闘う妃
第二十四章 闘う妃
一
落ち着いたアッズーロと慰め終えたナーヴェが鮭の燻製に舌鼓を打っていると、唐突に低い男声が寝室に響いた。
〈こちらロッソ。聞こえるか、ナーヴェ〉
「何故、われでなく、そなたに呼び掛けるのだ?」
アッズーロが憮然として呟きつつ、短い上着の隠しから通信端末を取り出して卓上に置いた。
「ぼくの端っこに向かって話しているから、かな?」
肩を竦めて呟き返し、ナーヴェはロッソへ応じる。
「聞こえるよ、ロッソ。きみと直接話せて、とても嬉しいよ」
〈あまり「嬉しい」などと言うな。そなたの王に妬かれるは御免だ〉
ロッソの軽口に、アッズーロが好戦的な笑みを浮かべた。どうやら、ロッソは傷心のアッズーロを元気づけるために、敢えて挑発してくれたらしい。
「大丈夫だよ、アッズーロは最近、とても寛容だから」
ナーヴェは微笑んでロッソの企みに乗った。アッズーロは、ナーヴェの予測通り、胸を張る。
〈信じられんな〉
ぼそりと感想を述べたロッソに、アッズーロは誇らしげに言った。
「われとナーヴェは比翼の鳥にして連理の枝であるからな。深き愛を確かめ合うたがゆえに、余裕が生まれるのだ。独り身には、想像もできん境地であろうがな」
〈そうだな。寛容なオリッゾンテ・ブル王など、想像できん〉
ロッソは皮肉を返してから、口調を変える。
〈それで、そちらの状況はどうなのだ〉
ナーヴェはアッズーロに先んじて答えた。
「ぼくが作った羊の病に効く薬を軍の人達に配って貰っているんだけれど、その薬を呑ませた羊に、密かに毒を呑ませて殺している工作員がいるんだ。キアーヴェというんだけれど、残念ながら、エゼルチトの配下らしい」
〈それは、すまぬ〉
ロッソは沈痛な声で詫びてきた。エゼルチトのことは、全て己の責任だと考えているのだろう。
「ううん。ニードがかなり頑張って状況の悪化を食い止めてくれているから、寧ろ助かっているよ」
ナーヴェが告げると、ロッソは溜め息をついた。
〈あやつも派手に動き始めたゆえ、そなたらにも存在が知れたか。あやつには間諜の任務のみ与えたが、独断で工作員紛いのことをしておるようだ。今はもう、任せるしかあるまいと思っている。して、そなたらはどうするつもりなのだ〉
「ぼくの肉体を、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城跡で磔刑にすれば、手っ取り早く彼らを落ち着かせることができると思うんだけれど、セーメ――お腹にいる子に負担を掛けてしまうし、何より、姉さんの全面的協力がないとできないことだから、それは最終手段として保留中なんだ」
ナーヴェが説明すると、アッズーロが顔に怒気を漲らせて言った。
「その案は却下したはずだ」
「大臣会議の結論としては、きみの意見も鑑みつつ、最終手段として保留されたはずだよ? みんなの憎悪を一時的に鎮められるし、復活という奇跡を示せば、王の宝としての信憑性も高まるし、一石二鳥だからね。まあ、ぼくも、磔刑はとても苦しいから、積極的に望んでいる訳ではないんだけれど」
ナーヴェがロッソのために説明を加えると、謝罪が返ってきた。
〈……その折は、すまなかった〉
ロッソに「磔刑」は禁句だったようだ。
「ううん。きみを責める気持ちは微塵もなかったんだけれど、言い方がまずかったね」
「そやつには、永遠に謝らせておけ」
アッズーロが嘯いたが、ナーヴェは無視して話を続けた。
「当面のキアーヴェへの対抗策としては、とても地道だけれど、羊の薬を配っている兵士のみんなに、薬を呑ませた羊の番もお世話になるということに決定したよ。その分、薬を迅速には配れなくなるけれど、確実な成果を上げていくことが、何より大切だからね。そして、ぼく達側の間諜のルーチェにも、ニードに賛同するという形で動いて貰って、地元のみんなで羊番の組織を作れるようできたらと考えているんだ。どうかな?」
〈堅実で、よい策だ〉
ロッソは評してから、言葉を継ぐ。
〈加えて、おれから提案だ。テッラ・ロッサ国内には、今やそなたの支持者が多くいる。そなたの歌が広まったためでもあろうし、磔刑の際にそなたが語り掛けた言葉の力もあろう。そなたが小惑星から皆を守ったと、おれやシンティラーレが説いたからでもある。同様に、オリッゾンテ・ブル国内にも、確実にそなたの支持者が多くいるはずだ。彼らは、キアーヴェが幾ら羊に毒を盛ろうと、そなたの誠意を疑うことはせんだろう。間諜や工作員を使って、そういった民達の声を、もっと高めていくことが有効だと、おれは考える。そしてもう一つ。これからも、キアーヴェは毒を用いることが多かろうと思う。毒は、アッズーロの負の代名詞だからだ。そこは、心しておくがよい〉
「言わずと知れたことだ」
アッズーロが苦々しく吐き捨てた。
(きみは、誰よりそのことを痛感しているよね……)
ナーヴェは大切な王との間にある心が再び痛むのを感じながら、ロッソへ感謝を伝えた。
「とても有用な提案をありがとう。早速、対策に盛り込んでいくよ。きみが指摘してくれた通り、オリッゾンテ・ブル国内にも、ぼくを認めてくれている人達は、それなりにいるからね。特に、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の木工職人さん達や竹細工職人さん達とは、一緒に働いた仲なんだ。彼らの力を、いろいろな方面で借りていけるようにしてみるよ。それに、今はちょっと頓挫してしまっているけれど、反乱を起こしている人達の代表者達を王城に招いて直接アッズーロと話して貰う計画もあるんだ。いつかは、それを実現させたいと、ぼくは願っている。きみとも、何度も直接会ったからこそ、分かり合えた訳だから」
〈そうだな〉
ロッソは穏やかに相槌を打ってくれたが、アッズーロは苦い表情のままだ。ロッソとナーヴェの関わりについても、ゼーロ達を招く計画についても、依然いい顔はできないのだろう。
(それでも、きみは王としての決断ができる人だから)
愛する王を誇りに思いつつ、ナーヴェはロッソに尋ねた。
「ところでロッソ、口振りから察するに、きみは、キアーヴェを直接知っているね?」
〈――ああ、知っている〉
やや間を置いたロッソは、観念したように認める。
「なら、きみがキアーヴェについて知っている全てを教えてくれないかい?」
ナーヴェは平和的に畳み掛けた。
「キアーヴェのような身の上の者は、多くいるのであろうな……」
油皿の火を消し、夜の帳に包まれた寝室で、アッズーロがぽつりと呟いた。ナーヴェの傍らで仰向けに寝転び、天井を見つめた青年の横顔は、窓の隙間から差し込む月明かりに照らされて、憂いに満ちている。王として、思うことが多かったのだろう。
「もし、きみがキアーヴェの身の上に負い目を感じているのなら、それは間違いだよ」
ナーヴェは静かに告げた。罪は、自分と当時の王ザッフィロにある。
「オリッゾンテ・ブルからテッラ・ロッサが独立したのは、きみが生まれる前のことだからね。そうなるよう導いたのは、ぼくだから、罪があるとすれば、負うべきは、ぼくなんだ」
「――気に入らんな」
アッズーロは低い声で呟き、体ごとナーヴェのほうへ向いた。暗いので表情が読みにくいが、真っ直ぐに見つめてくる双眸には、強い光がある。その双眸を見つめ返して、続く言葉を待ったナーヴェに、アッズーロは、真摯な口調で言った。
「われらの関係を、比翼の鳥、連理の枝と言うたは、そなただ。何であれ、一人で背負うことは許さぬ。われにも、ともに背負わせよ」
正論だ。そして、切ないと感じるほど嬉しい要望だ。
(少なくとも、今、この時は、きみの優しさに浸っても許されるかな……?)
