第五十四話 回想
阿修羅が選んだ場所は……。
帝釈天は意志に全く関係なく、自分のいる場所が変わったことに仰天した。それよりもまず、いきなり剣が届く場所に阿修羅が舞い降りたことに驚愕していたのだが。咄嗟に抜いた自らの剣で振り落とされた刃を防いだが、次の瞬間、体が引き延ばされるような違和感を覚え、気が付くとこの場所にいた。
「ここは……」
しばしあっけに取られて、戦いの最中であるに関わらず帝釈天は周りを見回してしまった。
「私たちの最後の戦いに相応しい場所であろう」
はっとして声の方を振り向いた。口元を微かに歪めて笑みを浮かべる阿修羅が立っている。梵天の砲撃に晒されなかったのか、テラスはいつも通りで、彼女の背には静かな湖面が広がっていた。
「そうだな。そもそもここで始まった戦いだ」
「不毛な戦いだったが……な」
下段に剣を構え、切れ長の双眸を帝釈天に向けている。雷雨に晒された黒髪はところどころ束ねたところからはみ出し乱れ、返り血で汚れた衣服は縒れて皺を作っていた。だがその立ち姿、自らに険しい瞳を向けられてもなお、帝釈天は美しいと思う。
「再びここで、おまえの琴が聞きたいものだな。あの日、おまえに壊されたトウリ天、元に戻すのにどれほどの時が必要だったか」
阿修羅が『逃避行』で選んだ場所は、善見城の広大な庭、西方に位置する湖の畔だった。婚約式の前夜、二人が琴を巡って争った最初の場所だ。
紺碧の湖から吹き渡るゆるやかな風を受けながら、帝釈天もゆっくりと大剣を構えた。めったに剣を振るわないトウリ天の王ではあったが、力を司る神である帝釈天に苦手の武器などない。
「私の腕は知っているだろうな。努々侮るなよ」
じりじりと間合いを取り、帝釈天が言う。纏った黄金の鎧は陽の光を受け輝いている。彼の鎧は、誰からも傷つけられず綺麗なものだ。阿修羅はまだ動かない。自分より倍ほどある体でありながら動きは速く、剣技も天界一の誉れを持つ。帝釈天の技量を侮るはずもなかった。
「あれほど長く戦いながら、一度も相対したことはなかったな。尤も……」
そこで阿修羅は一呼吸置く。帝釈天は構えを解かずとも、耳を傾けた。
「そうしていたら、さっさと決着がついただろう」
口角の片側をくいっと上げ、真正面に捉える敵を挑発する。湖畔のテラスに沿う森の木々が風に葉を揺らす。ざわざわと葉音が耳をこすると、何かに怯えたのか鳥たちが一斉に森から飛び立った。
「勝手なことを!」
帝釈天は歩を踏み出すと、一挙に阿修羅に迫り、大剣を振り下ろした。それを真っ向正面から受ける阿修羅の剣。周囲に乾いた金属音を響き渡らせ、空気が震えた。
太さも長さも体格同様倍ほど違うその大剣に、帝釈天は渾身の力を込める。唇を歪める帝釈天の視線と阿修羅の挑戦的な瞳が至近距離で交わった。
唸り声をあげながら大剣を押し付けたが、たまらずに息をした瞬間、阿修羅はそれを見逃さずバネを使って弾く。一旦離れた後は、阿修羅が身軽を武器に頭上を狙い、帝釈天は防戦一方となった。
間断なく鳴り響く甲高い音ともに、二人の息遣いも荒くなる。テラスを囲む森も湖も生き物たちも息を潜めて戦いを見つめている。鋭い剣先が帝釈天の頭を掠める。ふわりと結われた髪が落ちた。と同時に阿修羅の腕に一本の赤い線が浮かび上がる。さっとお互いが体を離して後ろに跳んだ。
「ま、全く、相変わらず、疲れ知らずだな」
いつしか肩で息をし始めている帝釈天。ざんばらに落ちたゴールドブラウンの髪が肩で揺れた。額の汗も陽の光を受けて粒になっている。
「椅子にふんぞり返ってばかりいるから鈍るのさ。どうした、随分息があがっているではないか。そろそろ降参したらどうだ」
「そんなことが出来るなら、とっくにしている」
