第五十六話 終幕
二人の鍔迫り合いを知ってか知らずか、湖は湖面を揺らし、森は木々を騒めかしている。時に二本の刃が火花を散らし、時に間合いを取って睨み合う。それはいつ果てることもなく続くのかと思われた。
肩で息する帝釈天は、いよいよ大剣すら重く感じてきた。まだ疲れを見せない阿修羅を忌々し気に睨む。だが、阿修羅とて限界がないわけではない。帝釈天は気付いていなかったが、徐々にスピードが落ちてきている。それと知る阿修羅は、決着をつける時が来たと覚悟する。
一直線に敵へと向かう阿修羅。最後の力を振り絞り、脚力に全てのオーラを集中させる。それにより、彼女の出せるスピードの最たるものを引き出した。
目にも止まらぬ速さの前に、帝釈天は冷静に大剣を構え迎え撃った。
――――まっすぐ来ると見せかけて上に飛ぶ!
帝釈天はそう予想した。今まで何度も阿修羅の刃を受けてきたが、彼女は素早い動きで身を翻し、跳び、帝釈天を翻弄してきた。危うく背後を取られ、一刀両断になるのを寸でのところで躱したのも一度じゃなかった。だが、だんだんとその攻撃にも慣れてきた。阿修羅はここで決めてくる覚悟だ。ならば最も得意の形でくるはず。しかし、違えばそれは命取りとなる。それでも帝釈天は自分の勘を信じた。それに賭けるしか勝機はなかったのだ。
熱い火の弾のように阿修羅は走る。懐に入られまいとして腰を低くし、大剣を構える帝釈天の眼前で、果たして阿修羅は上に跳んだ。
――――勝った!
帝釈天は顔も上げず、大剣を上に向けて素早く払う。鈍い音とともに手応えがあった。
――――しまった!
阿修羅が跳んだ膝下に帝釈天の鋭い刃が襲う。金属の脛当てが辛うじて刃の侵入を防いでいたが、このまま前へと跳ぶことは危険すぎた。阿修羅は頭上に翳していた剣を真下に突いた。大剣の腹に当たると、そのまま突き抜かんと全ての力を注ぐ。膝下に痛みが走る。
その時、固い物が砕け散るような音がした。続いて帝釈天の大剣の上部がカランと乾いた音をさせて落ち、二度三度と跳ねた。その上に被さる様に阿修羅が降り、顔を歪めて膝をついた。両足の脛当てには大きな傷がつき、足元に鮮血が滴り落ちた。
帝釈天は刃の折れた大剣を眺め、舌打ちをした。剣というのは横からの力に弱い。そこを阿修羅は渾身の力で突き破った。
「さすがだな。だが、まだ刀身は残っている。欠けた大剣か……。手負いのおまえと同格かな」
「これくらいの傷を手負いとは言わん。見縊るな」
阿修羅はゆっくりと立ち上がり、剣を構える。この期に及んで痛みなど感じるわけがないが、『癒しの腕輪』も治癒する時間を与えられていない。
――――白龍、リュージュ……。
阿修羅の脳裏に二人の姿が浮かんだ。きっと今頃ヤキモキしていることだろう。阿修羅は迷った。二人を呼ぶのは今なのか。このままでは勝てないかもしれない。あいつらがいてくれれば。しかし、阿修羅は首を振る。
――――そうだな。今じゃない。大丈夫だ、まだ戦える。まだやれる。
再び剣を握りしめる。足元に落ちている大剣の剣先が光を反射し、阿修羅の目をくらませた。
「どうした。もう飛び込む力もなくなったか?」
「ならどうする?」
帝釈天は阿修羅の赤目を捉えながら、欠けた大剣を風音鳴らして一振りした。そして右足を一歩踏み出し助走をつけると巨体を宙に浮かせ、高く掲げた剣を阿修羅の頭上に振り落とさんと振りかぶった。
帝釈天を見上げる阿修羅の顔が両目に飛び込んでくる。唇を真一文字に結び、じっと自分を見ている。剣は何故か下段に構えたままだ。
――――このままでは上部が欠けているとはいえ、確実におまえの体は真っ二つになる。この期に及んで私は何を迷う。チリチリと胸が痛む。
まるでスローモーションのように帝釈天は自分の両腕を振り落とす。見上げる阿修羅の頭上めがけて。
「な、なんだ!?」
だが次の瞬間、帝釈天の目は眩い光に取り込まれた。目の前が真っ白になり、目標を見失ってしまった。
「うぐ!」
腹に鈍い衝撃を受けた。何かが体ごと、自分の懐に入り込んでいる。さっとその体が離れると、剣が自分の鎧の隙間に突き刺さっているのが見えた。恐る恐る顔を上げる。そこには無表情に帝釈天を見つめる阿修羅が立っていた。両手のひらからは、鮮血が流れていた。
「おまえ……」
阿修羅は帝釈天が頭上に迫った時、足元にあった刃の欠片をつま先で飛ばし、陽の光を反射させた。目のくらんだ帝釈天の大剣をいなして、懐に入ると鎧の隙間へ剣を突き刺したのだった。
――――白龍、リュージュ、待たせたな。
阿修羅は三角形のペンダントトップを血で汚れた右手でしっかりと握った。
帝釈天は膝から崩れていく。腹から溢れ出る鮮血が真っ白な鎧を見る見るうちに赤く染める。
「案ずるな。リュージュに治療をさせる」
「な、なんだと? 私に生き恥を晒せというのか。今すぐに命を断て。いや、おまえがやらないなら、私が……」
帝釈天はそう言うと、腹に刺さった剣を抜こうと柄に手を伸ばす。阿修羅は帝釈天へと歩みより、その手を優しく掴んだ。
「貴様を助けたいと思っている。生き恥か。いいではないか、それもまた一興」
「阿修羅……。おまえは……」
帝釈天は不思議そうな顔をして阿修羅を見上げた。柔らかな笑みを投げかけるその人は確かに阿修羅だったが、何故かもう一人、深く静かな藍色の瞳を見た気がした。
「阿修羅王!」「阿修羅! 良かった、無事か!?」
白龍とリュージュが血相を変えて現れた。無事な阿修羅を見て、心底安堵した様子を見せた。
「心配かけたな。リュージュ、早速だが、帝釈天の傷を治してやってくれ」
「な、何言ってんだ、おまえ! なんでそんな必要が! 大体治癒ならお前の方だろう!」
「私は大したことはない。後でいいから。さっさとやれ!」
「阿修羅王、いいのですか? それで」
納得がいかずにまだ何か言おうとしたリュージュを制して、白龍が阿修羅に問うた。
「ああ、それでいい。もう、終わったのだから」
心配するなとでも言うように、阿修羅はふわりと笑う。その極上の笑みに二人は何も言えなくなった。
天界の一日はとてつもなく長い。そしてこの日は特に長かった。太陽がゆうるりと西へと傾いていく。湖畔に広がる青々とした芝に南風がそよぐ。
――――シッダールタ、聞こえているだろう?
つづく
次話、第二部の完結となります。
その後、エピローグを数話ご用意しております。
ありがとうございました。