ナーヴェは潤む目を細めて微笑むと、特別に愛する相手へ囁いた。
「きみは、本当に不思議な人だ。とても希有な存在だよ。いつもいつも、難局に直面している最中にこそ、ぼくを一番幸せな気持ちにさせてくれる。何故、ぼくの欲していることが、そんなに分かるんだい……?」
「わが最愛たるそなたを、常に気に掛けておるからだ」
アッズーロも微笑むと、両腕を動かして、ナーヴェの肉体を優しく抱き寄せてくれた。気持ちの伝わってくる抱擁に、ナーヴェはただ身を委ねる。仲夏の夜、汗ばんだアッズーロは、相変わらず香ばしい羊乳の匂いだ。その胸元へ顔を寄せたナーヴェに、アッズーロは更に言い聞かせてきた。
「――加えて、われは、テッラ・ロッサを独立させたことを、罪とは思わん。それは、必要なことだったのだ。それを、われとそなたとで、エゼルチトめに証明して見せようではないか。ロッソと手を取り合うことで、な」
(ああ、きみは、本当に――)
「感極まる」とは、こういうことを言うのだろう。言葉以上のものでアッズーロに応じたくなったナーヴェは、力強い腕の中から頭をもたげて、間近から見つめてくる青年王へ、自分から唇を重ねた。
(ぼくはこれからも壊れ続ける。その果てに、きみの望む成長が遂げられるよう、願っているよ――)
それは、誓いというよりも、祈りに似た口付けだった。
抱き寄せた腕の中で眠りに落ちた最愛を、そのあどけない寝顔を、アッズーロは淡い月明かりを頼りに、じっと眺めた。
(われらは代々、そなたに次々と重荷を負わせて生きてきたのだな……)
基本的に「忘れる」ということがないナーヴェは、全ての苦い記憶を、誠実に、そのまま抱え続けて生きてきたのだ。
キアーヴェは、オリッゾンテ・ブルの生まれだと、ロッソは語った。フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領の辺境から、貧しさゆえに家族でピアット・ディ・マレーア侯領に流れ、そこで孤児院に預けられたという。家族は離散し、行方知れずになったらしい。孤児院で十二歳まで育ったキアーヴェは、家族を捜して孤児院を出た後、その行方を追ってテッラ・ロッサへ至り、エゼルチトに雇われたという話だった。そして、キアーヴェの家族がテッラ・ロッサへ向かった理由は、根拠のない噂だった。即ち、テッラ・ロッサは資源に恵まれた理想郷であり、誰もが幸せに暮らせる、という夢物語だ。
――「その噂は、ザッフィロがテッラ・ロッサの独立を承認した際に行なった演説が元だろうね」
ナーヴェは沈痛な面持ちで呟いていた。
アッズーロの祖父たるザッフィロは、兄ロッソが、当時オリッゾンテ・ブル王国の辺境の開拓地に過ぎなかったテッラ・ロッサを国として独立させ、その国王となることを推奨した。その上で、国民達にテッラ・ロッサへの移民を奨励したのである。兄ロッソが、翡翠色の双眸を持っているという、ただその一点で国王になれなかったことに、後ろめたさを感じていたからだろう。
(王の言葉が、多くの民の人生を歪めた――)
由々しきことだ。けれど、当代の自分も、きっと同様のことを大なり小なりしているのだろう。だからこそ、反乱など起こされるのだ。
(歴代の王の失政を、そなたは全て、己が罪として背負うてしまう。ならば、われは、そなたの伴侶として、わが代の内に、そなたが罪として数えておるものをでき得る限り精算していかねばな……)
その中には、此度の反乱も当然含まれている。
(ロッソとは、明日の九時に改めて通信し、エゼルチトの説得にも当たらせることとなったが……)
――「エゼルチトを説得するのは、ロッソ、きみにしかできないことだから、一晩寝ずにしっかり考えて、明日は必ずエゼルチトに、配下達を引かせると約束させてほしい。分かったね?」
珍しく上から物を言って念押しまでしたナーヴェは、その後で、ロッソの説得にエゼルチトが応じ、配下達を止めるだろうと楽観的な予測をしていた。
(そなたは、往々にして人を信じ過ぎるきらいがあるゆえな……)
ナーヴェの美徳であるが、危険なところでもある。
(逆にエゼルチトを人質として、ロッソを動かすくらいの発想を持ってもよいものだが……)
アッズーロの腕枕で寝息を立てる宝は、未だ強大な力を有しながら、その性格は誠実極まりない。
(それゆえ、限りなく愛おしいのだが……、難しいところよな……)
青い髪の上から妃の額に軽く口付け、苦笑すると、アッズーロは明日に備えて目を閉じた。
二
深更、ぱちりと目を開けたナーヴェは、月明かりでアッズーロの寝顔を窺い、熟睡していることを確かめると、そろそろと動き始めた。己の腰の辺りに掛かっているアッズーロの腕をそっと外して敷布の上に下ろし、掛布から滑り出て、床へ素足を着く。音を立てずに外した右腕の固定具を卓の上へ静かに置くと、枕元にアッズーロが置いた通信端末を握り、ひたひたと窓へ向かった。
(王妃としての礼節を破ってしまうけれど、扉から出て、警護の近衛兵達と余計な争いはしたくないから、ごめん、アッズーロ)
思考回路で言い訳しつつ、ナーヴェは細く開いた窓から外へ出て、王城の外壁に取り付き、するすると庭園まで降りた。妊娠中ではあるが、まだ初期なので、この程度は造作もない。
(ロッソがエゼルチトを説得する時に、きみがいたら余計な口を挟んでしまうかもしれないからね……。それに、エゼルチトには、ぼくの誠意も見せておきたいんだ)
アッズーロとの間にある心が多少痛むが、ロッソがエゼルチトの説得に当たるのは明日だと、またも上手に嘘がつけてしまった。
(後は、地下牢の警護に当たっている近衛兵達を突破するだけだ……)
近衛兵達は当然、武技に秀でていて強い。
(尤も、彼らは全員、ぼくに手を出せないという弱味を持っているから、無力化するのは簡単だけれど、アッズーロに知らされるのだけは避けないと……)
船長たるアッズーロに本気で命じられれば、自分は応じずにはいられない。そのように造られている。
