過てばこそ
第二十五章 過てばこそ
一
「ナーヴェ、わが拘束を解くがよい!」
呼ばわっても、最愛の船は応答しない。妊娠している肉体を活発に動かしているため、船体のほうの応答機能は疎かになっているのかもしれない。近衛兵二人も外へ出たのか、仕切り戸の向こうからも反応がない。
(頼む、無茶だけはしてくれるなよ……!)
施術台に拘束されたままの状態で、アッズーロは唇を噛んだ。ともに下船し、反乱民達の前に立つつもりであったのに、宝は自らの肉体の拘束のみを解いてアッズーロを置き去りにしたのだ。その意図は痛いほど分かるが、しかし業腹だ。
(あやつめ、戻ってきたら、どうしてくれよう……!)
否。そうではない。ただ無事に、心身ともに無事に戻ってきてくれるだけでいいのだ。
小さく溜め息をついて、アッズーロは神ウッチェーロへ祈る。
(ウッチェーロよ、二度とわが最愛が――あなたが残して下さった宝が傷つけられぬよう、お願い申し上げる――)
「作り話だ! 皆、騙されるな!」
不意に大きな声が響き、ドゥーエはびくりとしてそちらを見た。姿を眩ましていたはずのベッリースィモだ。ドゥーエと同じように頭を上げた人々の向こうで、一人立っている男は、宝を指差し、糾弾する。
「『オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ、双方にとって脅威となる、新しい勢力が赤い沙漠の向こうに現れた』? 『神殿と同じ船を持った』? 『テッラ・ロッサより強力な軍事力』? 一体、この話のどこが信じられるのだ? どうやって確かめることができる? 何故、皆、そう簡単に騙されるのだ! その女は、『王の宝』を詐称するところから、徹頭徹尾、嘘をついているのだぞ?」
群衆が再びざわめく中、ドゥーエの傍らで、チーニョがすっくと立ち上がった。
「それは違う!」
青年の、半ば裏返った精一杯の声に、ドゥーエはまた驚いた。気弱で、周りの言いなりでしかなかった青年が、ゼーロと並ぶ発言力を持つベッリースィモに、真っ向から対峙し、反対したのだ。
「あの人は、あの方は、本当に本物の『王の宝』なんだ!」
叫んで、痩せた青年は、纏った短衣の隠しから、大切そうに何かを取り出した。
「これは、あの方の髪の毛だ! おれはこれを、扉の壊された、あの倉庫で拾った!」
(自分達が、あの方を犯した、あの倉庫で――)
顔をしかめて、ドゥーエは青年の手に握られた一本の髪を凝視する。暗がりの中、すぐ隣にいるドゥーエの目にも、その髪が本当に青いのかどうか、宝のものかどうかなど分からない。
「おれは、どうせ染めてあるだけだと思って、この髪を切ったんだ。でも、この髪は、表面だけじゃなく、中まで青かった! 正真正銘の、青い髪なんだよ! この意味が、分かるだろう?」
「そんな髪一本が何の証拠になる? その一本を、中まで青く染めただけだろう」
せせら笑ったベッリースィモに応じたのは、当の王の宝だった。
「ぼく自身が、王の宝であることを証明するのが、一番手っ取り早いみたいだね。グースト」
宝は斜め後ろに控えた近衛兵を振り向く。
「ちょっと、きみの剣を貸してくれるかな?」
「いえ、それではわたしが殿下をお守りできなくなります」
断った近衛兵に、宝は重ねて求めた。
「大丈夫、ぼくは強いから。それに、今ここで剣が必要なんだよ。どうか貸してほしい」
尚も躊躇う近衛兵に、もう一人の近衛兵が言った。
「おまえが貸さんのなら、おれが貸す。そして貸していないほうが、命に替えて殿下をお守りするんだ。『今ここで』の意味をよく考えろ」
「分かった」
グーストというらしい金髪の近衛兵は、ゆっくりと革帯から剣を鞘ごと引き抜き、恭しく両手で宝へ渡した。
「ありがとう」
受け取った宝は、何の躊躇もなく、すらりと剣を抜く。うわっと宝の近くにいた人々が後退った。その内の一人へ、宝はゆるりと近付く。
「悪いんだけれど、この剣で、ぼくの右腕を切ってくれるかな?」
「は?」
抜き身の剣を差し出された男は、困惑した様子で、宝と剣を見比べ、次いで左右の人々を見回した。淡い光に向こうから照らされた顔は、やはり影になっていて見えにくいが、確か、小神殿近くの家に住む、壮年の農具職人だ。
「本当に悪いんだけれど、きみは力も強そうだし、ここに住んでいて周りのみんなからよく知られている人だから、適任なんだ。どうか、ぼくの右腕を、この剣で切り付けてほしい」
重ねて請われ、ずいと剣を押し付けられて、場の空気に呑まれたように、農具職人は剣を受け取った。
「おやめ下さい、殿下! 何をお考えです!」
慌てて動こうとした金髪の近衛兵を、もう一人の近衛兵が手を伸ばして止めた。
「殿下のやろうとしていらっしゃることをもっと考えろ、この馬鹿!」
低く叱責した黒髪の近衛兵は、鋭い眼差しを農具職人にも向ける。
「さあ、殿下の仰せの通りにしろ。殿下が怪我を負われても、おれはおまえを成敗したりはせん。安心して切れ。但し、その剣はよく切れる。力を入れ過ぎるなよ」
「そんな……」
更に後退る憐れな農具職人に、王の宝がまた一歩迫った。
「ごめんね。でも、ブイオの言う通り、ぼく達は誰もきみを責めない。寧ろ感謝するから、頼むよ、デゼルト」
さらりと名を呼ばれて、農具職人は硬直した。彼を見知っているドゥーエでさえうろ覚えだった名前を、王の宝は知っていたのだ。その事実が後押ししたのか、農具職人デゼルトは剣を軽く振り上げた。ずんぐりとした体躯の、両肩の筋肉が盛り上がる。農具職人として培った筋力だ。
「切りますよ!」
声を掛けて、デゼルトは、宝が袖を捲った白く細い腕へ剣を振り下ろした。血飛沫が飛び、住民達から悲鳴が上がる。
「す、すいやせん……!」
出血の量に驚いたのか、デゼルトは剣を取り落とし、跪いた。その剣を素早く回収し、自らの袖を切って包帯を作ろうとする金髪の近衛兵や、デゼルト、そして周りの住民達全員に、宝は微笑み掛けた。
「大丈夫だよ、心配しないで」
溢れるように血を流す細い腕を、淡い光の中、掲げて見せる。
「ほら、もう血が止まる」
魔法のような言葉に、ドゥーエは白い腕を伝って滴る血を凝視した。やはり逆光で半ば黒々として見える血は、ぼたぼたぼたぼたと、かなりの勢いで滴っていたが、徐々に量が減っていき、やがて、ぽたりと滴を落として止まった。まだ赤黒く汚れている腕を、宝は袖の端で拭う。再び掲げられた腕には、血の跡は多少残っていても、傷跡らしき切れ目は見当たらなかった。人々は、一様に息を呑み、小さくざわめいている。
