願いは一つ
第二十二章 願いは一つ
一
「よかった……!」
寝台の上に起き上がった最愛は、アッズーロの姿を見るなり、声を上げた。庭園からこの寝室まで歩いてくるのに、そこまで時間が掛かった訳ではないが、随分と気を揉ませたらしい。
「なかなか来ないから、心配したよ……!」
走り寄ってきかねない勢いで話し掛けてくるので、アッズーロは、重たい足を引き摺って、妃の寝台まで急いだ。
「セーメは元気か?」
尋ねながら、妃の寝台に腰掛ける。肩を借りていたレーニョとガットが離れると同時に、控えていたフィオーレとミエーレが寄ってきて、アッズーロの左右の靴を脱がせた。そこへ、ポンテが水を張った盥を持ってきて、たぷんと置く。冷たい水が、暑い中、素足に心地よかった。
「大丈夫、元気にしているよ」
最愛は、そっと腹を撫でてから、寝台の上をアッズーロへにじり寄ってくる。アッズーロは、先を制して妃の顎に手を添え、口付けた。
「ん……」
甘やかな吐息を漏らして、ナーヴェは応じてくる。いつもなら窘めてくる場面だが、どうやらアッズーロを心配し過ぎて、判断力が鈍っているらしい。
(すまぬ……)
未だ右肩に固定具を付けたままの華奢な体を優しく抱き締めて、アッズーロは口付けを深くしていった。脳裏には、シーワン・チー・チュアンの警告がこびり付いている。
(そなたを、もっともっと大事にせねばな……)
幸せであるように、憂いのないように、守っていたい――。
「……っ、アッズーロ」
口付けは、ナーヴェのほうから終えられてしまった。案じる顔で見上げてきて、最愛は言う。
「早く着替えて、何か食べて、寝たほうがいい。ぼくはもう、治療できないから」
「そなたは充分に傷を癒やしてくれた。後はわれが真面目に養生するのみだな」
アッズーロは素直に忠告を受け入れて、フィオーレとミエーレの手を借り、夜着の長衣へ着替えた。ついでに包帯も替えたが、銃創は、跡こそ残っているものの、完全に塞がっている。ナーヴェが全力を尽くしてくれたのだろう。
「ジョールノは、夕食についても伝えたか?」
確認したアッズーロには、フィオーレが頷いた。レーニョとガットは気を利かせて、さっさと姿を消している。ミエーレが洗濯物を、ポンテが盥を片付けに行く中、フィオーレは、さらさらと献立を言った。
「乾酪の蜂蜜掛けと、赤茄子の垂れを絡めた麺、それに羊乳で宜しかったでしょうか?」
「あ、羊乳は煮沸消毒してほしいんだけれど、いいかい?」
ナーヴェがすまなそうに口を挟んできた。
「うむ。さすがは王の宝。そうさな、この時季は、そのほうが安全よな」
アッズーロは妃の慧眼に微笑んだ。
「ぼくの思いつきではなくて、姉さんの受け売りなんだけれど、ね……」
最愛は、複雑そうに明かした。成るほど、あの姉は、妹にもいろいろと警告したらしい。
「チュアンとやらは、そなたが言うておった通り、優しい姉だな」
アッズーロが評すると、ナーヴェは溜め息をついた。
「まあ、そうなんだけれど……、函の在処だけは、きみに教えないでほしかった……」
「われは、そなたの船長なのであろう? ならば寧ろ、知っていて然るべきではないか」
アッズーロは大真面目に言い聞かせつつ、寝台の上へ足を上げて横になった。長く起き上がっていると、やはり傷の痛みが増してくる。
「大丈夫かい……?」
案の定、最愛はアッズーロの顔を覗き込んできた。油皿の灯火に照らされた長く青い髪が、さらさらと落ち掛かってくる。愛おしい姿だ。
「そなたに触れていれば、じきに治る」
アッズーロは、にっと笑って告げた。
「エゼルチトがアッズーロに捕らえられたというのは、事実だった。裏が取れたから間違いない」
ざんばらに切った灰褐色の髪の、長いものだけを後ろで束ねた少女は、切れ長の両眼でベッリースィモを見上げて報告した。篝火の揺らめきを映す、その緑色の双眸には、恐れも気負いもなく、ただ冷ややかだ。
「『裏』というのは誰だ」
ベッリースィモは確かめた。このキアーヴェという工作員には一定の信頼を置いてきたが、エゼルチトの配下という以外、素性不明の少女だ。しかも、そのエゼルチトが捕らえられたとなれば、持ってくる情報に対して疑り深くもなろうというものだった。
「誰とまでは言えない。だが、オリッゾンテ・ブル王国の、大臣の一人だ」
淡々と、少女は告げた。予想以上の答えだ。
「――本当か」
「これ以上言えることはない。後は、わたしを信じるかどうかも含めて、おまえの判断だ」
じっと見つめられて、ベッリースィモは溜め息をついた。現状、信じて次の手を打つしかない。エゼルチトが捕らえられたという話は、他の筋からも来ているので確実だろう。
「分かった。これからも協力を頼む」
「無論だ。アッズーロを失脚させることこそが、わたしの任務だ」
キアーヴェは答えて、扉が壊された農具倉庫の向こうへ、闇に紛れるように姿を消した。
(やれやれ……)
農具倉庫の屋根の上に寝転んだニードは、胸中で嘆息した。オンダ伯エゼルチトがオリッゾンテ・ブル王城へ連行されても、その配下の工作員キアーヴェは行動方針を変えないらしい。
(おれとしては、どう行動すべきですかね……、ロッソ陛下?)