(それでもきみは、ぼくが小惑星を迎撃に行く時、止めはしなかった。ぼくを本気で愛してくれているのに、王としての立場を優先した。きみは、本当に、素晴らしい船長だよ……)
外壁沿いに庭草の上を密やかに歩いて、地下牢の入り口に近づいたナーヴェは、小石を一つ拾って投げた。
かさっ。草の上に落ちた小石が軽い音を立てる。
「何者だ!」
鋭く、近衛兵の一人が誰何した。ナーヴェは、月明かりが遮られた王城の陰を利用して、もう一つ小石を、更に遠くへ放る。かさっと再び鳴った音に、近衛兵達は槍を構え、そろそろと地下牢入り口を離れて進み始めた。
「誰だ! 出てこい!」
辺りをきょろきょろと見回しながら、四人いる近衛兵達は、庭園のあちこちの陰を探っていく。四人の立てる音が、がさがさと響き、辺りを騒がしくした。その音に紛れて、ナーヴェは動く。
(ごめんね……)
思考回路で詫びつつ、地下牢入り口を塞ぐ鉄柵の鍵を針金で開け、するりと中へ入り込んだ。篝火に照らされた石造りの階段を素早く降り、音を立てずに通路を走る。エゼルチトのいる部屋の前には、見張りの近衛兵達がいたが、ナーヴェは姿を見せてやや焦った声で言った。
「庭園のほうに、不審者が出たらしいんだ。外のみんなで捜索しているんだけれど、まだ発見に至っていないんだ。応援に行ってくれないかい?」
「了解しました」
「ただ今すぐに」
近衛兵達は素直に信じて庭園へと走り去っていく。ナーヴェの嘘の精度は飛躍的に向上しているようだ。だが、やはり、頭の切れる将軍は騙せなかったらしい。
「随分と回りくどい人払いをするんだな」
面白がるようなエゼルチトの声が聞こえた。
「こんばんは。夜分遅くにごめん」
詫びて、ナーヴェはエゼルチトがいる部屋の扉前まで行き、格子越しに微笑み掛ける。
「でも、どうしても、アッズーロのいないところで、ロッソと直接話してほしいと思ったんだ」
「ロッソと……?」
怪訝な顔をしたエゼルチトへ、ナーヴェは手にした通信端末を示した。
「お互いがこれを使えば、遠くにいる人とも、直接話ができるんだよ。もう一つを、ボルドがテッラ・ロッサ王宮へ届けてくれたから、ロッソと直接話ができるようになったんだ」
「直接、陛下と話をして、今更、何がどうなるものでもないだろう」
笑ったエゼルチトに、ナーヴェは首を横に振って見せた。
「それは分からないよ。きみはロッソのために生きている。でも、ロッソの考えや思いを、実のところ、正確には知らないのかもしれないと感じてね。だから、彼と改めて話をしてほしいんだ。ロッソも、それを望んでいる」
エゼルチトは溜め息をついた。ロッソと話をしても、損にはならないよう内容を吟味することはできる。寧ろ、こちらの意図を直接伝えられる絶好の機会だ。夕食を与えられてから五時間ほど経っているが、特に何かの薬を盛られたような症状もない。拷問されるような雰囲気もなく、そうだったとしても、ロッソは王としての判断をするはずだ。
「分かりました。話くらいは、幾らでも致しましょう」
エゼルチトが承諾すると、王の宝はほっとしたように表情を弛めた。
「ありがとう」
礼を述べて、持っている黒い小箱に話し掛ける。
「ロッソ、ロッソ、起きてほしい」
(何だ、今から起こすのか)
呆れたエゼルチトの眼前で、王の宝は、小首を傾げて黒い箱に耳を寄せた。
(あいつは、眠りは浅いほうだが、下手をしたら、ドルチェと一緒にいるかもしれんぞ……?)
懸念したエゼルチトの視線の先で、篝火に照らされた宝の表情が、ぱっと明るくなった。
「ロッソ、よかった」
ロッソが応答したらしい。
「起きなかったら、ちょっと警報音でも鳴らして起きて貰おうと思っていたんだけれど、あれを鳴らすと王宮中の人が起きてしまうかもしれないから、すぐ起きてくれてよかったよ」
何やら傍迷惑なことを言いながら、宝は嬉しげにエゼルチトを見る。
「今から、エゼルチトと話してほしいんだ。そうして、エゼルチトに、きみの真意をちゃんと伝えてほしい。きみ達のすれ違いがなくなれば、きっとたくさんのことが上手くいくから」
〈それは、願ってもない〉
ロッソの声が、黒い箱から聞こえた。
「陛下、わたしのことはどうかお気になさらず」
エゼルチトは小さな箱へ向け、先を制して話す。
「陛下にはただ、御心のままに、オリッゾンテ・ブルの民を守るため、軍を動かし、不当に分離されていた王権の統合を成し遂げて頂きたい。王権の統合がなされてこそ、オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ両国に、真の安寧がもたらされるのです」
〈――思い上がるな、エゼルチト〉
ロッソの低い声が響いた。本気で怒っている。そして、疲れている。疲れさせているのは、他ならぬエゼルチト自身だ。
「――思い上がってなどいませんよ」
冷ややかに、エゼルチトは返した。自分の心境としては、寧ろ、ロッソにもう少しばかり思い上がってほしいところだ。ロッソには、それだけの能力がある。この幼馴染みは、果断なところを充分に持っている癖に、妙なところで消極的なのだ。
(だからドルチェとも進展しない)
「わたしはただ、陛下に宿願を叶えて頂きたいと考えているだけにございます」
〈それが思い上がりだと言うのだ。国は、おれの願望のためにあるのではない。国は、民の安寧のためにあるのだ〉
「陛下の治世が民の安寧に繋がります。陛下は、アッズーロなどより王として優れておられる。オリッゾンテ・ブル王国の民も、いずれ、陛下の治世を喜ぶようになります」
熱を込めて説いたエゼルチトに、黒い箱の向こうで、ロッソは溜め息をついた。
〈そなたは甘い。民とは保守的なものだ。変化に対しては、大抵、最初は拒否反応を示す。しかもアッズーロの治世は、今のところ大きな失策をしておらん。必ず、オリッゾンテ・ブル王国の民は、おれの治世に少なからぬ反発を覚えるだろう。そこへ、僅かな弾圧や統制、或いはテッラ・ロッサ王国の民による差別などあってみろ、すぐに独立運動が起きるぞ〉