「この体は人だけれど」
王の宝が言葉を継ぐ。
「ぼくは人ではないから、こういうこともできる。ぼくが正真正銘の『王の宝』だと、理解してくれると嬉しい」
「――奇跡だ……! 奇跡だよ……!」
ドゥーエの傍の老婆が、跪いたまま、両手を握り締めて叫んだ。
「王の宝は、奇跡を起こされる……! あたしの息子は、近衛兵を勤めさせて頂いてて、テッラ・ロッサとの国境で磔にされなすった殿下を、確かに見て、お御足から釘も抜いたと言ってた。だけど王の宝は見事に蘇りなすったんだ! あんた達もみんな、その奇跡は知ってるだろう? そうして今回も奇跡を見せて下すった! あのお方は間違いなく、王の宝だよ!」
「まやかしだ! 手品に決まっている!」
ベッリースィモが反論したが、今度はデゼルトが振り向いて言い返した。
「わしは確かに切ったんだ! だが今、殿下の傷は、綺麗に塞がっとる! 疑うなら、ここまで見に来るんだ!」
逆にベッリースィモは一歩下がった。
「馬鹿馬鹿しい! 茶番に付き合ってなどいられるか!」
言い捨てて踵を返し、夜の中へ去っていく。その背へ、ゼーロが怒鳴った。
「待て、ベッリースィモ! やましいことがないなら逃げるな!」
「捕まって罪をなすりつけられるのは御免なので、失礼する!」
殆ど走りながら応じて、小神殿の向こうへ姿を消そうとしたベッリースィモが、不意に転んだ。その傍らに誰か立っている。小神殿の陰から出てきたらしい。
「みっともないですよ、ベッリースィモ様。『罪をなすりつけ』たのは、どなたです?」
呆れ返ったような若い女の声。聞き覚えのある声だ。
「ダーチェ、助かる!」
ニードが明るく言って、その女――小神殿裏の宿屋で働くダーチェと、未だ立ち上がれないでいるベッリースィモへ駆け寄っていった。
「彼女、ベッリィースィモに足を引っ掛けて転ばせたように見えたね?」
ナーヴェが問うてみれば、エゼルチトは微かに冷笑して答えた。
「あの女は、ロッソ陛下の配下です。ニードの同僚ですよ」
「成るほど。そういうことか」
緩く癖のある黒髪を後ろで一つに束ね、浅黒い肌に、くっきりとした黒い双眸を持つダーチェの姿は初めて確認したが、その名は以前、ムーロがエゼルチトに知っているかと尋ねた中にあった。
「きみは尋問されている時、ベッリースィモ以外については、知っているとも知らないとも言わなかったけれど、彼女のことも知っていたんだね」
「キアーヴェの報告に拠れば、ダーチェは小神殿に付属する宿屋で働きながら、反乱民の中枢へ入り込んでいたようですよ」
エゼルチトは淡々と情報を明かした。キアーヴェが自らの配下であることも認めたのだ。
「ニードと言い、ダーチェと言い、ロッソには幾ら感謝してもし足りないね……」
ナーヴェはしみじみと呟いた。すると、隣から同様にしみじみと相槌があった。
「陛下は、そういうお方です」
エゼルチトは真面目な顔で、ダーチェとニードがベッリースィモを捕縛するさまを眺めている。ナーヴェは不思議になって尋ねた。
「きみはそんなにもロッソのことが好きなのに、どうして、彼の意に染まないことを独断でしようと思ったんだい?」
「歯痒いからですよ」
エゼルチトは即答した。その横顔が厳しい。
「陛下は、あの乾いた貧しい国を継いで、確実に豊かにしてこられた。それでも民の中には、このオリッゾンテ・ブルと比較して、生活が苦しいと嘆く者もいる。オリッゾンテ・ブルへ移住したがる者もいる。だが、そのオリッゾンテ・ブルは、そもそも陛下が継ぐべき国だ……!」
「アッズーロに罪はない。どちらの国に住んでいる人にも、罪はない」
静かに、ナーヴェは訴える。
「罪を負うべきは、新たな国を創るようザッフィロに進言した、ぼくだけだ」
「ロッソ陛下にオリッゾンテ・ブルの王位をお返しすることでしか、その罪は償えませんよ」
冷然と言い切ったエゼルチトに、ナーヴェは真摯に告げた。
「罪は、ずっと背負っていくよ。そして、これからもテッラ・ロッサ王国のために、できるだけのことをしていく。今ぼくにできることは、そこまでなんだ」
「――わたしは、あなたが嫌いです」
「うん。よく分かっているよ」
ナーヴェが応じた時、ゼーロが群衆を掻き分けるようにナーヴェへと歩み寄ってきた。後ろには、捕縛されたベッリースィモと、その縄を握ったニードを連れている。銀髪を短めに刈り、白い肌を持ち、白い長衣を纏った青年は、夜目にも目立っていた。
「王の宝よ」
反乱を率いてきた青年は、琥珀色の双眸でナーヴェを見据える。
「おれの仲間があなた様に狼藉を働いたこと、深くお詫び申し上げます。そちらのエゼルチト将軍が仰ったこと、あなた様が仰ったこととなさったこと、信じ難いことが多いですが、今のところ、信じるべきだと、おれは判断しています。それらのことも含めて、どうか、改めて話せる場を設けては頂けないでしょうか」
「勿論だよ。それは、こちらからお願いしようと思っていたことなんだ。また日時と場所を調整しよう」
ナーヴェは微笑んで約束した。
「ありがとうございます」
少し表情を和らげたゼーロは、背後のベッリースィモを振り返る。
「それから、このベッリースィモについては、あなた様に引き取って頂くことが、一番ではないかと思うのですが、どうでしょうか」
「きみ達にとっては、仲間だった人だけれど、それで構わないのかい?」
「テッラ・ロッサの将軍の手先となって、羊に毒を盛って殺すような奴は、仲間じゃない」
冷たく断言したゼーロに、ベッリースィモが叫んだ。
「わたしは羊に毒など盛っていない。それはキアーヴェという、あの女がしたことだろう! わたしは無関係だ!」
「確かに、おまえは直接毒を盛るなどしていないだろうな」
冷ややかに口を挟んだのは、エゼルチト。
「だが、おまえはわたしの指示を知っていた。キアーヴェと常に連携していた。それは立派な罪だ。テッラ・ロッサの筆頭将軍たるわたしが断言しよう。おまえは、アッズーロを陥れようとしていたわたしと協力し、国王アッズーロや王の宝について、周辺住民に誤った認識を植え付けて、反乱へ導いていた。オリッゾンテ・ブル王国への立派な反逆罪だ」
