第十話 結界の歪み
白龍! ちょ、おまえ! の回
「起きられましたか? 王」
眩いばかりの朝日が窓から差し込んでいる。近くを流れる川の音が空気を揺らし、ここが偽物の世界であることを忘れさせた。
「ああ。よく眠ったよ」
阿修羅は白龍から渡された手ぬぐいで顔を拭く。
「シッダールタが私を探していた。だが、まだ見えないようだ」
リュージュがショウトラ軍に大勝利を挙げていた頃、阿修羅達はまだここに閉じ込められ、朝を迎えていた。
「結界は、私も張ることができる。術師にも寄るが、普通なら結界を張るには起点が必要になる」
「そうですね。そしてその起点が最も結界の弱いところです」
阿修羅は白龍の顔を見上げる。流石、何でもご存じだ。
「その通りだ。ここが私の作った精神世界なら、必ず起点は私の記憶に起因する」
深く頷き返す白龍。
「そうなると、あそこしかありませんね」
阿修羅は剣を腰の帯に取り付ける。
「行くぞ。砂漠へ」
「はい」
白龍は天馬へと変化する。二人は懐かしくも切ない、あの日の砂漠へと向かった。
乾いた砂が風に運ばれていく。
さらさら、さらさらと音をたてて、目の前を通り過ぎていく。ここだけは、何千年も変わることなく同じ景色を繰り返しているように。
「暑いな……」
阿修羅はつい唇から漏れたようにつぶやいた。白龍に乗ってこの世界の空を翔ける。ものの数分で、この地についた。
かつて、まだ人間として生きていたころ、阿修羅はここで殺された。あの日も灼熱の太陽が大地を焼いていた。
阿修羅は文字通り敵の毒牙にかかり、当時まだシッダールタだった仏陀の腕に抱かれて息を引き取った。シッダールタを救うためその身を挺した結果だ。
でも、後悔はなかった。また会えると信じていたから。
その時白龍は、まだ馬のままで主が死にゆく姿を見つめることしかできなかった。どれほどの感情がその時にあったか。思い出すと針で心臓を刺すような痛みを感じる。
「感傷に浸っている時間はないな。もたもたしていると、修羅界がまずいことになりそうだ。リュージュが持ちこたえているとは思うが」
口にして、リュージュのことが阿修羅の脳裏をかすめる。
――――あいつ、一人で大丈夫かな?
「しかし、明らかにこの風景はおかしいですよね。なんでこうなっているんでしょう」
既に人型に戻っている白龍が、目の前の情景を見ながら首をかしげひとり言のように言った。
「術師がここを起点に結界を結んだのは間違いない」
ひとり言には応じず、阿修羅は断言した。
「そうですね。はい、私もそう思います」
人の精神という、とてつもない広さを閉じ込めた結界だ。起点には心の持ち主の強い念があるはず。術を発生させるにおいて、その礎は、本来の景色とは違ったものを見せる。夢の中で、あるはずもない光景、物事が起こるのと同じだ。
阿修羅が前世で命を落としたこの場所にも、あってはならないものが整然と姿を現していた。
「て言うか、明らかにおかしいですよね。砂漠の真ん中に大きな菩提樹が端然と生えてます。気付いてますよね?」
呆れたように白龍が、菩提樹を指さして声に出した。
「う、うるさいな。どちらも私には大切な場所なのだ。私が命を落とした場所と、シッダールタが悟りを開いた場所なのだから」
仏陀が菩提樹の下で瞑想し、悟りを得たのは有名な話である。だから、『菩提樹』というキーワードは阿修羅にとって特別な意味を持つ。
「でも菩提樹は砂漠の真ん中にはないですよ」
ただ、彼が悟りを得た菩提樹がどこにあるのかは知らなかった。死と再生が阿修羅の意識の中で近くにあったことが、彼女のこころの地図はこの風景を作ったのだろう。
「どこにあるかは知らなかったから。ここと直結したのだろ。さあもう余計なおしゃべりは終わりだ。始める!」
ぷいっと白龍から顔をそむけ、照れ隠しのように大きな声を出した。阿修羅は集中し、瞬間、全身のオーラの熱量を上げた。
確かにのんびりしている場合ではない。白龍も口を閉じて阿修羅を見守った。
その頃、密厳夜叉はとある場所にいた。
その場所は暗くどんよりとした修羅界とは打って変わって、美しい音楽が常にながれ、芳香な香りが漂う光り輝く場所だった。
「密厳、順調のようだな」
部屋にのしのしと誰かが入って来た。太くて低音の声が頭の上から聞こえる。
「はっ、阿修羅はそのうちあの『追憶の牢獄』に同化していくでしょう。白龍が一緒に行ったのは想定外でしたが、まあ、所詮馬ですから」
密厳は首を垂れたまま答える。所詮馬とは、言われようである。
「修羅王軍もそろそろ壊滅の報が入ってくると思います。今しばらくお待ちください」
ここでようやく頭を上げ、よせばいいのににこりと笑う。そして、王と呼んだ男の顔を見て、笑みは凍り付き、一瞬で血の気が引いた。
身の丈2メートルはあるだろうか、豪奢な鎧をまとった男は頭から蒸気を上げるほど怒っていた。
「ほほお。どこの軍が壊滅したと? 今入った連絡によると、夜叉軍は撤退して、ショウトラは討ち取られたとのことだぞ!」
「えええ!」
密厳夜叉は文字通り飛び上がった。
「ショウトラは首と胴体を別々にされて、帝釈天様のところへ送られたそうだ。おまえ、こんなところでお茶飲んでる場合か?」
「あ、いえ、お茶はもらっておりませんが」
今、絶対に言わなくてもいいことを言った。だが後の祭りである。
「とっとと、ここから出ていけ! 事態を収拾しろ!」
王と呼ばれた男は顔を真っ赤にして激怒すると、本気の雷を落として密厳を蹴りだした。
「ぎょ、御意のままに~!」
密厳は転がるように部屋を退出した。いつもの決め言葉を残して。
場面は変わって、修羅王邸で瞑想する仏陀。阿修羅達が砂漠に着いた頃から、細いが糸のように流れてくる彼女の『気』を見つけることができた。
――――ここを辿れば、阿修羅のところへ行ける。よし、いけるぞ!