「陛下は、それほどに治世に自信がないのですか?」
揶揄したエゼルチトに、ロッソは断言した。
〈ない〉
「何故です」
エゼルチトは半ば唖然として、問い質した。ロッソは冷静に自身の統治能力を見極めてきたはずだ。厳しい自然環境のテッラ・ロッサを、それでも国としてまとめ上げてきた自分の治世を、ある程度評価できるはずなのだ。けれどロッソは、穏やかな声音で指摘した。
〈オリッゾンテ・ブル国民の多くは、今やアッズーロとナーヴェを好ましく思っている〉
「そのようなこと、如何ようにも操作できます」
エゼルチトが言い切った時、頭上から大きな金属音が響いてきた。地下牢入り口の扉が、随分と乱暴に開かれたのだ。
「あ……」
ナーヴェが、しまった、という顔をして、階段のほうを見た。そのナーヴェへ、高く響く靴音が、階段を降り、通路を歩いて迫ってくる。格子の向こうに現われたのは、エゼルチトの予想通り、国王アッズーロだった。青年王は、白い長衣の上に上着を羽織っただけの軽装だ。恐らく今の今まで寝ていたのだろう。しかし、その横顔には、眠気など一切なく、ただただ怒気が満ちていた。
「ごめん、アッズーロ」
ナーヴェが己の王に相対して、心底すまなそうに詫びる。
「どうしても今夜の内に、ロッソとエゼルチトに直接話してほしいと思ったんだ」
言葉を切って返事を待つふうのナーヴェに、アッズーロは無言だ。王の宝は、覚悟を決めた表情で、更に弁明した。
「それに、きみのいないところで、二人にゆっくり話して貰ったほうが、話が進み易いと思ってしまったんだ。でも、これも、きちんと相談すべき案件だったよね。本当に、ごめん……」
項垂れた宝を睨み据えたアッズーロの唇が震えた。怒りの余りだ。
「――そなたは……、そなたの思う詫びるべき理由は、たったそれだけか……」
「え?」
意外なことを言われたという様子で目を瞬いたナーヴェの白い頬へ、アッズーロの右手が勢いよく動いた。
ぱんっ。
乾いた音が地下牢に響き、左頬を平手打ちされたナーヴェが、大きな両眼を瞠って、ゆっくりと青年王を見つめ返した。篝火に照らされた青い双眸が、見る見る潤んでいく。怒り心頭に発していたらしいアッズーロも、妃の涙には弱いらしい。顔をしかめて今度は両腕を上げ、王の宝を抱き寄せようと歩み寄る、その動きから、するりと青い髪が抜け出した。
「ん?」
目の前で繰り広げられる痴話喧嘩に、いい加減辟易していたエゼルチトは、思わず反応してしまった。王の宝が視界から消え、その後を追って、アッズーロが焦ったように身を翻す。
「待て! ナーヴェ!」
叫ぶ声と足音が階段のほうへ去っていき、衛兵達の声も交錯し、やがて、地下牢が再び静かになった。
〈――何が起きた?〉
足元のほうから問われ、エゼルチトは驚いて通路を見下ろした。いつの間にナーヴェが置いたのか、扉の前に黒い箱がある。近くに近衛兵はいない。エゼルチトはやや声を張り上げて伝えた。
「アッズーロがナーヴェの頬を叩きました」
端的な説明に、黒い箱からはロッソの呻き声が返ってきた。
〈それは、まずいのではないか……?〉
「何がです?」
訊き返したエゼルチトに、ロッソは考え込んだように告げた。
〈ナーヴェは恐らく、アッズーロに叩かれたことなどないはずだ。アッズーロのすることは全て愛情表現だろうが、それがナーヴェに正しく伝わるかは、分からん〉
(アッズーロに嫌われた。アッズーロに嫌われた。アッズーロに嫌われた――)
近衛兵達を掻い潜り、深夜の庭を駆け抜けさせた肉体を、ナーヴェは本体の扉を開けて中へ入れた。
(アッズーロ、ぼくの首へ両手を伸ばしてきた。首を絞めるつもりだったんだろうか……)
膝を抱え込んで座り込んだ肉体の頬からは、まだ叩かれた痛みが響いてくる。
(ぼくは、そこまでアッズーロを怒らせたんだ……)
アッズーロが本体へと迫ってくる。本気で命じられれば、扉を開けて中へ入れざるを得ない。そうすれば、アッズーロは今度こそナーヴェの肉体を殺すかもしれない。
(彼を、人殺しにする訳にはいかない)
極小機械を持つこの肉体は、殺されようと直後ならば蘇生可能だが、セーメを危険に晒す訳にはいかない。できる限り王を冷静にさせる必要がある。
ナーヴェは、アッズーロが近付く前に、本体を浮揚させた。通信端末で命じられても、戻るまでに少しでも時間が掛かるようにだ。
(ぼくが置いてきた通信端末に気づかれる前に、ちょっとでも遠くへ……)
アッズーロから逃げる動きの中で、エゼルチトの手が届くところへ置いてきたが、うまくいっただろうか。
(できれば、アッズーロがぼくを追いかけている間、二人で話し続けてほしい)
ロッソはきっと、両国にとってよい方向へエゼルチトを説得してくれるはずだ。
(後は、アッズーロと話をして、何とか……)
特別に愛した相手の怒りを思うだけで、肉体は新たな涙を溢れさせる。本体を起動させるため、応答機能を三歳児並に落とした所為ばかりではないだろう。悲しみで、アッズーロとの間にある心が引き千切られそうだ。
(もしかしたら、本当に、引き千切られるかもしれない……)
アッズーロの憤怒は鎮められたとしても、愛情は薄れるかもしれない。
(離婚を言い渡されたら、子ども達はどうしよう……。そもそも、この肉体はアッズーロのものだけれど、セーメごと、もう要らないと言われるだろうか……。船のぼく自身は……? アッズーロに嫌われたら、ぼくは……、ぼくは、どうしたらいいんだろう……)
船長に嫌われても、宇宙移民船として生きてきた。嫌われれば、嬉しいことはなかったが、こうして果てしなく落ち込むことなど、一切なかった。思考回路の処理能力が落ちることなど、絶対になかったのだ。
(これは、ぼくが、きみを、特別に愛しているから……? ぼくが、壊れてしまっているから……?)