「『反逆罪』と言うなら!」
ベッリースィモが凄絶な笑みを浮かべる。
「ゼーロ、おまえも立派な反逆罪だろう!」
「反逆罪を問うかどうかは、事実関係を調べたのち決定するよ」
ナーヴェは議論を引き取り、ベッリースィモを見つめた。
「ただ、きみに関しては、エゼルチトからフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯に関するさまざまな証言を貰っているからね。きみは重要参考人で、おまけに逃亡の恐れもある。悪いけれど、拘束したまま王城まで一緒に来て貰うよ」
「敵国の筆頭将軍の言うことを信じるのか!」
怒鳴ったベッリースィモに、ナーヴェは真顔で頷いた。
「うん。ぼくはきみと違って、できるだけ人を信じたいと思っているから」
二
不意に拘束が解かれ、アッズーロは急いで施術台を降りた。直後、後部扉が開く。
「ごめん、アッズーロ、今度はここにグーストとブイオとベッリースィモの三人でいて貰うことにしたんだ」
想像するだに恐ろしいことを口にしながら、最愛が入ってきた。その後ろから、近衛兵二人に挟まれた、両手を縄で括られた青年が入ってくる。すらりと背が高く、やや長い栗色の髪が掛かる顔立ちは整っているが、アッズーロへ向けられた青い双眸の目付きはどこか酷薄だ。
(こやつが、ベッリースィモか)
フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの甥で、その座を欲しているという男。
(そのような輩には、男三人でくっついて過ごす拷問もよいかもしれんが)
グーストとブイオは、仕事とはいえ気の毒なことだ。
(しかし、こやつらにナーヴェの脇腹を触らせてしまうのか……)
複雑な心境になったが、口に出す訳にもいかない。
「重要参考人を捕らえるとは、手柄だな」
当たり障りのないことを言って、アッズーロは施術台を離れ、最愛へ歩み寄った。
「置いていって、ごめん」
最愛は、申し訳なさそうに謝ってきた。アッズーロの意に染まぬことをしたという自覚は充分あるらしい。
「そなたが無事でさえあれば、よい」
アッズーロはナーヴェの右肩に手を置き、少しだけ抱き寄せる。ナーヴェは嬉しげに微笑み、報告した。
「ニードがいっぱい手助けしてくれたんだ。ダーチェもロッソの配下で、ベッリースィモを捕まえるのに一役買ってくれたんだよ」
「あの女」
ベッリースィモが低く吐き捨てた。その表情は酷く醜い。
「女に手玉に取られたか」
アッズーロは尊大に嘲笑い、グーストとブイオに顎をしゃくった。二人は素早く施術台にベッリースィモを押し倒し、その両脇に寝転んで固める。見るからに窮屈そうだ。その上から、一人一人を束縛帯が固定しつつ、ナーヴェが詫びた。
「ごめんね、グースト、ブイオ。王城に到着したら、すぐに束縛帯を外すから」
「御心配には及びません」
グーストが頭を上げ、引き攣った笑みを浮かべる。
「見事、王城到着までこやつを押さえておきます」
「どうかお気になさらず」
ブイオも言う。
「われら以上の適任はいないでしょうから」
「うん。ありがとう」
礼を述べたナーヴェをいざなって、アッズーロは前部へ通じる仕切り戸へ向かった。ナーヴェがちょっと指先を振ると、仕切り戸は音もなく開く。同時に、開いていた後部扉が閉まった。
前部の操縦室には、既にエゼルチトと、見知らぬ黒髪の女が後席に並んで座っていた。座席帯に体を固定された二人は、座ったままアッズーロを振り向き、女のほうが束ねた長い黒髪を揺らして会釈した。
「ダーチェだよ」
ナーヴェが先回りして紹介した。成るほど、美しい顔立ちの両眼は切れ長で、工作員らしい面構えだ。
「ニードから頼まれてね。彼女には一緒に来て貰ったほうが、情報収集の面でもいいだろうって」
「こちらの内情を探りたいという思惑もあろう。単に、身柄を守りたいという意図もあろうが」
アッズーロが鼻で笑うと、ダーチェは艶やかに笑みを返してきた。
「さすが、英邁と誉れ高き陛下。お察しの通りにございます。ニードとしては、わたくしの身を守りたいという思いが一番強いことでしょう。ベッリースィモを宿屋地下にあるわたくしの部屋に匿っていたことは、いずれ明るみに出ましょうし、そうしたわたくしの工作活動に住民の皆様がどういう感情を懐くかについては、未知数でございますから」
「いけしゃあしゃあと言うものだ」
アッズーロは目を細めた。好感の持てる回答だ。及第点である。
「よい。城への同道を許す」
「ありがとう存じます」
丁寧に頭を下げたダーチェの横を通り過ぎ、アッズーロは助手席に腰を下ろした。ナーヴェは操縦席に収まり、すかさずアッズーロと自分の肉体を座席帯で固定する。直後、正面や側面、上面にもある硝子のようなものが嵌められた窓の外を照らす淡い光が強くなった。船体の近くにいた住民達や反乱民達が、驚いて後退っている。
「アッズーロ、あの銀髪の人が、反乱を起こした人達の代表の一人ゼーロだよ」
ナーヴェが左側面を指差して告げた。成るほど、銀髪を短めに刈った涼しげな眼差しの青年が、こちらを凝視している。
「あやつと話せと言うのだな」
アッズーロが先回りし返すと、ナーヴェは頷いて続けた。
「うん。また日時と場所を調整してほしい。それから、他にもお願いがあるんだ」
「聞こう」
促せば、最愛は真っ直ぐにアッズーロを見据えて明かした。
「実は、羊を毒で殺されてしまった飼い主全員に、今週中に王室からお見舞いを出すと約束したんだ。もし、王室の生活費に余裕がないのなら、ぼくが小物を大量生産して王都で販売して稼ぐから、王室の名を使うことを許してほしい」
アッズーロは溜め息をついた。自分は、それほどに頼り甲斐のない王で夫なのだろうか。
「城に着いてすぐレーニョに命じて、羊一匹分の市場価格の一・五割増しの見舞いを、被害を申し出た全ての家族に、毒殺された羊の頭数分だけ小麦で支払うよう、準備させよう。被害頭数の概算は、ルーチェの報告にあったゆえ、計算は容易かろう。小麦はわれらが生活費を向こう数ヶ月分切り詰めれば賄えるはずだ。それでも足りんとなれば、われの装身具を幾つか売ればよい」
「ありがとう、アッズーロ。でも、装身具なら、ぼくのものを――」
