第八話 勘違いと思いこみ
※ここまでのあらすじ
阿修羅が統治する修羅界で、どうやら天界も巻き込む陰謀が巡らされているようだった。
その首謀者の一人らしい密厳夜叉の屋敷に潜入するも、阿修羅と白龍はおかしな世界に放り出されてしまった。
連絡が取れなくなった二人をリュージュと仏陀も探し始める。
異空間に放り出されてから数時間、この世界にも夜が来た。疲れもあったし、現状の整理もしたい。二人は小屋のようなところで休むことにした。
「不思議だな。ここには来たことがあるように思う。不安なのに、馴染んでいく」
白龍が着けた灯りを見つめながら、阿修羅が洩らした。小屋には一応の生活用具があった。阿修羅は食卓の椅子に座っている。
「そうですね。私もそれを感じていました。でも、一つ違うことがあります」
「何だそれは?」
「匂いです」
白龍は手にした果物を阿修羅に渡す。
「食べるのは控えたほうが良いでしょう。ここらに実をつけている果物です」
美味しそうな果実だ。阿修羅が生きていた人間界のインドという国に、こんな果物を目にした気がする。
「ご存じのとおり、私は阿修羅王より何千倍も鼻が利きます。ですが、この土地の匂い、風に乗る水の匂い、そしてその果物に至るまで、全てが薄い。この果物を私は知っておりますが、それはもっと強烈な香りを発していた」
阿修羅は渡された果物をしげしげと見、鼻に近づけてくん、と匂いを嗅いだ。
「私には同じに感じる」
「そうでしょうね」
「どういうことだ?」
夜になっても蒸し暑さは変わらない。白龍は灯りを挟んで阿修羅の向かい側に座った。
「ここに降りてまず感じたのは『違和感』です。匂いもそうだけど、木や草、川、全ての目に見えるものが『絵』のようでした」
「絵?」
ゆっくりと頷くと、白龍は阿修羅に手渡した果物を指さす。
「例えばこの果実。マンゴーだと思いますが、何か違う。匂いもマンゴーというよりパパイヤだし」
「いや、これはマンゴーじゃない。パパイヤだろ?」
手の中にある果物を見て、阿修羅が訴える。些細なことだが、その目は真剣だ。
「果物だけじゃありません。樹木も花も、誰かが描いた絵のように、本当に自生しているものと比べると形も違うし、色が原色に近くて鮮やかです」
「それは。修羅界は私の館以外はモノクロの世界だし、明るい光の差す場所がいいじゃない……」
言いかけて、阿修羅ははっとする。
「現実の世界でない。ということは、そういうことか」
「ここは王の精神を映す世界です。これがパパイヤと言い張るのは、本当にそう思っておいでだったということですね」
阿修羅はずっとマンゴーとパパイヤの区別がついてなかった。口に入るものは毒がなければ良しで、美味しければなおよし。名前を覚える趣味はなかった。
「この世界が懐かしく思ったのはそういうことか。馴染んでしまって、脱出する気を失くさせるのが狙いかな」
だが、それは絶対にない。何故なら、この世界には阿修羅にとって絶対不可欠なものがなかったからだ。
「さすがだな。白龍」
「鼻が利くだけですよ。それと、王がずっとマンゴーとパパイヤの区別がついてないの知ってましたから」
「そこかよ!」
阿修羅は少し笑った。この世界の姿はわかった。ここから抜け出る策がわかったわけでもないが、大切な糸口なる。
「この世界には結界が張ってあるはずだ。だからシッダールタとの連絡がつかない。だが不思議だな。あいつがここにいれば、私は本気で戻らなくてもいいと思うだろうに」
阿修羅は独り言のようにつぶやいた。
「術師の限界ではないですか? ここに生き物がいないのは、意志を持って動くものを具現化できないのでしょう」
大きく頷く阿修羅。
「おまえ、絶対リュージュより役に立つな。前世が馬とか信じられない」