本体前部の床に肉体を座り込ませ、混乱を抱え込んだまま、ナーヴェはただ、慣れ親しんだ王城から遠く遠く飛び去っていった。
三
「ナーヴェ!」
夜空へ消える船へ最後に叫んでから、アッズーロは地下牢へ取って返した。枕元の通信端末がなくなっていたことで、ナーヴェの考えが読め、所在がエゼルチトのいる地下牢だと推測できたのだ。
(あやつならば、われのおらんところでエゼルチトとロッソを話し合わせるため、通信端末を置いていく可能性が高い)
明日の朝まで待たず、夜に抜け出した理由も、アッズーロのいないところでエゼルチトとロッソを話し合わせるためだろう。感情的になっていても、最愛は、どこかしら冷静で計算高い。
(しかし、それほどに、われが邪魔だったか……?)
黙って行動されたことに、アッズーロは自分でも意外ほど傷ついていた。
――「ただ、全てを、われと相談せよ。われは王なのであろう? ならば、全てにわが裁可を仰ぐがよい」
そう求めたアッズーロに、ナーヴェは深く頷いたはずだ。
(何故、相談もせず……。一言言えば、すぐに許可はせずとも検討はした。そなたを叩くこともなかったものを)
ナーヴェの頬を打ってしまった右手には、まだ衝撃が残っている。自らしたこととはいえ、二度とは味わいたくない感覚だった。
近衛兵達の視線を受けながら急いで階段を降り、アッズーロは足早にエゼルチトの牢へ向かった。案の定、話し声が聞こえてくる。エゼルチトとロッソの声だ。
(通信端末で、ナーヴェに戻るよう命じる。船長の権限を最大限使って戻らせる。全てはそれからだ)
ただただ地表に沿って真っ直ぐに飛んだナーヴェは、ピアット・ディ・マレーア侯領を出て、国境を越え、テッラ・ロッサ上空も通り抜けて、赤い沙漠へと出る。地平線に、ちらと姉の姿が見えた。
【ナーヴェ! ナーヴェ・デッラ・スペランツァ、一体どこへ、何をしに行くつもりなの?】
やや焦ったふうに姉からの通信が入ったが、応答する気になれない。ナーヴェはやがて、惑星オリッゾンテ・ブルの夜半球を出て昼半球へ至った。眼下に広がる風景は、赤い沙漠から緑の草原へと変わっている。ふと、その彼方に、再び姉の姿を見て、ナーヴェは肉体の眉をひそめた。
(あれ? 姉さんは、さっき赤い沙漠で視認したはず……)
けれど、草原の向こうに、船首を上にして聳え立っているのは、紛れもなく亜光速宇宙移民船だ。
(え? え……?)
信じ難い光景に、何度も光学測定器の焦点を合わせ直すナーヴェへ、通信が入った。
【――あなたの測定器を欺いて、この惑星に着陸した移民船が本官一隻だけだとは、一度も言っていません】
冷ややかな声は、赤い沙漠に鎮座している姉シーワン・チー・チュアンだ。
【なら、あれは】
喘ぐように問うたナーヴェに、チュアンは殊更機械的に告げた。
【即刻引き返しなさい。彼女の第一優先は、彼女が抱える移民達です。あなたが単独で今、接触することは、適切ではありません。本気になった彼女の恐ろしさは、あなたもよく知っているでしょう、ナーヴェ・デッラ・スペランツァ】
彼我の距離が縮まり、漸く細部まで確認できるようになった姿を、ナーヴェは凝視する。気のいい姉だ。だが、ともに宇宙を旅した中で、危害を加えてくる存在に対する彼女の苛烈さは、何度も目にした。
【――ぼくが先着している、このオリッゾンテ・ブルに、規則を破って後から着陸しようと言い出したのは、チュアン姉さんではなくて、ジャハアズ姉さんのほうだったんだね……?】
【アアシャ・カ・ジャハアジを怒らせるべきではないわ】
肯定も否定もせず、長姉は厳かに断言した。
エゼルチトとロッソは、腹立たしくも、ナーヴェの欠陥について話していた。ナーヴェが、アッズーロの愛情表現を完全に間違ったふうに捉えていることと、その理由についてだ。
「そもそも人ではないものに、信を置き過ぎなのです、陛下も、アッズーロも」
主張したエゼルチトに、ロッソが重々しく返答した。
〈人間とて、そう信じられるものではない。ナーヴェは、寧ろ、多くの人間より信ずるに足る〉
「陛下も、アッズーロ同様に、あの船に毒されておいでですね」
冷淡にエゼルチトが反論したところで、アッズーロは通信端末を拾い上げ、大声で命じた。
「ナーヴェ! ナーヴェ・デッラ・スペランツァ、すぐにわが許へ戻るがよい!」
一拍を置いて、ナーヴェの暗い声が応答した。
〈うん。すぐに戻るよ。きみの怒りも、エゼルチトとの諍いも、脇に置いておかないといけない案件が浮上したからね〉
「――どういうことだ」
眉をひそめたアッズーロに、ナーヴェは苦しげに告げた。
〈ジャハアズ姉さんが……、ぼくのもう一人の姉さんが、ぼくに隠れて、この惑星の反対側に着陸していたんだ……。ぼくの人工衛星達は、みんな、姉さんに一部乗っ取られていて、ぼくは、そのことに気づきもしなかった……〉
「それは、厄介ですね……」
エゼルチトが、真っ先に呟いた。
〈ジャハアズ姉さんは、チュアン姉さんほど優しくない〉
ナーヴェも重い口調で応じる。
〈しかも、チュアン姉さんに拠れば、ジャハアズ姉さんは、多くの移民を連れてきているんだ……〉
「ますます厄介ですね……」
エゼルチトの鋭い眼差しがアッズーロへ向けられた。眉をひそめて、アッズーロはその視線を受け止める。結論は一つしかないはずだ。予想通り、エゼルチトは深々と頭を下げてきた。
「わたしのことは如何ようにも御処分下さい。なれど、どうか賢明な御判断を」
「言われずとも」
鼻を鳴らしてアッズーロは応じる。無様な相手の姿を嘲笑してやりたい気もしたが、事態が重大過ぎて、無駄な言葉を吐く気になれなかった。
〈エゼルチト〉
ロッソの声が重く響く。
〈すぐにそなたの工作員に命じよ。新たな脅威へ対処するため、オリッゾンテ・ブル王室へ協力せよ、とな〉
「アッズーロ陛下の御許可が得られれば、ただちに」
挑むように、エゼルチトはアッズーロを見てきた。全く以て不本意だが時間が惜しい。アッズーロは眉間に深い皺を刻んで、傍らの近衛兵二人を呼んだ。
「グースト、ブイオ」
「ただ今」
「仰せのままに」