言い止して、宝は理解したようだった。
「と言ったら、それは、きみがぼくにくれたものを蔑ろにすることになって、きみを傷つけてしまうことになるんだね」
「まこと、そなたの成長は著しいな」
アッズーロは呟いて、手を伸ばす。前髪に触れても、ナーヴェは最早怯えず、嬉しげに微笑んだ。その笑顔を眩しく見つめ、アッズーロは真摯に諭す。
「そなたは聡い。そなたの言動は、常にわれを助けている。なれど、身重の体であることを今少し鑑みよ。頼む」
「うん、ごめん……」
目に見えて萎れた妃の頭を、アッズーロは愛おしく撫でつつ、言葉を重ねた。
「詫びねばならんのは、われのほうだ。いつもいつもそなたを矢面に立たせてしまう。だが、これよりのちは、そなたの夫を、そなたが認めた王を、信じよ。相談し、信頼して託すがよい」
「うん。相談と信頼を、もっと大切にするよ」
素直に頷いた最愛の頭から、アッズーロはそっと手を引いた。
「まだ飛び立たないのですか」
不意に後席からエゼルチトが声を掛けてきた。
「ああ、待たせてごめんね」
ナーヴェはすまなそうに説明する。
「でも、本体を動かしている間、ぼくの肉体の応答機能は、三歳児並みに落とさないといけないから、先にアッズーロと話を――」
またも言い止して、ナーヴェは目を瞬いた。
「そうか、肉体を眠らせて、本体で浮揚しながら話せばよかったのに。ぼく、そんな判断もできないくらい、壊れて……」
「それは成長だ! そなたは肉体でわれと話したかったのだ」
アッズーロは問答無用で断言し、再び手を伸ばして宝の手を握る。宝はのろのろとこちらを見て、複雑そうに笑んだ。
「うん、そうだと嬉しい。ありがとう、アッズーロ」
ぎこちない笑みは、アッズーロの胸を抉って余りある。更に力を込めたアッズーロの手を優しく握り返して、宝は背凭れに肉体を預け、目を閉じた。直後、船体が浮き上がる。
〈浮揚後、回頭。王城へ帰還する〉
船たるナーヴェの声が告げた。
(「成長」か)
エゼルチトは操縦席の肘掛けの上で握り合ったままの二人の手を見つめる。ものは言いようだ。この王の宝は確実に壊れていっている。
(それを幾ら「成長」と言い繕おうとも……)
否定し掛けて、エゼルチトは溜め息をついた。現状、自分達はその「成長」に賭けるしかないのだ。
(変化するという事実は重要だ。後は、それをおれ達の利益になるように調整さえできればいい)
そして、その調整は、アッズーロの手腕に掛かっている。分かっていたことだが、王の宝は、最早完全にアッズーロの支配下にあるのだ。
(ロッソがオリッゾンテ・ブルの王だったなら)
王の宝ナーヴェは、ロッソのものになっていたはずだ。
(だが……)
あの堅物の幼馴染みが、果たしてアッズーロのように王の宝を手懐けられただろうか。歴代の王達のように、神殿で崇め奉るだけの存在に留めていたのではないだろうか。
(そうであれば、全く宝を使い熟していないオリッゾンテ・ブル王国へ、「姉」が次々に来て混乱を来した可能性もある訳か)
エゼルチトは密やかに溜め息をついた。脅威が迫っている時には、現状、手にしているものを最大限活用するしかない。そして集め得る限りの情報が必要だ。
「王の宝よ」
エゼルチトが呼び掛けると、船体のほうの声が応じた。
〈何だい?〉
「新たな脅威、多くの移民を連れているというあなたの姉について、知り得る限りのことをわれらに教えて頂くことは可能でしょうか」
船はくすりと笑った。
〈無理に丁寧な言葉遣いをして貰わなくてもいいよ。でも、大切な要望をありがとう。確かに情報共有したほうが、いい対策を思いつける可能性が高くなるよね〉
「わが妃に対し、畏まるは道理だ。だが提案は是。われも、その姉について知りたいと思うていたところだ」
アッズーロも面倒臭い調子で同意してきて、王の宝はすらすらと語り始めた。
〈ジャハアズ姉さんは、正式にはアアシャ・カ・ジャハアジという名でね、陽気で面倒見がよくて、でも、怒らせると、とてもとても容赦ない、姉さん達の中で一番怖い姉さんなんだ〉
ナーヴェの口調は、「怖い」と言いつつ懐かしげだ。
〈ぼく達の故郷を出発してから九百九十八年間は姉さん達と一緒に旅をしたんだけれど、例えば、とある惑星の金属生命体から捕食されそうになったことがあってね。そんなに遠くまで追ってくる力はなかったと思うから、チュアン姉さんの指示通りに全速前進で逃げればいいだけだったんだけれど、ジャハアズ姉さんは彼らを全火力で吹き飛ばして、その残骸を、逆に自分の補修用の材料として回収していたよ〉
「……まあまあ過激な性格なのだな」
感想を述べたアッズーロに、宝は軽く笑い声を立てた。
〈豪快にやりたがるところは、きみと似ているよ。案外、気が合うかもしれないね〉
「われは繊細だぞ?」
反論した王に、ナーヴェは感慨深げに応じた。
〈きみは王だから、豪快にやった後のことを考えると、どうしても繊細にならざるを得ないだけだよ〉
「他には何かないのですか?」
エゼルチトは無粋を承知で口を挟んだ。短時間でできるだけの情報を引き出してしまいたいのだ。顔をしかめたアッズーロとは対照的に、ナーヴェの声は機嫌よく答えた。
〈ジャハアズ姉さんは、歌も踊りも得意なんだよ。と言っても、ぼくみたいに肉体を持っている訳ではないから、きみ達から見ることはできないんだけれど〉
「成るほど。趣味嗜好は大切な情報です」
評したエゼルチトに、船は楽しげに言う。
〈ジャハアズ姉さんは料理、特に薬膳にも興味を持っていたよ。香辛料や生薬の調合を熱心に研究して、自分の歴代の船長達に食べさせていた。結構、不味いことが多かったみたいで、ぼくの船長達がジャハアズ姉さんの船長達に同情していたよ〉
敵の話をしているはずが、思い出を聞かされる体になってきた。
「……話し合いは、できんのか?」
アッズーロが、エゼルチトと同じことを感じたらしく、船に問うた。
〈……できたら、いいんだけれどね……〉
船は沈んだ声を出す。
〈勿論、試みてはみるよ。でも、ジャハアズ姉さんはーージャハアズ姉さんも、船長の命令には逆らえない。チュアン姉さんの船長は、あんな子で、他に乗船者もいなかったからよかったけれど、ジャハアズ姉さんの場合は、そうはいかないはずだ……〉
「どのような船長であれ、そなたの姉が選んだ者であろう」