自分は、ただ反乱民の中枢に入り込んで情報を送るようにとだけ、命じられている。しかし、この目まぐるしい状況の変化はどうだろう。
(王の宝の名の下に、オリッゾンテ・ブル兵が羊の病に効く薬を配ってるって話だし、何もしなけりゃ、この反乱は収まりそうなんだがな……。ベッリースィモとキアーヴェが、やる気でいる内は、そうはさせないだろうな……)
自分は、情報を雇用主へ流すことのみを任務とする間諜であり、キアーヴェのような、状況を操作することを任務とする工作員ではないのだが――。
(ロッソ陛下は、反乱が早期に収束することを望んでらっしゃる。おれとしては、その意を汲むべきかね……?)
「ニード、ニード、どこにいる?」
青年のよく通る声が聞こえた。反乱民の首領ゼーロだ。捜されている。
(ベッリースィモとキアーヴェは充分に離れたな……)
見回してから、ニードは身軽に倉庫の屋根から煉瓦の凹凸に手足を掛けて、音もなく地上へ降りた。そうして、別の建物のほうから来たかのように、ゼーロのほうへ歩いていく。
「ゼーロ、おれはここだ。何かあったか?」
声を掛けると、遠くの篝火を逆光にした青年は、急いで駆け寄ってきた。
「ニード、オリッゾンテ・ブル軍が、二つ隣の町まで来ているらしい。ここの住民達が知らせてきた。羊の病に効く薬を近隣の村々に配りながら来ている、と。どう考える?」
早速、工作員的に動かねばならないようだ。
「貰えるものは貰って、本当に効くかどうか、慎重に試すべきだとは思うが、とりあえずは、みんなで小神殿に集まらないか?」
穏やかに、ニードは提案した。
「アッズーロ……」
ともに被った掛布の中で、最愛が、そっと話し掛けてきた。夕食を終えて、早々に寝支度をし、ナーヴェの寝台に並んで横になったところだ。女官達は、油皿の灯火を消して既に退室している。
「如何した?」
アッズーロは、形のいい頭に頬を寄せて尋ねた。
「また、時間がある時でいいんだけれど……」
おずおずと、最愛は切り出す。
「姉さんに訊いたら、混線は、あくまで混線だから、修正できるらしいんだ。それで、操縦桿の混線を修正するために、いつでもいいから、ぼくの操縦桿と、この肉体の肩を、同時に触ってほしいんだ。そうしたら、混線する先が、肩になるみたいだから。姉さんが、肩くらいが一番、混線を修正し易いだろうって。全然急がないから、いつでもいいんだけれど」
「……修正せねばならんのか?」
アッズーロは些か残念な思いで確認した。
「それは、そうだよ」
ナーヴェは拗ねたような声を出す。
「耳なんかと混線していたら、まともに航行できないから」
アッズーロはつい、その愛らしく柔らかい両耳に口付けたくなったが、自重した。最愛の敏感な部分に一度触れ始めたら、その反応が可愛い過ぎて、決してすぐにはやめられない。しかし自分も最愛も、体を大切にしなければいけない状態だ。
「分かった。ならば、明日にでも修正するとしよう。エゼルチトの尋問やらテッラ・ロッサとの連絡やら、羊の薬の配布状況の確認やらあるが、そのくらいの時間は取れよう」
「ありがとう。忙しいのに、ごめん。愛しているよ、アッズーロ」
最愛は、耳元へ可愛らしく囁いてくると、静かになった。相変わらず、寝付きはいいらしい。
(全く……)
込み上げてくる衝動を、どうすればいいだろう。シーワン・チー・チュアンが懸念しているのも、己自身に対するナーヴェの、こういった認識の甘さなのだろうと思う。
(そなたには、いろいろと教えたい気もするが、できるなら、このまま、愛らしくあどけなくあってほしい……)
暑さの去らぬ夜に、アッズーロは悶々と暗い天井を見つめ続けた。
寝返りを打とうとして、傍らの青年にぶつかってしまい、ナーヴェは肉体の目を開けた。
(アッズーロ、起こしてしまったかな……?)