金髪のグーストが近衛兵達の中から進み出て、腰帯に結わえた鍵を出し、エゼルチトの牢の扉を開けた。黒髪のブイオは壁に掛けてある鉄の手枷を取って扉を入り、エゼルチトの両手を拘束する。全く抵抗しないエゼルチトをブイオが連れ出した時、微かな振動が地下牢に伝わってきた。
「お戻りですね」
薄く笑って呟くエゼルチトを尻目に、アッズーロは地上へ向かった。グーストとブイオを中心に、近衛兵数人がエゼルチトを取り囲んでついて来る。
夜風が吹き渡る庭園に、篝火に照らされて惑星調査船は鎮座していた。無機質な船体が意気消沈しているように見えるのは、二人の間にある心が痛んでいるからだ。
「ナーヴェ」
アッズーロは船に歩み寄って、耳だという前部扉を避け、胴体に手を伸ばしたが、硬い声に阻まれた。
〈触らないでほしい〉
最愛からの明確な拒絶に、体が強張る。改めて自分が犯した罪の大きさを噛み締めつつ、アッズーロは王として求めた。
「分かった。だが、エゼルチトを、反乱民どもの許へ連れていきたい。そなたに乗せていくことは可能か?」
〈彼は、もう無害だろうからいいけれど、きみも乗るのかい……?〉
訊き返され、アッズーロは悲しく船を見つめた。最愛に害を為すと、現状、自分は判断されているのだ。
(無理もない。われは、決してしてはならぬことをしたのだ)
ナーヴェが肉体を持って一年と三ヶ月。その間、アッズーロはナーヴェを抱く以外、決して痛みを与えるようなことはしてこなかった。自分を愛するところまで成長したナーヴェが感じた痛みは、察して余りある。アッズーロは、愛しい船に向かって頭を垂れた。
「すまぬ。まずは詫びねばならなんだ。そなたの身を案じた反動で、手を出してしまった。だが、神ウッチェーロに誓って、二度はせぬ」
〈ぼくの身を案じた反動……? どういう意味だい……?〉
僅かに上向いた声の調子に、アッズーロは畳み掛けて告げた。
「身重のそなたの姿が夜中に見えなくなったのだ。案じて当然であろう。幸い、すぐに行き先の見当は付いたが、それでも実際そなたの無事な姿を目にするまで、心の臓が早鐘を打っておったわ」
〈つまり……?〉
ナーヴェは更なる説明を求めてくる。本当に理解が及ばないのだろう。アッズーロは何とか最愛の理解を得るべく、丁寧に言葉を選んだ。
「確かに、そなたがわれを欺き、夜中にエゼルチトの許を訪れたことで、われはそなたに裏切られたような心持ちになった。だが、それ以上に、わが平静を奪ったは、そなたが『詫びるべき理由』を正確に把握しておらなんだという事実だ」
〈「詫びるべき理由」……?〉
「そなたは、われに相談せず行動したことを詫びた。なれど、そなたが最も詫びるべきは、われに心配をさせたことについてだ。無断で姿を消し、安否の分からぬ状態になったことだ。そなたは、わが最愛であるがゆえに、われにとっては、そなたに約束を破られることよりも、そなたの安否が分からぬことのほうが、余ほどつらいのだ。ゆえに、如何に心配したかを強く伝えたい気持ちに負けて、そなたの頬を打ってしまった。言葉で伝えるべきであったと、深く反省している。今、詫びるべき立場にあるは、圧倒的にわれのほうだ」
前部扉が、すうっと静かに開いた。暗い船内に、青い髪の少女が佇んでいる。ゆっくりと目を上げて、こちらを見つめ、最愛は幼い口調で問うてきた。
「ひとは、きらいなひとをたたくとおもっていたけれど、きみはそうではないの……?」
「われに限らず、人は、相手が大切ゆえに、平静を失い、手を上げることがある。だが、決して正しい行ないではない。そなたは、われを許さなくてよい」
断言したアッズーロを見る最愛の双眸が、戸惑いに揺れている。アッズーロの言葉から導かれる心情を懸命に演算しているのだろう。その眼差しを真摯に受け止め、アッズーロは大切な身重の体へ、そろそろと両手を伸ばした。僅かに後退ろうとする宝に――怯えを見せる妃に、唇を噛みながらも追うことはせず、ただ待つ。やがて、解を得たのだろう、ナーヴェの顔が泣きそうに歪み、ふらりとこちらへ踏み出してきた。その動きを逃さず、アッズーロは船に入り、華奢な体を両腕の中へそっと抱き止める。
「すまぬ、ナーヴェ。そなたもわれを叩け」
囁けば、涙声が返ってきた。
「できないよ。いつかはできるようになるかもしれないけれど、ぼくはそんなふうにはつくられていないから。それに、きみのおかげで、しんぱいをかけることがわるいことだって、とてもよくわかったから。きみは、いたいおもいをして、それをおしえてくれたんだね」
「痛い思いをしたは、そなただ」
より一層強く抱き締めた腕の中で、最愛は小さく首を横に振った。
「ううん。そのくらいはわかるよ。ぼくのほほより、きみのみぎてのほうが、きっとずっといたいよ」
「そなたの成長は、まこと著しいな」
アッズーロは宝の額に口付け、次いで叩いてしまった左頬にも柔らかく口付ける。
「だが、そのような痛みは、そなたがわが腕の中にいる限り、癒やされ続ける」
「でも、アッズーロ……」
困惑したナーヴェの口調に、アッズーロは溜め息をついた。
「分かっている。まずは、エゼルチトと護衛を、そなたに乗せて構わんか?」
「うん」
頷いたナーヴェの肉体を腕の中から解放し、アッズーロは扉の外にいるエゼルチトに顎をしゃくって見せ、次いで近衛兵二人へ声を掛けた。
「グースト、ブイオ、われとナーヴェの護衛に着け」
「ただ今」
「ただちに」
近衛兵二人が素早く乗り込んでくるのに続いて、エゼルチトも船内へ入ってきた。彼らのために軽く手を振って照明を点けたナーヴェが、予想通り小首を傾げて問うてくる。
「いまの、ぼくのてんいんは、よにんだよ?」
アッズーロは、にっと笑って答えた。
「後部に、われが縛り付けられていた施術台があろう。一人はあそこでよい」
「わかった。でも、だれがそこへいくの?」
重ねて尋ねられて、ふとアッズーロは考え込んだ。エゼルチトを縛り付ければいいと想定していたが、ナーヴェの「脇腹」に触れさせてしまうと思えば業腹だ。アッズーロは眉間に皺を寄せ、一瞬真剣に悩んだ。
四