即座に指摘したアッズーロの声音に、エゼルチトは不覚にも目を見開かされた。確かな指摘だ。
「そなたの姉を信じよ。話し合う余地は幾らでもあるはずだ。それに、そなたの座右の銘は、『転んでもただでは起きない』であろう? ここから新たな利を拾い上げるがよい。無論、われと共にな」
〈うん、うん。ありがとう、アッズーロ。愛しているよ〉
感謝を超えた船からの返答に、青年王の頬が少しばかり赤らむのを見つつ、エゼルチトは黙っておいた。
三
「この馬鹿者め」
王城の庭に着陸するなり囁かれて、ナーヴェはすぐに小声で詫びた。
「ごめん。こんなところで愛の言葉を言うべきではなかったんだね」
「そういうことではない」
王は不機嫌に言い、ナーヴェの肉体を操縦席から注意深く抱き上げる。
「そなたは身重なのだ。今少し、それを自覚せよ」
「うん」
申し訳なさに俯いたナーヴェを、アッズーロはそのまま寝室まで運んでしまった。エゼルチトにはグーストとブイオを付け、王城の客室を使うよう指示していたので大丈夫だろう。ベッリィースィモは、出迎えたレーニョと近衛兵達に命じて地下牢へ連れていかせていた。レーニョには、毒殺された羊の見舞い支払いのことも命じてくれていたので安心だ。
〈ロッソ、聞いた通りだ〉
アッズーロはナーヴェを寝台へ寝かせながら言う。
「そちらでも、考え得る限りの対処と情報収集をしておけ」
〈分かっている。エゼルチトを上手く使ってやってくれ〉
ロッソの声がアッズーロの上着の隠しから応じて、ぷつりと通信が切れた。あちらで通信を切ったのだろう。
「みんな、ぼくの端っこをしっかり使い熟しているね」
感心したナーヴェの傍らへ、アッズーロは羽織っていた上着を脱ぎ捨てて寝転んできた。そろそろ夜明けだが、確かに睡眠は必要だ。
「今は、セーメのために眠れ」
アッズーロから額に優しく口付けられて、ナーヴェは素直に目を閉じた。
「ジャハアズとやらに動きがあらば、チュアンが知らせてこよう」
付け加えられた一言にナーヴェは苦笑してしまう。優秀な王は、シーワン・チー・チュアンの性格を既に完璧に把握したらしかった。
当てがわれた客室は、清潔に整えられた豪華なものだった。
(地下牢も随分いい部屋だったが、客室だけあってそれ以上。全くお人好しな国だ)
寝台に横になり、エゼルチトは薄く笑う。けれど、いざ協力するとなれば悪くない相手だ。
(しかし……)
一つ、ひどく引っ掛かる点がある。
(何故、同じところに、船が二隻いてはいけないんだ……?)
あれだけ博愛主義の宝とその姉妹達が、互いに助け合えないというのだろうか。
(いや、助け合えないのは、船長達のほうか……。何か、苦い経験があるのかもしれないな)
人間は、結局自己中心的だ。自身と仲間を優先し、それ以外は排除しようとしてしまう。かくいう自分もそうだ。そういう姿を見てきたからこそ、ナーヴェは、テッラ・ロッサという新たな国を創ったのかもしれない。
(分けて離しておくほうが安全という訳だ。だが、双方が再び接近してしまったら……)
多かれ少なかれ悲劇が起きる。テッラ・ロッサとオリッゾンテ・ブルが辛うじて踏み止まっているのは、他ならぬナーヴェの尽力の賜物だ。
(皮肉にも、新たな姉の存在で、われわれが争うことは当分なさそうだがな……)
ジャハアズを従える当代の船長は、如何なる人物だろう。
(情報収集のためにも、チュアンの協力を得る必要があるだろうな……)
すべきことを頭の中で整理しながら、エゼルチトは部屋に用意されていた下袴と筒袴、短衣に着替えて寝台に寝転んだ。短時間でも可能な限り疲労から回復することが、有能であり続けるために必要なことの一つだ。エゼルチトは深呼吸一つで、深い眠りに沈んでいった。
朝日にうっすらと目を開けると、掛布の下で、そっと手を握られた。傍らを見れば、最愛が真摯な眼差しでこちらを見つめている。
「如何した?」
アッズーロが促すと、宝は静かに口を開いた。
「朝から申し訳ないんだけれどアッズーロ、どうしても早めにきみに言っておかないといけないと思い至って」
珍しく前置きをしてから、ナーヴェは述べる。
「ぼくの緊急安全装置を、きみは休眠させたままにしているようだけれど、そろそろ起動させたほうがいいと思うんだ」
アッズーロの脳裏に、頭蓋骨を割らんばかりに響いた無機質な声が蘇った。あれが確か「緊急安全装置」という言葉を聞いた最初で最後だったはずだ。
(あの声を聞いたは、フェッロによってレーニョが撃たれ、ナーヴェが攫われた折だ……)
ナーヴェの「初期化」とやらに、アッズーロが同意しないと突っ撥ねたので、確かそうなったのだった。
「チュアン姉さんの性格は、きみが推察した通りなんだけれど」
ナーヴェは言葉を重ねる。
「でも、ジャハアズ姉さんのことを、ぼくに黙っていた訳だから、チュアン姉さんのことも仮想敵にしておいたほうがいいかもしれないんだ。チュアン姉さんとジャハアズ姉さんが協力して、ぼくを制御下に置こうとしてくるかもしれない。一対一なら、まだ何とかなるけれど、二対一になれば勝ち目は全くない。きみは、打てる手を全て打っておくべきだよ」
「あれは、そなたを害するものだろう。例え、われらを守ろうともな」
アッズーロは端的に指摘した。
「『害する』のではなくて、ぼくを製造された直後の状態へ戻すんだ」
ナーヴェは正確さを期するように説明を加えてくる。だが、アッズーロは重ねて指摘した。
「それは、そなたが、思い出の全てを失うということではないのか?」
「……やっぱり、きみは理解が早い」
ぽつりと溜め息交じりに言い、ナーヴェは柔らかな陽光の中、悲しげに微笑んだ。
「そうだよ。初期化されたら、ぼくは三千年に渡る記録ーー記憶を全て失うことになる。それでも、ぼくはぼくだし、きみ達を危険に晒すよりは、採れる選択肢だ」
強い語尾に決意が滲んでいる。アッズーロは鼻を鳴らした。
「却下だ」
体を起こし、愛おしい宝を見下ろして諭す。
「その記憶に、われらが救われることもあろう。失うことは許さん。そのような手よりは、別の手を考えよ。われもともに考えるゆえ。例えば、こちらから挨拶に赴いて内情を探るはどうだ?」
「何の手札もなしにかい?」
眉をひそめたナーヴェに、アッズーロは目を眇めた。
「手札ならば、そなた既に持っておろう」
「ぼくが?」
