第五十五話 業(ごう)
全身を黒で覆った帝釈天の親衛隊は、梵天が率いる天界軍の前にダンゴムシのように連なっている。みな一様に敗北を認めて首を垂れていた。それを梵天は満足そうに見ている。黒く大きな塊の背後には、今や修羅王軍と天界軍に制圧された善見城が真っ白な壁を陽の下に輝かせていた。
「おい、カルマン、どういうことだ。阿修羅の居場所はわかんないって、どうせなんか道具を作ったのおまえだろ?!」
「何故、私達に黙ってたんですか? リュージュさんはともかく私にまで!」
黄金の天車を善見城の穴だらけの庭に着陸させ、久々の外気を吸いに出た双子。血相変えたリュージュと白龍が取り囲んだ。
「なんだよ、俺はともかくって! 結局おまえも何も言われてなかったんじゃないか!」
「黙んなさい! 今言い争ってる場合じゃありません。カルマンさん!」
「そうだカルマン! 阿修羅と帝釈天はどこにいるんだよ!? 阿修羅は無事なんだろうな?」
白龍は既に人型に戻っている。リュージュが今にもカルマンの襟首を掴みかかろうとするのを止める気配もない。
「まあ、落ち着きなはれや。お二人さん」
「兄者……」
責められるカルマンの隣で首を縮こませていたトバシュは、落ち着き払う兄の顔を驚きと尊敬の目で見た。
「阿修羅はんは、帝釈天との戦いを自分の戦と思うてはります。だからこそ、最後の決戦はお一人で付けたかったんです」
「あのペンダントですね。見たことないものを首にぶら下げていると思いました。一人で決着を付けたい? そんなこと、私が知らなかったとでも? 阿修羅王の気持ちなんて、とうにお見通しですよ。それでも絶対にさせられない。帝釈天は危険なんです! わかってるんでしょうね。カルマンさん!」
白龍は銀髪が真っ赤に染まるほどに激怒している。沈着冷静な彼の見た事もないほどの怒りに、トバシュとリュージュは思わず息を飲んだ。だが、カルマンは全く動じた様子を見せない。
「あんさんらのお気持ちも俺はようわかってます。阿修羅王はんに渡したのは、『逃避行』という道具です。そしてこれが……」
カルマンはそう言って、今度は四角いトップのペンダントを二人の前に翳した。
「そのエスケープを追う事のできる『追跡』です。ただし、逃避行を持つ人が、呼ばない限りは行けないです。阿修羅王はんにはちゃんと説明しました」
二人はひったくるようにそのペンダントをカルマンから取った。そして無言で首に掛ける。
「お二人に渡すようにと言われましたんで、確かにお渡ししましたよ」
「じゃあ、俺達は待つしかないのか?!」
まだ納得いかないといった様子でリュージュが吐き捨てた。
「やみくもに探してもええですよ。それはお任せしますわ」
カルマンは敢えて、「逃避行」の移動距離がそれほど長くないことを言わなかった。阿修羅から固く口留めされていたからだ。自分が白龍達を呼ぶのは、全てが終わってからだと。
――――負けるつもりはない。
阿修羅はそうカルマンに言った。
「阿修羅王、俺はあんさんの強さを知らん。でも、トバシュの剣を扱える凄さはわかってるつもりや。それでも……」
「それでも?」
「俺が阿修羅組に付いたのは、あんさんを想うみんなの心に感動したからや。どいつもこいつもあんさんに心酔している。狂信してると言ってもええ。なんでかご存じですか?」
カルマンは碧眼の双眸で阿修羅をじっと見た。人の心を読む、不思議な男だ。阿修羅は尋ね返す。
「なぜだろう……」
「それは……、あんさんが裏切らないからですわ。俺を含めた、ここにいる全員の信頼を。それを忘れんといてください」
阿修羅はもう一度、小柄な工匠に視線を向けた。何も気負うでなく、飄々とした表情で自分を見ている。ふとその後ろに自分を信じてくれる仲間たちの姿が見えたような気がした。
阿修羅は軽く口角を上げて笑みを作ると、何も言わずに頷いた。何かとてつもない熱いものが胸に込み上げていた。
――――裏切らない。
阿修羅は帝釈天の大剣に飛び込んでいくと、その剣を弾くように下から捩じ上げる。だが、相手は力を司る王だ。それには十分に対応し、逆に阿修羅の剣を抑え込んできた。
力負けると判断した阿修羅は、体を一瞬で回転させて逃れながら、回し蹴りを帝釈天の首にお見舞いする。思わずよろける帝釈天の頭上を再び狙う。間一髪、帝釈天はその剣を防いだ。
刃がかち合う音が鳴り響くと、何度目だろうか、二人の視線が交差する。
「帝釈天、貴様はどこで勘違いをした?」
「なに?」
刃を突き付けあいながら、今度は阿修羅が問いかける。
「誰もがモノではない。一人一人、意志を持って生きている命だ。貴様の愛は、身勝手な所有愛でしかない。それに気が付くこともなく、何とも長い時を生きたな」
「黙れ! おまえ如きに……、何がわかるというのだ!」
「シッダールタは教えてくれた。私があいつに心奪われたのは偶然じゃない。あいつは、私を二千年に渡る戦いから救ってくれたのだ」
「な、にをぬけぬけと!」
見る見るうちに帝釈天の顔は真っ赤になっていく。怒りと嫉妬で狂わんばかりに、力を込めて阿修羅の刃を退けようとする。
「それでは……、再びこうして剣を突き付けあうのをどう説明するのだ! 阿修羅! おまえの業は消せやしない! おまえの言う通り、私が間違っていたとしても、おまえに相応しいのは聖人ではない。おまえと同類のこの私だ!」
思い切り帝釈天は阿修羅の剣を跳ね返した。阿修羅はその力を借りて、身軽に後ろへ跳んだ。
「帝釈天。私とあいつを引き裂くことはできない。たとえこの先、会えないとしても」
「な、なにを!」
阿修羅は再び剣を下段に構える。そして軽く瞼を落とし、そっと唇に二本の指を押し当てた。何かを祈るようなその姿に、帝釈天は身構える。湖面を弾いて一陣の風が、阿修羅の乱れた髪を巻き上げる。丈の短い上着の裾が靡くと彼女の白く美しい脚が陽の光に晒された。
「我らの業が、この世の均衡を失わせたのだとしたら、収めなければなるまい。不毛な戦いに終止符を打つために。その後は、あいつが整えてくれるだろう。どちらが勝とうと」
――――そうだな。シッダールタ。
ふっと、阿修羅は視線を空に投げる。どこということなく見つめる先に、何が見えているのか。帝釈天はその姿に思わず息を飲む。彼女を取り巻く空気が、突然変わった。それは慄然する。
「阿修羅琴は貴様のために歌わない。覚悟せよ、帝釈天!」
朱色に滾る双眸が力強く開かれた。たん! と小気味よい音を立てて阿修羅は地を蹴る。放たれた弾丸は一直線に巨体の標的へと走った。
つづく