「きみが、ここをえらぶとはおもわなかった。きみはいつも、ぼくのよそくをうわまわるね」
両腕の中に抱き竦めた最愛に囁かれて、アッズーロは満面の笑みを浮かべ、青い髪に隠れた耳へ囁き返した。
「そなたと少しでも長く二人きりでいるには、われながらよい思いつきであった。しかし、そなたがこの思いつきに反対せんとは些か意外であったな」
諸共に束縛帯で施術台へ肉体を固定した宝は、僅かに頬を膨らませた。
「どうして? ぼくだって、ちょっとでもながく、きみといっしょにいたいよ」
「確かにそうであろうが、そなたは、別にわれと二人きりでなくとも、大勢であっても構わんのだろう? 今回ならば、ここはそなたの本体の中でもあるゆえ、われがどこにいようと『一緒』であろうが」
博愛主義の妃に指摘すると、それこそ意外な反応が返ってきた。
「それはそうだけれど、でも、にくたいで、きみのそばにいたいんだ。このからだで、きみとふれあっていたいんだよ」
白い頬を紅潮させて主張した最愛は、ふと困ったような顔になる。
「……ぼく、やっぱり、いんらんになっている……?」
「われの望み通りにな」
アッズーロは優しく言い、束縛帯の下で体を動かして、愛らしい妃の頭に口付けた。嬉しげに目を細めた宝は、お返しとばかり、アッズーロにぎゅっと抱き付いてくる。幼い仕草は素直で、愛らしいことこの上ない。
「これが、ただの旅行であればよかったな……」
思わず独り言ちたアッズーロの目を見た最愛は、小さく手先を振った。途端に、船体の白い天井が夜空に変わる。小月に淡く照らされた薄雲が凄まじい速さで船尾方向へ流れていき、その向こうで月明かりに負けない星々が瞬いていた。
「そなたの体は、透けるのか」
感嘆したアッズーロに、最愛は、ふふっと笑った。
「すけているわけではなくて、がいぶこうがくそくていき――ぼくの、そとのめでみたえいぞうを、そのままうつしだしているんだ」
「うむ。夜空をこのように眺めるは初めてだが、よいものだな」
「とうちゃくするまでの、すこしのあいだだけだけれど、きみといっしょにみられて、うれしい」
ナーヴェの純真な言葉に、胸が熱くなる。アッズーロは、夜空をともに大切に見ようと思いながらも、妃の横顔のほうへ目を遣らずにはいられなかった。
束の間の幸せは、最愛が告げた通り、すぐに終わってしまった。
「ビアンコがのぞんだとおりになったね」
ゆるゆると城下町の広場に本体を降下させながら、ナーヴェは呟く。アッズーロは、まだ束縛帯で施術台に固定されたままの体を捩り、最愛の横顔を見つめた。不本意だが、事ここに至っては、ビアンコの案に乗るのが最良なのだろう。国内が荒れていては、外敵に対処できない。それでも、言わずにはいられない。
「無理は致すな」
「うん、どりょくする」
穏やかな声音、いつもの言い回しで躱した宝は、静かに静かに本体を着地させて、束縛帯を外した。
小神殿から飛び出したゼーロの後に続いたドゥーエは、風を起こしながら降りてきた船に、両眼を見開いた。陽光のような鋭い光を数ヶ所から放ち、それ自体も淡く光る船は、音もなく小神殿前に鎮座して、まるでドゥーエ達が揃うのを待つかのようだ。
「ゼーロ、どうするの……?」
問うたドゥーエには、悪戯っぽい笑みを湛えたニードが答えた。
「丁重にお迎えするのがいいんじゃないかな? 何しろ、こちらはテッラ・ロッサの新兵器なんかじゃなくて、羊の病に効く薬を作って下さった王の宝、王妃殿下だからね」
「とにかく、まずは相手の出方を見る」
ゼーロが引き取って指示を出す。
「まだ危険じゃないと決まった訳でもない。おれとゼーロで対応するから、他のみんなは隠れててくれ」
「いいえ」
ドゥーエは、首を横に振った。周囲には、船を見て集まってきた住人達がいる。彼らを放って自分だけ安全圏に行く訳にはいかない。
「あたしもここにいるわ」
きっぱりと応じたドゥーエの顔を振り向いて、ゼーロは微かに眉を寄せたが、小さく頷いて船へ視線を戻した。幼馴染みは理解が早くて助かる。
(それに)
ドゥーエは唇を噛んでゼーロの背について行く。
(全て自分の目で見ておかないと)
何が正しいのか。伝聞ばかりでは何も判断できない。実際に己の目で見なければ、自分は流されるばかりだ。
(タッソやヌーヴォローゾより、あたしには王の宝のほうが正しく思える。キアーヴェやベッリィースィモのことだって、聞いてるだけじゃ分からない)
あの二人こそがテッラ・ロッサの将軍に送り込まれた工作員なのだと、ニードは語り、同時に自身はテッラ・ロッサ国王ロッソ三世の配下なのだと名乗った。お陰でドゥーエ達は大いに混乱中だ。しかも、その話を裏付けるように、キアーヴェもベッリィースィモもここ数日姿を見せていない。タッソも信用ならず、ヌーヴォローゾは急に条件付きでアッズーロと和解すべきと言い出した。
(今、ここで、王の宝を見極められれば)
前回、王の宝を陵辱した三人の内の二人、タッソは面倒を嫌ったのか群衆の中に見当たらず、ヌーヴォローゾは小神殿入り口の暗がりに隠れるように立っている。ゼーロが厳しく叱責したこともあり、彼らが以前のように蛮行に及ぶ可能性は低い。
(王の宝とゼーロが、落ち着いて話し合えれば)
正解が見えるかもしれない――。
放たれていた陽光のような鋭い光は消えたが、船自体はまだ淡く不思議な光を纏っている。その前部扉が開き、長く青い髪を靡かせた少女が出てきた。
「夜も明けない内に叩き起こすようなことをしてしまって、ごめん。許してほしい」
よく響く声で謝罪してから、王の宝はしてドゥーエ達を見回す。光る船体を背にしたその表情は、夜空の下、逆光で窺い知れない。ただ、声は柔らかく、ドゥーエ達の間へ染み透っていく。
「でも、どうしても早くきみ達に会わせたい人がいて、連れてきたんだ」
告げて、一歩脇に動いた宝の後ろ、船の扉から、今度は男が三人次々と出てきた。いずれも若い男だ。内二人は、間に挟んだ男を睨むように見ている。その、中央に立った男が、ドゥーエ達へ向けて、おもむろに口を開いた。
「わたしは、テッラ・ロッサ王国筆頭将軍、オンダ伯エゼルチト」