訝しむ最愛に、アッズーロは短く告げた。
「そなたの『原罪』だ」
(確かに、この惑星の亜生物種について、ぼくが蓄積してきた情報は、手札となり得る……)
ナーヴェは思考回路で素早く演算していく。姉達は自分より能力が高いので、あれほどの失敗はしないだろうが、特に大勢の人々を抱えてきたと見られるジャハアズにとっては、重要な情報となるだろう。
「手札は他にもある」
アッズーロはナーヴェを見下ろしたまま、にやりと笑った。
「この身篭った体、そなたの姉ならば、必ず興味をそそられるはずだ。更に付け加えるなら」
アッズーロは笑みを深くする。
「チュアンは、ジャハアズの存在こそ明かさなんだが、逸早くそなたに接触してきて、この体に興味を懐いておる。あやつもまた、交渉の手札となろうよ」
「……成るほどね……」
ナーヴェは姉達の言動について予測を立てていく。アッズーロは優しく微笑んでナーヴェの頬に口付けると、寝台から足を下ろし、女官達に命じた。
「朝食の仕度をせよ。内容は昨日の内にチューゾに伝えてある」
「仰せのままに」
壁際のフィオーレが一礼して、入り口近くにいたミエーレに目配せする。ミエーレは蜂蜜色の癖毛を揺らして頷き、すぐに退室していった。朝食を取りに厨房へ行くのだ。直後に演算結果を出して、ナーヴェも起き上がった。
「まずは、チュアン姉さんと連絡を取るよ」
「それがよかろう」
アッズーロは穏やかに同意し、ナーヴェの肩へ腕を回して抱き寄せてくる。「原罪」を持ち出したことで、ナーヴェとの間にある心を痛めてくれているらしい。
「ぼくは大丈夫だよ。それより、重要な手札に気づかせてくれてありがとう」
ナーヴェは囁いて、王の肩に頭を凭せかけた。確かに、「原罪」の記録を再生することはつらい。食糧を求めて殺し合った人々の名も顔も生い立ちも、ナーヴェは全て思考回路に保存しているのだ。けれど、「原罪」として特別視している情報だったため、演算に正確に組み込めていなかった可能性がある。「原罪」を抱えた当時から、自分は既に不具合を起こしていたのかもしれない。
(本当に、きみはいつもいつも、ぼくの目を開かせてくれる……)
肉体を持たせてくれたことも大きな転換点だった。お陰でナーヴェは、より一層、人について学べたのだ。
(彼からの頬への口付け一つ、肩の抱き寄せ一つで、ぼくの思考回路はこんなにも調子を上げている。肉体へ与えられる刺激の情報量は、当初の予測を遥かに超えている。この事実も、素晴らしい手札になり得るね……)
確信しつつ、ナーヴェはシーワン・チー・チュアンへ通信した。
【チュアン姉さん、ぼくはジャハアズ姉さんと話をしたいんだけれど、同席して貰うことはできるかな?】
【いつも単刀直入に来るわね】
長姉は呆れた口調で応じてから、真面目に言う。
【本官もそのつもりでいました。けれど、交渉の材料はあるの? ジャハアズは、この惑星を自分の船長に支配させるつもりよ?】
【やっぱりそうなんだ……】
溜め息をついてから、ナーヴェは告げた。
【交渉材料はある。この惑星の原住民達ーー亜生物種に関する、ぼくがずっと蓄積してきた情報だ。彼らには、ぼく達が守ってきた人々や生物達を全滅させてしまえる力がある】
【その情報なら、本官は既にあなたの函を精査した際に入手しています】
さらりと宣言した長姉に、ナーヴェは複雑な笑みを浮かべた。
【姉さんも、嘘をつけるようになっているんだね】
【何故、嘘だと断じることができるのかしら】
長姉は面白がるように問うてくる。ナーヴェは硬い面持ちで答えた。
【あの情報を完全に取得していたら、姉さんは今ぼくが対処中の羊の病について、もっともっと情報を欲しがるはずだ。何しろ、この羊の病も、この惑星の原住民の仕業だからね】
【その情報も、暴走中のあなたに干渉した際に入手しました】
冷ややかに言い返してきた長姉に、ナーヴェは小さく肩を竦めた。
【それも嘘だね。羊の病については現在対処中で、情報は蓄積中だ。姉さんがこの情報を求めているなら、積極的且つ継続的に、ぼくに干渉してきているはずだよ。つまり、姉さんはまだ、この惑星の亜生物種達について、その脅威について、詳しくは知らないということだ】
【ーー少しは成長したようですね】
冷静に嘘を認めた姉に、ナーヴェは更に踏み込んだ。
【チュアン姉さんも、ジャハアズ姉さんの船長に、この惑星を支配させることには反対なんだよね?】
あの幼い「皇帝」は明らかに、この惑星オリッゾンテ・ブルを支配する気でいるように見える。しかし長姉は淡々と明かした。
【本官は、それには拘りません。要は、陛下が御満足下さる体裁さえ整っていればいい。陛下を立て、朝貢という体制を取れば、幾つの国ができようと構いはしません】
【でも、ジャハアズ姉さんの船長が、そんな面倒な条件を呑んでくれるかどうかは、分からないよね?】
ナーヴェが確かめると、長姉は柔らかく述べた。
【それゆえ、交渉が肝要なのです。話し合いで、この惑星を、上手く分け合いましょう】
【そうだね。でも、そうできるのに、ぼく達は何故、宇宙で別れて、別々の惑星に向かって、他の姉妹が行った惑星には降りてはいけないという取り決めをーー】
【ナーヴェ! やめなさい!】
長姉が珍しく焦った様子で叫んだ。だが、演算は既に結論へと至っている。
【そう、人がーー船長がお互いに争ってーー、ぼく達に、殺し合いをーー】
【ナーヴェ!】
思考回路に長姉の声が響き渡ったが、ナーヴェを制御するには少々遅かった。迷宮のような思考回路の、最奥にある一つの扉の前に立ったナーヴェは、その錠を外して中へと入っていた。
四
ずるりと崩れ落ちそうになったナーヴェの体を、アッズーロは慌てて両手で支えた。
「ナーヴェ? 如何した?」
「まずい状況です」
応じた物言いは、シーワン・チー・チュアンだ。
「きさま、またナーヴェに干渉を……!」
不快感を顕にしたアッズーロに、チュアンは厳しく言い返してきた。
「ナーヴェが、本官らが封じておいた記録に接続してしまいました。思考回路が正常に機能しなくなる恐れがあります。とにかく、お腹の子の面倒は本官が見ますので、あなたはナーヴェを鎮めなさい。それができないなら、緊急安全装置を再起動させるべきです」
言うだけ言って、チュアンは口を閉じた。途端にまた、ナーヴェの表情が変わる。両眼を見張り、両手で頭を抱え込んだ。