言うが早いか、帝釈天が再び攻勢に出た。受けている方が体力を消耗する。それは疲れ知らずの阿修羅も同じこと。とっさに体を翻すと、形勢は逆転した。
「くらえ!」
何度目か、交差する剣を介して視線がかち合う。
「阿修羅……、どうしておまえは思い出さなかった!」
「!?」
刃を押しあう瞬間は息を吐くのも苦しいはずだ。歯を食いしばり剣に力の全てを乗せているのだから、言葉を発すれば力がわずかでも抜けてしまう。だが、帝釈天はそのリスクを冒して阿修羅に問いかける。食いしばる歯の間から声を絞り出した。
「私はおまえを一目見て、全てを思い出したというに!」
渾身の力と共に言葉をねじり込み、刃を押し込む。阿修羅はそれを押し返し睨み合う。お互い息が続く限り押しあうが、限界とみるや思い切り弾き後方へと跳んだ。大きな息を吐くと、二人はまた間合いを取る。
「おまえが梵天とともに私の所へ来た時のこと、覚えているか?」
構える大剣を上段からさっと下段に降ろし、帝釈天は問うた。阿修羅はその剣にちらと目を移し、再び帝釈天を睨む。
――――こいつ、時間稼ぎのつもりか?
そう思いながらも阿修羅の脳裏に、人間界から天界に来た時のことが浮かんだ。それは、仏陀が悟りを得て、六界を越える存在となった日のことだ。奈落に閉じ込められていた阿修羅は天界へと登った。そこで梵天から、修羅界の王となるなら、地獄ではなく天界人としての地位を約束すると言われた。
――――それからすぐ、梵天はこいつのところに私を連れて行った。修羅界の王として、天界の王と力を合わせろとあいつは言っていた。
帝釈天は彼の職場である懲罰省の最上階オフィスにいた。そこに梵天に伴われてやってきた少女を見て、金剛杵に直撃されたほどの衝撃を受けた。
この日、阿修羅が天界にやってくることはもちろん知っていた。時々天界から仏陀の様子も覗いていたのだ。彼女の姿も初めてではなかった。
なのに……。赤く滾る瞳を見た瞬間、恐ろしいほどの速さで帝釈天の頭の中に記憶が甦り、荒れ狂う大河のように体中を暴れまわった。一瞬で記憶の洪水に呑み込まれそうになった帝釈天は巨体を揺らして倒れんばかりだった。だが、これを梵天に悟られてはと思い、寸でのところで耐えた。
帝釈天は阿修羅の顔を再び覗き込んだ。だが、彼女は素知らぬ顔で二度と目を併せなかった。
「あの時、貴様は思い出したのか」
――――梵天め。お任せあれとのたまっていたくせに。ざまあないな。
阿修羅は巨体の神を見て、違和感を持ったのは事実だった。だが、醸し出される柑橘系のきつい香りが嫌だった。それはあれから今もずっと続いている。あの香りには自分が受け入れてはいけない何かを感じていたのだ。それは阿修羅に備わった危機意識だったのかもしれない。
「あいにくだったな。私は何も思い出さなかったよ」
素っ気ない素振りで阿修羅はそう答えると、右手で剣の柄を握り返した。いつでも飛び込める。つま先に重心をかけた。
「それは、あの男のせいか!? おまえが身分違いにも惚れたあの……」
「黙れ、帝釈天。それ以上は言わずにおくことだ」
帝釈天の嫉妬心見え見えの言葉に、阿修羅は抑揚のない言葉で断じる。それは冷え冷えとした声ではあったが、それゆえに、逆に底知れぬ怒りを秘めていた。
「おまえは私のものだ。私だけの……。誰にも渡さん! たとえこの世界の救世主でも!」
「私は! 誰のものでもない!」
阿修羅はそう叫びながら、帝釈天目掛けて弾丸のように飛び込んで行く。下段に構えた剣は中段へと移り、獲物に向かって薙ぎ払われようとしていた。
トウリ天の上空は雷雨に洗われ目が覚めるような青。千切れた白い雲が風に流されていた。
つづく