夜の暗がりの中、暫く耳を澄ませ、様子を窺ったが、青年の呼吸に乱れは感じられない。
(よかった……)
未だ重症の青年は、深く眠ってくれているようだ。
(本当なら、別々の寝台で寝たほうがいいのかもしれないけれど。そうしたら、きみの容態を把握しにくくなってしまうからね……)
青年に接続できないことは、やはりもどかしい。しかし、己の我が儘で宿したセーメの世話は、最優先事項だ。
(最近、ぼくは我が儘ばかりかもしれない……)
疑似人格電脳としては、あるまじきことだ。
(明日も、ぼくの我が儘で、忙しいきみを混線の修正に付き合わせてしまう……)
急ぎではないと断ったのだが、ナーヴェを最愛と呼ぶ青年は、明日と約束してくれた。
(ぼくの不具合の所為で、本当にごめん……。でも、ぼくが次に暴走してしまうまでに、きみには、本体の手動操縦を覚えてほしいんだ。そのためには、操縦桿も握って貰わないといけないから……)
ナーヴェにとって、アッズーロと彼の子ども達が最優先事項であるように、姉シーワン・チー・チュアンにとっては、あのフアン・グオという少年こそが最優先事項だ。
(ぼくが次に暴走して、正常に戻らなかったら、姉さんは、あの子のために、ぼくの思考回路を強制的に機能停止させるだろう)
混線のことで相談した際、姉は明言こそしなかったが、そのようなことを匂わせてきた。ならば、ナーヴェも可能な限り備えておかねばならない。
(それでも、手動操縦に切り替えたら、ちゃんとぼくの本体を動かすことはできるから。惑星調査船は、きみ達にとって、とても役立つものだから。だから、アッズーロ、元気になったら、ぼくの操縦をしっかり覚えてほしい。触れてほしくないなんて我が儘は、もう言わないから……)
特別に愛する相手の腕に、そっと額を押し当ててナーヴェは目を閉じ、安らかな眠りへと戻っていった。
ずっと眠らされていたので、長い長い夢を見ていた。その夢の中には、いつも幼い日のロッソがいて、エゼルチトと、王宮内や沙漠で遊んだり、変装して王都アルバを見て回ったりしていた。たまに、母のイデアーレや、王妹のデコラチオーネとリラッサーレ、幼馴染みのドルチェ、ジェネラーレ姉妹も出てきたが、最もよく出てきたのは、初代テッラ・ロッサ国王、ロッソの祖父たるロッソ一世だった。ロッソは、あの偉大な祖父からの重圧に、いつも苦しんでいた。苦しみながら、自分を磨き続け、若くして王となり、あの貧しい国をよりよく導こうと、己をすり減らし続けている。
(ロッソ……)
目を開けば、質素ながらも、小綺麗な部屋の中にいた。ただ、通常の窓も明かり取りの窓もない。暗がりを照らす灯りは、一つきりの扉にある覗き窓の外で燃える篝火だった。その覗き窓には格子が嵌まっており、時折、篝火の前を行き交う兵士の姿も見える。
(ここは、地下牢か……)
エゼルチトは、寝かされていた寝台の上に起き上がり、部屋の中をしげしげと見回した。ともに連行されたはずのラーモの姿はない。どこか別の牢に入れられているのだろう。
(それにしても、まるで、テッラ・ロッサ王宮の幽閉塔の部屋のようだな……)
貴賓専用の牢である、あの幽閉塔と同じ目的の地下牢なのかもしれない。
(おれがオンダ伯だからか……? 或いは、この扱いもロッソとの取り引き材料の一つか……)
王を殺そうとした者に対して、寛容過ぎる待遇に、苦い笑いが込み上げてくる。
(全く、オリッゾンテ・ブル王国とは、甘いところだ……)
率先してこの甘さを作っているのは、やはり、あの博愛主義の宝だろうか。
(あれを壊し切れなかったのは、残念だった……)
あの宝の最大の弱点たるアッズーロを殺せる好機を得て、自ら狙撃に赴いたのが、失敗だった。