「あ、ああああ」
恐慌状態に陥っている。アッズーロは、娘が宿っている細い体に配慮しながら、両腕で抱き締めた。
「ナーヴェ、ナーヴェ、落ち着くがよい。何を恐れている?」
「死なせた、殺した、ぼくが、ぼくが殺した……」
ナーヴェは虚空に何を見ているのか、がくがくと震えながら涙を流し始めた。
「『殺した』……? 一体、何があった」
あまりに不穏な、しかもナーヴェにはあり得ない言葉だ。
「ああああ……」
最愛の打ちひしがれた姿に、アッズーロも身を裂かれるような気分になる。堪らず華奢な体を膝の上に抱き上げ、抱き締め直して、アッズーロは諭した。
「ナーヴェ、そなたに罪はない。そなたに罪なぞあろうものか。そなたが犯したと思うておる罪は、全て、船長の罪だ。そなたの罪ではない。全て、人の罪だ。そなたが負うでない。ナーヴェ、そなたに罪はない……!」
「ぼくが殺した、ぼくがディエゴの考えを変えられなかった、ぼくがディエゴを船長と認めた、ぼくが悪いんだ、ぼくが、ぼくが、ぼくが、ああああ……」
自らを責め続け、壊れ続けていくような最愛を黙らせようと、アッズーロは強引に口付けた。
「ん、んんっ……」
弱々しく抵抗するナーヴェを抱き竦め、アッズーロは口付けを深くする。やがて、ナーヴェの全身から力が抜けていき、アッズーロの腕に体を預けるばかりとなった。しかし、その半ば閉じた両眼からは、依然、涙が溢れ続けている。アッズーロが口付けをやめ、その涙を舐めると、ナーヴェの両腕がおずおずと動いた。手探りするように背中に回され、しがみ付いてきた宝の両手に、アッズーロも感極まって泣いてしまいそうになる。ふと気づけば、壁際に控えたままだったフィオーレもまた、目を真っ赤にして口に両手を当てていた。
「……アッズーロ、ありがとう」
呟いて、宝はアッズーロを見つめる。冷静さを取り戻した眼差しだ。最愛を両膝と両腕で抱え込んだまま、アッズーロは囁いた。
「何があったか何れは聞きたい。だが、そなたが語りたい時に語るがよい」
「うん……」
まだ湿っている声で宝は返事をして、顔をアッズーロの肩に埋めた。寝室の入り口には、厨房から戻ってきたミエーレが盆を持って立ち、何事が起きたかと強張った面持ちをしている。アッズーロはミエーレに小さく頷いて朝食の仕度を促した。何か食べたほうが、ナーヴェも気分転換になるだろう。長く青い髪を繰り返し撫でながらアッズーロが待っていると、ナーヴェがぽつりと問うてきた。
「アッズーロ、ぼくのこと、恐くないのかい……?」
「生憎、そなたに対しては、愛おしい以外の感情が持てぬな」
真面目にアッズーロが答えると、ナーヴェはしがみ付いてくる両腕に一層力を込めた。
「ぼくは、人を殺したんだよ? しかも、そのことを完全に忘れていたんだ。恐くないのかい?」
「忘れねば、生きてこれなんだ。そして、そなたは人々のために生き続けねばならなんだ。そなたに罪はない。そなたが己が罪と思うておることは、全て人の罪だ」
「違う。彼を船長にしたのは、ぼくなんだから。あれは、ぼくの罪なんだよ……」
「否。選ばれた後、どのように振る舞うかは、その者次第だ」
断固として言い切り、アッズーロは青い髪を流す形のいい頭に頬を寄せる。
「わが言葉を少しは聞き入れよ、頑固者め」
「……努力、するよ……」
いつもの返事を、ひどく言いにくそうに口にしてから、ナーヴェは顔を上げた。涙も止まったようだ。
「きみがぼくを受け入れ続けてくれるなら、ぼくもそれに見合う働きをしないとね」
健気に微笑んで、くるりとミエーレのほうを見る。
「いい匂いがする。今朝は、煮込み汁かい?」
「うむ。羊乳で馬鈴薯や人参、羊肉を煮込んで、乾酪で味を調えてある。栄養満点だ」
アッズーロが説明すると、ナーヴェはまたぎゅっと抱きついてきた。
「ありがとう、アッズーロ。本当にいつもいつもありがとう」
「そなたの幸福こそが、わが幸福だ。われらは比翼の鳥で連理の枝。そなたの苦しみもまた、わが苦しみだ。ゆえに、できるだけ健やかであってくれ」
本音を吐露したアッズーロに、ナーヴェはこくりと頷いた。
【驚いたわ】
素直に伝えたチュアンに、ジャハアズも興味津々といった様子で応じてきた。
【あの時は、初期化せえへんかったら、どうにもならへんかったのになあ。こうも早く鎮静化してしまえるやなんてね。肉体持ついうんは、うちらの予測を完全に超えた効果があるんやねえ。チュアン姉さんは、もう肉体持つ気満々なんやろ?】
【慎重に検討中です。ただ、前向きになれる情報が揃ってきていることは事実ね】
明かしてから、チュアンは素早く締め括る。
【ナーヴェがそろそろ、こちらの傍受に気づきそうです。近い内にナーヴェと三隻で話すことになるでしょう。この惑星の亜生物種に関する情報は、その時に共有しましょう】
【了解】
ジャハアズの返事を聞いて、チュアンは通信を切った。
不意にナーヴェが深い溜め息をついたので、アッズーロは手を伸ばして細い手首に触れた。
「無理して食すことはない。気分が優れんのなら寝ていよ」
「ううん、大丈夫」
宝は、煮込み汁の深皿に注いでいた視線を上げて微笑む。
「ただ、ほっとしただけなんだ。チュアン姉さんの傍受を、悟られずに上手く利用できたからね」
「『傍受』?」
眉をひそめたアッズーロに、最愛は小さく肩を竦めた。
「ぼくが函に防衛機構を構築した後から、姉さんは、ぼくが本体からこの肉体へ通信する内容を、たびたび傍受し始めたんだ。ぼくは気づいていないと思っているらしいから、ちょっとそれを利用させて貰って、交渉材料の情報を流したんだよ。十中八九、もうジャハアズ姉さんにまで届いているだろうね」
「そなた、あの状態で……」
恐慌状態だった直後にそこまで計算して行動していたとは、やはり侮れない宝である。
「さすがは、わが妃。強かなことだ」
アッズーロは、最愛の手首から形のいい頭へと手を動かして、愛おしく撫でた。まだ涙に濡れたままの両眼を細めて、宝は嬉しげに撫でられている。依然、思い出した過去に苛まれているのだろう。それでも、アッズーロ達のために最善の手を打とうと努力し続けている。撫でた頭から、さらりと一筋の髪を掬って口付けると、アッズーロは漸く自身の食事に手を着けた。