仏陀はそこが砂漠とは気が付かなかった。だが、全く感じられなかった阿修羅の気を微かに触れることができた。この感触を大事に留めながら、手繰り寄せる。
徐々にではあるが、その感触は大きくはっきりとしてきた。
一方、夜叉軍を撤退させたリュージュはカルラ達とともに密厳邸に来ていた。阿修羅達が消えた扉の向こうは、普通の応接室のような部屋に変わっている。流道らしきものもなく、痕跡を見つけることはできなかった。
『目に見えているものが真実ではない』
仏陀の言葉を思い出すリュージュ。
――――俺にできるだろうか。いや、自信を持とう。俺は阿修羅を守りたい。
リュージュは部屋の真ん中で座禅を組むと精神を集中させ、意識を海が伝える波のように静かに広げていった。
――――波よ、広がって行け、静かにゆっくりと、隅々まで行き渡れ。そして感じろ、悪意の異物を……。
音もなく波は部屋から広間へ、館の隅々まで渡っていく。波はときに、静かに這う龍のようにも見えた。
「リュージュ殿!」
リュージュの側にいたカルラが叫んだ。部屋の真ん中で座るリュージュの体の一部が消えている。慌てて手を伸ばして触れようとすると、穴にでも入ったかのように忽然と消えてしまった。
阿修羅と仏陀はお互いを呼び合った。そのことがこの結界を破るのに一番の近道と気が付いたからだ。だが、それは簡単にはいかなかった。お互いの気配を感じるまではできるのに、実態をつかめない。張られた結界の強さは認めざるを得なかった。
阿修羅は菩提樹の下で、自らのオーラをたぎらせる。そしてわずかな空間のひずみにそれを流し込んでいく。だが、すぐにはねつけられる。
白龍はかたわらでその様子を見ていたが、一向に溶けぬ裂け目に焦れていた。
――――何かお役に立つことはないだろうか。
白龍は耳や鼻、五感をとぎ澄ます。仏陀の気配を感じる。多分そこまで来ているのだ。
――――どうしてそこまで来られているのに。届かないのだろう。
ふと思いつくことが、白龍の脳裏に浮かんだ。確かに仏陀はそこまで辿り着いていた。しかし、あと一枚か二枚の薄いカーテンのようなものが二人の間を遮断していて、どうしても破れない。
阿修羅の気配がする。息遣いまで聞こえるのに、忌々しい! 自分の力の無さに仏陀は腹を立てた。こういう時こそ無我の境地と思うのに、阿修羅の姿が見えた途端に集中が途切れそうになる。
「阿修羅王」
白龍は阿修羅に声をかけた。
「なんだ。今は話しかけるな」
「仏陀様はすぐそこまでおいでです」
話しかけるなと言われても、なお続ける白龍。常に控えめな彼がそんな態度をとることは、今までないことだった。
「そんなことはわかっている。だが、あと一枚、頑丈な何かが遮断しているのだ!」
イラついた阿修羅は、つい声を荒げて答えた。
「それ、私が剥いでみせましょう」
「え?」
びっくりして阿修羅が振り向く。
「そんなこと……、ええー!?」
白龍は阿修羅を菩提樹の下に押しやると、逃げ道がないように両腕で囲む。所謂、樹ドン……、した。
「おい、どうしたのだ。白龍! ち、近いよ!」
突然のことに狼狽える阿修羅。
「黙って。動かないでください」
左手で阿修羅の右腕を抑えると、身長が三十センチ近く高い白龍は、右手で彼女の小さい顎をくいっと引き上げる。そして桃色に輝く唇に自らの唇を乗せた。
――――え!? なに、これ? 白龍、おまえ何している?
それは誰が見ても間違いなく、キスだった。阿修羅はあまりに驚いて、全く抵抗できない。
その時、白龍の背後にものすごい殺気が流れ込んできた。
つづく
ラフ図を上げてみる。白龍編
神谷吏祐先生から頂きました!