(我ながら、あまりに好都合に事態が展開していった所為で、欲張ったか……。王の宝が、自らの肉体の傷だけでなく、他人の傷まで簡単に癒やしてしまえるとはな……)
あの船が、毒や薬に詳しいことも知っていたが、致命傷の銃創からアッズーロを救ってしまえるなどとは、完全に想定外だ。
(いよいよ、恐ろしい存在だ……)
だが、その恐ろしい存在は、ラーモがエゼルチトの命令一つで死ぬ気だと分かった途端、簡単に言いなりになった。
(捕らわれても、あれと話す機会さえあれば、まだできることはある――)
ロッソには、できる限り迷惑を掛けず、このオリッゾンテ・ブル王国を渡したい。
(頼むから、おれのことは見捨てて、短慮はしてくれるなよ……)
エゼルチトは、胸中で親友に重ねて願った。
二
「ヴォルペ、どうした、早いな」
財務担当大臣オーロ伯モッルスコは、最年少大臣の姿を見て、片眉を上げた。
「モッルスコ様こそ、お早いですね」
山林担当大臣ヴォルペは、小柄な体を曲げて、ぺこりと頭を下げる。癖のある黄褐色の髪が、差し始めた朝日の中、ふわりと揺れた。このヴォルペや農産担当大臣ズッケロ、その双子の弟の畜産担当大臣ゾッコロ、工業担当大臣チェラーミカ伯ディアマンテ、水産担当大臣プリトは、アッズーロの御代になってから任じられた大臣達だ。皆、有能で誠実で、どこから見つけてきた人材かと、当初は驚いたものだった。特にこのヴォルペは、孤児院出身と聞いて更に驚かされ、あの王への認識を変える一助となったのだ。
「わしがおらねば、何一つ進まんからな」
モッルスコは、誇りと疲れが相半ばした愚痴を零して、王城の一階にある自身の大臣室へと向かった。軍を運用するにも、反乱民によって市街が荒らされた侯領を支援するにも、住処を離れて難民となった人々を救済するにも、何をするにも金が要る。財務担当大臣を仰せ付かっている自分に、休む暇はない――。
「お忙しくても、一日に一度は帰宅なさるという噂は、本当なのですね」
ヴォルペは、とことこと同じ方向へ歩きながら、親しげに話し掛けてきた。十二人の大臣達は皆、王城の一階に大臣室を与えられているので、王城側面の同じ通用口を使うことになる。
「妻との約束だからな。違える訳にはいかん」
モッルスコは、淡々と答えた。自分が財務担当大臣に任じられたのは、先々々代王ザッフィロの御代のこと。当時、結婚したばかりだった妻に、たった一つ約束させられたことが、どれほど忙しくとも、王城近くに構えたわが家に一日一度は帰るということだった。以来、先々代王マーレの御代にも、先王チェーロの御代にも、ずっと守り続けてきた約束を、アッズーロの御代となっても守っている。
(これほど忙しい思いをさせられたことも、そうはなかったが)
そもそも、チェーロからアッズーロへ代替わりした際に、自分は大臣を外されるものと思っていた。十二人中では最高齢であり、決して媚びへつらうことをしない自分を、しかし、あの青年は財務担当大臣に留め置いた。
(お陰で、未だ、妻とゆっくり過ごすこと叶わん……)
密やかに嘆息したモッルスコに、傍らを歩くヴォルペが心配そうな表情になった。
「お疲れが溜まっていらっしゃいますか……?」
「いや」
モッルスコは憮然として答える。
「あの王の顔を思い浮かべれば、疲れなど吹き飛ぶわ。どうせ今も、ナーヴェ様にべたべたとくっ付いておられよう。わしが妻とこうして引き離されておるというに」
未だ少女のような最年少大臣は、分かり易い苦笑を浮かべた。
「まあ、大怪我を負っていらっしゃるのですし……、ジョールノの報告に拠れば、ナーヴェ様も一時期、死の淵を彷徨われたとか。ともに死地を乗り越えられて、お二人の愛は、更に深まっておられることでしょう」