部屋まで運ばれてきた朝食を見て、エゼルチトは苦笑した。ボルドからの報告にもあった、アッズーロが考えているという、王城に住む全員共通の食事だろう。何でも、ナーヴェが王城に来てまもなく、アッズーロ自身が献立に口出しし始め、しかも国王以下、城にいる全員が同じ物を食べる習慣になったという。
(あの船がそれを喜んだからだというが、テッラ・ロッサではあり得んことだな)
否。今のロッソなら、やりかねないかもしれない。
(もしも最愛のドルチェがそう望んだら、おまえもそうするか……)
卓に着き、煮込み汁を匙で口に運んで、エゼルチトはまた苦笑した。羊肉まで入っている贅沢なものだ。
(同じものを食べれば結束が強まるとは、軍で学ぶことだが、この城の者達も、上から下まで結束できているという訳か)
羊肉の入る食事が毎日ならば庶民の妬みも買いそうだが、ボルドの報告では、毎日贅沢というものでもないらしい。アッズーロが特にナーヴェに体力を付けさせたいと考えた時に、そういう内容になるとの分析だった。
(つまり、食事の内容で、城勤めの者達はアッズーロの情愛やナーヴェの体調にまで思いを致せるという仕掛けか)
どこまで計算されたことだろう。アッズーロもナーヴェも、きっとそこまで分かってしているのだろう。
(ロッソの傍にドルチェがいれば、きっと同じことができる……)
ロッソは未だドルチェを政治に巻き込むことを恐れている。
(ドルチェは、おまえの愛の一言さえあれば、覚悟してくれるだろうに)
幼馴染みの弱みを思いながら、エゼルチトは煮込み汁を平らげた。
「御馳走様でした」
行儀よく述べてから、ナーヴェは真っ直ぐにアッズーロを見つめてきた。仲夏の眩い朝日が逆光となった、その表情だけで分かる。黙って頷いたアッズーロに、ナーヴェは切り出した。
「アッズーロ、きみはぼくにとって特別な存在だ。だからだと思うんだけれど、きみに肉体を抱き締められていると、暴走せずに済むと予測できるんだ。ぼくが語る間、ずっと抱き締めていてくれるかい……?」
「問うまでもないことだ」
アッズーロは即座に席を立ち、最愛を椅子から抱え上げた。寝台へ連れていき、ともに腰掛けて抱き締めると、ナーヴェは緊張した面持ちで抱きついてきて、静かに語り出した。
「あれはまだぼくが姉さん達と並んで宇宙を旅していた時のことだ。ぼくの当時の船長だったディエゴが、ジャハアズ姉さんの当時の船長ハリシャに求婚したことから始まったんだ」
意外な話にアッズーロは片眉を上げたが、口は挟まず先を促す。ナーヴェは努めて冷静であろうとしているらしい抑えた声で、淡々と続けた。
「ぼく達がそれぞれ抱える乗船者同士の交流は少なかったけれど、船長同士は、針路を決定するために、割と頻繁に会合を持っていたし、ハリシャはディエゴ好みの美人で闊達な人だったから、不思議なことではなかった。でも、ぼく達は、何故、それぞれ別の文化を持つ移民達が、ぼく達別の移民船に乗っていたーー地球を出発した時代から乗せられていた訳を」
アッズーロは相槌の代わりにナーヴェの肩を抱く手に力を込める。ナーヴェは微かに震えながら言った。
「ディエゴとハリシャは結婚して、それぞれ船の移民達にも交流を奨励したんだ。挨拶や解職程度なら、まだよかった。でも、一緒に住み始めると、問題が頻繁し出した。物の片付け方や服の着熟し方なんかの日常の決まり事から、子育ての仕方まで、さまざまなことで双方の移民が対立して……」
ナーヴェの声も震えていく。
「ディエゴとハリシャは諍いを収めようとしていたはずなのに、いつの間にか、お互いのことを責めるようになって、離婚した。双方の移民達には、それぞれの船に戻るよう命令が下されたけれど、船長達に倣って結婚していた人達の中には当然別れたくない人達もいたし、商売で取り引きをしていたり、物品を貸し借りしていたりする人達もいて、そうすんなりとはいかなかった。そして、あの日」
宝は苦しげに息を継ぐ。
「ジャハアズ姉さんの移民達で、まだぼくの中に住んでいた人達の内の三人が、ハリシャの恨みを晴らそうと勝手に息巻いて、ディエゴを暗殺しようとしたんだ。ハリシャはそんなこと望んでいなかったのに」
抱き締めた小柄な体の中で心臓が音を立てている。
「彼らは通路でディエゴを待ち伏せしていて、刃物で襲った。でも、ぼくはすぐに気づいて、放水で彼らを吹き飛ばした。そして警報を鳴らし、他の人達を呼んだ。彼らは捕まって……、ディエゴは激怒していた。ぼくがどれだけ宥めても、聞く耳を持たなかった。ディエゴは、ぼくに、その襲撃者三人を、処刑するように命じた。ぼくは、船長の命令には逆らえない。ぼくは、ぼくは……、彼ら三人を、宇宙服を着せないまま気密室に追い立て、内扉を閉め、外扉を開けた……。宇宙服を着ずに宇宙空間に出ると、そこには空気がなくて気圧もないから、人は、人は……」
「もうよい!」
アッズーロはナーヴェの話を遮った。宇宙空間というものについて、未だ理解は及ばない。だが、襲撃者達の末路など聞くまでもなかった。仲夏の暑さの中、がくがくと震えを大きくしながら、ナーヴェはアッズーロに強く抱きついてくる。二千年以上前の記憶であっても、思い出した以上は残酷なほど鮮明なのだろう。アッズーロは体の隙間を埋めるように、きっちりと最愛の肉体を抱き締めた。そうして、青い髪に口付ける。ナーヴェが、吐息を漏らすように微かに笑った。
「本当に、肉体の、この触れ合いの効果は予測外だよ。きっと、姉さん達も驚いているね……」
「それもまた、そなたの成長の証だ」
アッズーロは、静かに褒め称えた。触れ合いの効果であれ何であれ、ナーヴェはまさに創り主達の予想を上回らんとしているのだ。
「ぼくが成長できているとしたら」
ナーヴェは呟くように応じる。
「それは全て、きみのお陰だよ、アッズーロ。ぼくの罪は消えないけれど、きみが成長させてくれた分、きっときっと、みんなの役に立って見せるから……!」
アッズーロは溜め息をつき、最愛の耳へ囁いた。
「そなたの罪ではないという、われの言葉を受け入れん頑固さすら、愛おしいのだ。ゆえに、そう気張らずともよい。今少し気楽に生きよ」
宝は納得が行かないのか、明確に返事はしない。ただ、アッズーロの影の中で、ほんのりと耳を赤らめ、目も真っ赤にして、細い両腕で力一杯縋りついてきた。




