密厳は楽しむようにじりじりと矛をリュージュに押し付ける。両手で剣を持って耐えるが、脂汗がしたたり落ちる。
力比べしても無駄と見切りをつけたリュージュは、体をねじって矛先から逃げる。そして間髪入れず密厳の頭上に飛ぶ。
再び、二つの刃がたたき合う。狭い部屋での攻防はまだ始まったばかりだった。
――――い、いったい何がどうなってるんだ。や、やめろ……。
阿修羅は目を開けたまま、白龍のキスを受けていた。自由になっている左手でおずおずと肩を押す。だが、その瞬間、すごい形相で飛び込んでくる者がいた。
「おまえ、阿修羅から離れろー!」
そいつは白龍の後ろ襟をつかむと乱暴に阿修羅から引っぺがした。
「シッダールタ!」
「阿修羅!」
空間を裂くように、突然現れたのは仏陀だった。白龍を退け、阿修羅の姿が見えると鬼の形相はあっという間に安堵の顔になり、阿修羅を抱きしめる。
「全く、世話がやけますね」
仏陀になぎ倒された白龍は呆れた様子で二人を見る。
――――ま、ちょっといい気分させてもらいましたけど。
何が起こったのか。白龍のあれは何だったのか? 混乱はしていたが、とにかく会うことができた。阿修羅は仏陀の温もりを感じながらほっと胸を撫でおろした。
すると、それまでこの世界を覆っていた景色が音もなく崩れていった。
「お、結界が破れましたね」
ぱたぱたと砂ぼこりをはたきながら、白龍が起き上がる。そこにぼんやりと見えてきた光景は……。
「おい! これどういうことだよ! 俺が死闘を繰り広げてるってのに!」
外野お構いなしで再会の喜びを体現している二人は、密厳とリュージュが刃を突き付けあう部屋に突然現れた。ついでに白龍も。
「なんでこうなるんだよ!」
リュージュ、もはや涙目である。
「なに、阿修羅! 結界が破られたのか!? まさか!」
今度は密厳が叫ぶ。その声にようやく気が付いた二人は名残惜しそうに体を離す。阿修羅はゆっくりと密厳の方を振り向いた。
「ふん、おまえが密厳か。まあまあ良くできた結界だったよ。舞台装置もなかなかだったしな」
つい今までの甘い雰囲気をさくっと脱ぎ捨て、戦闘モードへ早変わり。阿修羅は音もさせずに剣を抜いた。久しぶりの戦闘に、元々赤く染まっていたオーラがさらに燃え盛り体を纏う。
「リュージュ、ご苦労。休んでていいぞ」
その言葉に、色々傷ついていたリュージュはむっとする。
「すっこんでろよ。こいつは俺が殺るから!」
「うん? どうした? 何か怒ってるのか?」
全く男の気持ちなど何もわかっていない阿修羅である。
「畜生!」
そう言ったのは密厳だった。自ら作った流道で逃げようとする。
「あ、待て! この野郎!」
3人は同時に動く。流道に入られると後が面倒だ。すると丁度いい位置にいた仏陀が、さくっと流道を閉じてしまった。
「何しやがる! こいつ!」
矛を仏陀に向かって振り落とす密厳。だが、彼は元々武将。何事もなかったようにかわす。
「うわ、き、貴様! コケにしやがって!」
バランスを崩した密厳がそう悪態をつくと、四方囲まれていた壁がすっと消えた。この空間も密厳の術で作られたものだったようだ。
「敵襲だ! 出てこい!」
壁がなくなると、それはどこかの高原のような場所だった。夜叉軍が駐屯しているのか、いくつかのテントが目に入る。密厳の声を聞きつけて、テントから夜叉達がわさわさと出てきた。
「まだいたのかよ! 撤退した連中の残党か?」
リュージュが驚いて周りを見回す。
「そこの元人間、何か勘違いしてないか?」
多勢に無勢になった密厳夜叉は、笑いながら言った。
「夜叉の軍は7万を数える。おまえがさっき殺ったショウトラの隊などその百分の一にもならん」
「おまえ、ショウトラを殺ったのか! 凄いじゃないか!」
阿修羅が変なところで口を挟む。
「話を聞け!」
密厳夜叉はここが決め何処とばかりに声を張り上げた。
「私は八大夜叉大将が一人、密厳夜叉大将だ! おまえ達のような虫けらにやられはしない!」
「八大夜叉大将?」
阿修羅の瞳が輝いた。それは好奇と期待に満ちた危ない輝きだ。
「そうか。へえ。それは楽しそうだな。で? 大将が八人もいるわけだから、束ねている奴もいるよな。それは誰だ?」
密厳は驚きもせず、むしろ楽しげに聞いてくる阿修羅に戸惑った。
「そ、それは……」
「貴様のような大将を八人も束ねるのだ、よっぽど力のあるお方なのだろう? おまえのボス、誰だよ」
なおも阿修羅は尋ねる。詰問ではなく、知りたくて仕方がないというように。実際そうなのだろうが。
「い、言えるか! 皆の者、こいつらを八つ裂きにしろ!」
密厳もそこは耐え、代わりに号令をかけた。集まってきた夜叉共は一斉に動き出す。
「ち! つまらんな。リュージュ、いくぞ!」
「ああ!」
まだ少しむくれていたが、ショウトラを殺ったことに阿修羅が喜んでくれたのが嬉しかった。単純な男だ。それに一人で密厳を叩くのは、正直厳しかった。阿修羅が戻ってきたことで安心もした。自然と力が漲ってくる。
「一気に決めるぜ!」
二人は互いにニッと笑って、密厳夜叉に向かっていった。
つづく
たまにはイラストあげ
@神谷吏祐先生