「何言ってるんですか。役割分担ですよ。それに今回のことは、馬であったことが幸いしていますから」
にこやかな笑みを浮かべて白龍は言う。
――――それに、貴方のことを誰よりも知っていますから。
白龍は密厳邸に攻め込む前、リュージュに聞かれたことを思い出した。
『阿修羅のことどう思っているんだよ』
―――馬鹿なことを。そんなもの答えるまでもない。
「よし、まずは体力を戻したい。明るくなるまで眠る」
「そうですね。私も休みます。おそらく何かが襲ってくることはないでしょうから」
白龍はふっと灯りに向けて息を吐く。辺りは一瞬漆黒となり、やがて窓から差し込む柔らかな月明かりに包まれていった。
「何が術師の限界だ! 馬鹿にしやがって。阿修羅の絵心がなさ過ぎて、生き物が出せないだけだよ!」
密厳夜叉はモニターの前で怒鳴った。手を振り上げるので、大将らしい立派な武具が音をたてて揺れる。
「しかし、この世界のからくりをこれほど早く見抜くとは。さすがだな。まあ、そうは言ってもこの結界は破られるはずがない。マンゴーでもパパイヤでも食って仲良く過ごすんだな!」
彼らの様子はその動きだけでなく、話していることも密厳夜叉に筒抜けだった。一部始終を見終わった密厳は、筋骨隆々の腕を組みなおすと、扉に向かって叫んだ。
「おい、ショウトラ! いるか?」
密厳の声に呼応するように、この部屋に向かってバタバタと足音が近づいてくる。
「密厳夜叉大将様、お呼びですか?」
「そろそろ奴らに一斉攻撃をかけろ。阿修羅がいなければ、修羅王軍など烏合の衆だ」
「大将様は出陣されますか?」
「いや、私は他に行くところがある。このモニターをお前の部下に任せる。両方とも何かあればすぐに知らせろ」
「御意のままに」
何故かこういう場面で吐かれる決まり文句に、密厳夜叉は満足そうに頷いた。
『阿修羅? どこにいる?』
『シッダールタ! 私はここだ!』
浅い眠り。阿修羅は仏陀の夢を見る。だが、仏陀との間には、なにか薄い膜のようなものがあって、姿は見えるのに声が届かない。
彼の方は阿修羅に気付いていない。座禅を組み、はっきりと目を開けている仏陀は、微動だにせず探り続けている。
『私を探していてくれるのだな。いつだったろう。たとえ私が死んでも必ず見つけてくれると言った』
命を持つものは、絶えず輪廻転生を繰り返し、前世の因果を背負って次の生を受け入れる。天界に住むものすら、その輪からは逃れられない。野をかける獣となったり、土の中で蠢く虫となったり、果てしなく生を続けていく。
「たとえおまえが死んでも、私が死んでも、私は何度でも生まれ変わっておまえを見つける」
それが最初の誓いだったろうか。仏陀がまだシッダールタという一国の王子であったとき、彼女に言ったセリフである。阿修羅の死後、十年の修行を経てシッダールタは唯一無二の存在、仏陀となった。輪廻転生の輪から外れた彼は彼でしかなく、二度と転生することはない。
もし阿修羅が長い寿命が果て、何かに転生したとしても、仏陀が見つけることは容易い。誓いは守られるだろう。
今、阿修羅は天界の支配者、梵天の依頼により修羅界の王となってその地を治めている。仏陀は人間界に残り、寿命が尽きるまで布教活動を続けている。
住む場所は違えど、なお熱く強い絆で結ばれている二人。そんな二人の強い情を持ってもこの結界は破れないのか。
『いや、絶対にそんなことはない』
阿修羅は夢のなかの仏陀をじっと見つめた。
『必ず、結界を破ってみせる。必ず、おまえのところへ行く』
窓から光が差し込む。朝が来た。阿修羅はいつもにも増して頭がクリアになっているのを感じる。赤く輝く瞳を大きく見開いた。
つづく
菩提樹
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