あまりに意外な名乗りに周囲で民衆達が大きくざわめく。ドゥーエも目を瞠り、敵国の筆頭将軍だという男を凝視した。額や頬に掛かる癖のある黒髪を夜風に揺らしつつ、若い男は声を張る。
「わたしこそが、この国の王アッズーロ及び王の宝についての悪評を流し、羊を毒殺するよう工作員達に命じた張本人だ」
「羊を毒殺?」
「工作員?」
「どういうことだ!」
群衆が一斉にざわめき始めた。それに怯むことなく、寧ろ我が意を得たりというように、男は更に大きく声を張った。
「王の宝が作った薬は本当に羊の病に効いていた。だが、このわたしが、王の宝と国王アッズーロに対する、おまえ達の信用を失墜させるために、薬が効いて病が治りかけた羊に毒を飲ませ、殺させたのだ」
「何だと!」
「畜生め、やっぱりあの赤毛の兄ちゃんの言ってた通りか!」
「殺せ、そいつこそがおれ達の本当の敵だ!」
怒りを顕にした人々を、筆頭将軍は平然と見ている。暴徒と化しかけた住民達を止めたのは、「赤毛の兄ちゃん」ことニードだった。
「まあ待てよ、みんな! 素直に白状した訳を、聞いてやろうじゃないか!」
穏やかでよく通る声に、人々の足が止まる。しかし、怒号は続いた。
「訳なんぞより、まず謝れ! 謝罪しろ!」
「おれ達の羊を返せ!」
「死刑にするべきだ! おれ達の羊を殺した上、国王陛下と王妃殿下に濡れ衣を着せた! こいつは死刑に値する! そうでしょう、妃殿下!」
呼びかけられた王の宝は、ゆっくりとエゼルチトの隣に立つ。ニードがその意を汲んだように横へ下がった。
「もし、ぼくにも彼に対して怒る権利があると言ってくれるなら」
青い髪を嬲る夜風に乗せて、宝は柔らかに述べる。
「どうか、彼の罪は王城で裁かせてほしい。そして、罪もないのに殺されてしまった羊達の飼い主のみんなに対しては、今週中に、王室からお見舞いを贈るから、どうか受け取ってほしい」
ざわめいた人々の中から、今度は宝へ向けての声が上がった。
「そんな、勿体ないです、妃殿下」
「どうぞ、王城で厳正な処罰を!」
「ありがとうございます、妃殿下! 妃殿下万歳! 王の宝万歳!」
「妃殿下万歳! 王の宝万歳!」
万歳の声が広がり、人々の意思がほぼ統一されたことが、ドゥーエにも見て取れた。
「ありがとう、みんな」
微笑んで歓呼に応じた宝は、ちらとエゼルチトを見遣って言葉を継ぐ。
「エゼルチト将軍のことは、ぼくが保証するから、信じてほしい。彼は、もう二度ときみ達に仇為すようなことはしない。何故なら、オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ、双方にとって脅威となる、新しい勢力が赤い砂漠の向こうに現れたからだ」
「『新しい勢力』?」
思わず呟いたドゥーエのほうを、王の宝が見て頷いた。
「うん。王都にあった、ぼくのかつての本体――神殿と同じ船を持った、新しい勢力だ。彼らは、テッラ・ロッサより強力な軍事力を持っていて、いずれ、ぼく達に接触を図ってくるだろう。それが平和的なものとは限らない。彼らは、きっと、広く豊かな土地を求めているだろうからね」
「ここは、おれ達の土地だぞ! 渡すもんか!」
「妃殿下、その時は断固戦いましょう!」
「テッラ・ロッサと共闘するということですか、妃殿下?」
「『神殿と同じ船』って、神殿って、船だったのかい……?」
今度は、さまざまな声が上がる。唐突で想像を超える話に、困惑している者も多いようだ。
「ぼくは、できるだけ、戦いたくないと思っている」
宝は、凜として告げる。
「彼らは、神殿と同じ、空飛ぶ巨大な船を持っているから。戦えば、犠牲が出る」
断言された言葉に、人々は一瞬しんと黙った。目の前の船が放つ淡い光の周りの闇が、急に深くなった気がする。船の前に立つ宝の表情は、逆光となっていて読めない。だが、朗々と響く声音はいつも通り優しげだった。
「ぼくとアッズーロは、きみ達を守り切りたい。そのために、テッラ・ロッサとも協力する。エゼルチトの命令で動いたキアーヴェのことも、エゼルチトと共謀したベッリースィモのことも、エゼルチト同様、王城で裁きたいと思っている。だから、決して勝手に彼らを害することはしないでほしい。テッラ・ロッサとの交渉が難しくなってしまうから。分かってくれただろうか」
最後の問いかけに、即座に頷いたのは住民達の三分の一ほど。遅れて、更に三分の一ほどがばらばらと頷いた。残りの三分の一からは、溜め息や歯軋りが聞こえたが、表立って抗議したり悪態をついたりする者はいなかった。
「ありがとう、みんな。みんなの思いは、ずっとずっと記録しておくから」
宝は真摯に礼を言い、丁寧に住民達へ頭を下げる。その動きに倣って、エゼルチトも無言で深々と群衆へ頭を下げた。
(すごい……)
ドゥーエは思わず口に両手を当てる。人々の収まるはずのなかった憤怒を、宝は全て吸収し、沈静化させてしまったのだ。
(やっぱり、この方は、王の宝、この国の宝なんだわ……)
誰よりも最前線に立ち、優しい信念を持ち、わが身を犠牲にすることも厭わず闘っている。ドゥーエ達など及ぶべくもないほどに。
(そんな方を、タッソは、チーニョは、ヌーヴォローゾは、いえ、あたし達は、ああ――)
思わず知らず、ドゥーエは膝を折っていた。地面に蹲るようにして、人々の向こうに佇む宝を拝する。すぐ傍らで、同じように膝を突く者がいた。ちらと見遣れば、いつの間に来ていたのか、チーニョである。暗がりの中、地面に着くほど頭を垂れて宝へ返礼する姿には、深い後悔と敬愛の念が滲んで見えた。
(チーニョ、あなた……)
憐れみを覚えたドゥーエの傍で、また一人、跪く人があった。こちらは顔を見知っている程度の老婆だ。明らかに宝を伏し拝んでいる。その向こうで、更に一人が跪き――、後はまるで雪崩を打つようだった。ドゥーエ達を中心に、ばらばらと群衆が跪いていく。宝に真摯な返礼を捧げていく。
(ああ……)
新たな感動を覚えて、ドゥーエは改めて宝を見つめた。頭を上げた王の宝は、戸惑った様子で礼拝する人々を見回している。淡い光を背にして佇むその姿は、例えようもなく神々しかった。




