第五十三話 逃避行
ナーガは龍王だが、実際は蛇の王が龍となったものだ。雨、雷、川などの水に由来する神である。だが、古来、帝釈天が別名で呼ばれていた頃、ナーガは帝釈天にコテンパンにされた過去がある。もう忘れてもいいくらい昔の話なのだが、ナーガはしつこく覚えていた。
阿修羅が先回帝釈天と戦った時、迷わず阿修羅側についたのは言うまでもない。ただその時は、自分の大家的存在である地獄の夜魔天の顔をたてて、前線に立つことはなかった。あの戦は、どう考えても帝釈天に非があったのに関わらず、梵天が帝釈天側についたために、阿修羅は反乱分子扱いだったのである。
阿修羅琴の術で先の戦のことを完全に記憶から消したナーガだったが、いにしえに帝釈天に討ち果たされたことは忘れていない。目の前にいる仇敵に人知れず憎悪の炎を燃やしていた。
通常ナーガはリュージュの守護神であり、防御や癒しはするが、攻撃には手を出さないと言われていた。それは期待してはいけないということだ。だがそれは、本人次第でもあった。
リュージュを乗せ、帝釈天に迫ったナーガは、思いも寄らない行動に出た。
「阿修羅! 槍だ!」
リュージュが帝釈天に向かって疾走する阿修羅の前に龍王を運ぼうとしたとき、龍王はいう事を聞かず、そのまま帝釈天に向かって空を滑る。
「お、おい! ナーガ!? どうした?」
慌てるリュージュを無視して、というか乗せていることも忘れた勢いで敵に迫り、親衛隊の向こうにいる帝釈天を威嚇するように首を大きくもたげる、そして大口を開けた。
「え? おまえ、なんか炎とか出しちゃう?」
頭を大きく上げたので、リュージュは振り落とされないように必死に首にしがみつく。だが、彼の眼に飛び込んで来たのは、一直線に空を斬る、槍の鋭鋒! それはナーガとリュージュに向かって襲い掛かる。
「リュージュ!」
阿修羅の叫び声が耳に響く。ちくしょう、あいつこっちに投げたのかよ! リュージュは心の中で叫ぶ。
「キイイイン!」
龍の固い皮膚をものともせずに帝釈天の槍が命中した。ナーガは空気を引き裂くような甲高い悲鳴をあげた。開けられた口からは炎ではなく断末魔の叫びが空を突く。
リュージュは戦慄した。龍王の喉元を貫通し、もう穂先はリュージュの胸に届いている。
「ヤバイ! 串刺しにされる!」
めいいっぱい、体を逸らせたが、顔の大きさくらいある穂先はリュージュの胸を捩じり射る。
「う! くそ!」
「リュージュー!」
もう一度阿修羅の聞いたこともないような悲鳴が聞こえた。その時だった。
「え?」
突然リュージュは空に放り出された。有無も言わさず引力により落ちていく。赤い糸のように胸からの血液が線を引いた。
龍王ナーガが槍と共に消えたのである。致命傷となる傷を負ったとき、ナーガは地獄に還る。ナーガはギリギリのところで守護する者を助け、ねぐらに帰って行った。
「だれか!」
それを見た阿修羅が叫ぶ。だが、既に味方の天馬がリュージュの落ちた先に向かい、彼をなんとか拾い上げた。胸に傷を負ったが、すぐに回復して戻れるだろう。
ほっとしたのも束の間、再び雷撃が阿修羅達を襲う。帝釈天が金剛杵を翳していた。
「時は満ちたな。白龍、許せ」
阿修羅は白龍に耳打ちをする。
「阿修羅王!? 何をするつもりですか!?」
突然の声掛けに白龍は慌てる。だがその瞬間、阿修羅は白龍の背にいなかった。焦る白龍は阿修羅の姿を探した。そしてそれを捉えた時、自らの目を疑った。帝釈天のいる本陣に、阿修羅がいたのだ。すぐそばにいた側近たちを一刀に伏している。
驚いたのは前方を護る親衛隊も同様。帝釈天を護るため本陣に向かおうとしたが、そこに「黄金の天車」から砲弾がぶち込まれ、辺りは騒然となった。
先ほどまでは空母よろしく軍の後ろをついて来ていたが、気が付けば随分前に出張ってきている。リュージュは自分の天馬に乗り、前線に復帰していた。
「阿修羅王!」
もう一度白龍は本陣を見る。阿修羅は剣を抜いた帝釈天と一騎打ちをしている。だが、次の瞬間、その本陣からも姿を消してしまった。
「阿修羅!?」
異変に気が付いたのは白龍だけではない。リュージュも彼女が帝釈天と共に消えたのに狼狽える。修羅王軍も浮足立ちそうになったそのとき、天車から拡声器にのった関西弁が響いてきた。
「心配せんでええ! このまま帝釈天の軍を鎮圧せえ! これは阿修羅王からの伝言やで!」
帝釈天は既に金剛杵を捨て、刀剣での戦いを挑んでいた。空に立ち込めていた暗雲は消え、太陽の光が全てを明らかにした。帝釈天の軍は残り僅か。親衛隊は守るべき王がいなくなったことで、膝を折った。
それはまだ、「黄金の天車」が亜空間を彷徨っていた頃のこと。阿修羅が目覚め、みなで善見城の攻略を話し合っていた時だ。トバシュが言った、「他にも試作したんで、見て下さいね」の言葉を阿修羅は覚えていた。白龍達が作戦を練っている間に、カルマンを呼び出し尋ねた。
「どんなものがある? まず私に見せて欲しい」
「お安いごようですわ。ほな、こちらへ」
カルマンとトバシュの天車での工房は、狭いが機器は充実していたようだ。だが、材料が足りないために数は作れないとのこと。既存の道具をつぶして代用しているものもあった。その一つ一つを阿修羅は丁寧に見た。それをカルマンは逐一説明する。
「これは、阿修羅はんが欲しいんじゃないかと作ってみました。試作品やから、三回くらいしか使えへんのですけど」
もったいぶるようにカルマンは、阿修羅が手に取ったペンダント状のアクセサリーを見て言った。ペンダントトップには、小石ほどの三角形が付いていて、その三角に各々小さな赤い宝玉が埋められている。
「なんだ? これは?」
カルマンは不思議と人の考えを読んだ。それは常にその人物が今欲しがっている物は何かを考えることが癖になっていたからかもしれない。カルマンは根っからの物造り好きのトバシュとは少し違って、人が欲しいと感じる夢の道具を造ることを目指していたからかもしれない。発明家であり、商売人なのである。
「これを付けた人と、半径3メートル以内の誰かを、同時に別の場所へ飛ばせます。ただし、飛ばせる場所は自分が確実にイメージ出来る場所で、大体三百メートル以内がぎりです」
阿修羅の赤い瞳が俄かに光った。
「いいだろう。おまえは不思議な男だな。で、これの名前は?」
「トバシュとちごうて、自分は商売人ですからね。逃避行です。起動するときは、こう三角形のとこ握って、阿修羅はんのエネルギーを注いでください。そして行きたいところを念じれば、一瞬で行けます」
阿修羅は頷くとペンダントを首にかける。円形の瓔珞の中で、それは異彩を放ったが、三角形のトップは小さく、鎖も細い。目立たぬようにいつしか収まっていた。
つづく