モッルスコは鼻を鳴らした。さもありなん、だ。だがそれでも、あの王と王の宝は、決して政務を疎かにはしない。
(であれば、こちらも手は抜けん――)
「寝室からつやつやとした顔で出てきたあの王の前に、裁可待ちの財務書類を山と積み上げてやるのが、近頃の、わしの楽しみの一つだ」
言い放って、モッルスコはヴォルペを従え、広い庭園を通用口へと急いだ。財務担当大臣室では、徹夜した配下の官僚達が、今か今かと自分を待っていることだろう。
青々とした庭木の向こうに、鎮座した惑星調査船の美しい姿が見えた。篝火の灯りだけで見た昨夜は、はっきりとは分からなかったが、損傷などは特にないようだ。モッルスコは微笑み、ヴォルペとともに通用口を入った。
「ぼくも、エゼルチトの尋問に立ち会ったら駄目かな……?」
伴侶から控えめに強請られ、アッズーロは憮然として、朝粥を掬った匙を止めた。
「そなた、身重なのだぞ? 地下牢なぞ、体に悪い」
「何故、体に悪いんだい?」
宝は、怪訝そうに訊いてきた。
「悪いに決まっておろう。あのような窓もない、じめじめとした地下なぞ。その上、益体もない者どもが捕まっておるのだぞ?」
アッズーロは言い聞かせたが、最愛は匙を持ったまま肩を竦めた。
「窓がないのは、王太子だったきみが反対したからだよ。捕虜の脱出を容易にしてしまうってね。チェーロは、ぼくの進言を入れて、捕虜のみんなの人権を侵害し過ぎないように、地下牢を改装したのに」
アッズーロは記憶を手繰った。言われてみれば、そんなこともあった。
「父上が、急に地下牢の改装なぞ始めて、何をとち狂うたかと思うていたが、そなたの差し金だったか」
「まるで、悪いことをしたみたいに言わないでほしいんだけれど」
眉をひそめて、ナーヴェは反論してくる。
「それに、『益体もない者ども』と言っても、今はエゼルチトとラーモしかいないはずだよね? なら、問題はないよ。ぼくはどっちとも話したいと思っているから」
「大いに問題があろう」
アッズーロは憤慨した。そもそも、ナーヴェの本体がミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山の坑道に閉じ込められたのは、エゼルチト及びラーモと接触してしまった所為だ。博愛主義の宝は、益体もない者の口車によって、簡単に行動不能にさせられてしまう。
「そなたは奴らと口を利くな。また訳の分からん人質の取られ方をして、どこぞに閉じ込められては敵わん」
最愛は、目に見えて、しゅんと落ち込んだ。反省は充分にしているらしい。抗弁どころか、目を伏せて話もしなくなった宝の様子に、アッズーロは少しばかり胸が痛んだ。
「……奴らに姿を見せず、黙って遠くから、尋問の遣り取りを聞くだけならば、問題はなかろう」
つい譲歩してしまったアッズーロに、ナーヴェは目を上げ、顔を輝かせた。
「いいのかい……?」
「王に二言はない」
「ありがとう、愛しているよ、アッズーロ」
礼を述べた最愛に、アッズーロは逆に顔をしかめた。どうも昨夜辺りから、ナーヴェは「愛している」を頻繁に使い過ぎる。ともすれば、今までの、たまにしか言わなかった「愛している」より軽く聞こえるのが、気に食わない。
「そなた、愛を告げる言葉はそう多用するものではない。慎みがなかろう」
「――きみは、とても頻繁に口にするのに……?」
最愛に不審そうに見つめられて、アッズーロは溜め息をついた。
「われは、そなたを成長させるため、敢えて頻繁に口にしておるのだ。そなたには、そうした必要性がなかろう」
「――ぼくも、できればきみを成長させたいけれど……」
ナーヴェはぶつぶつと呟く。
「まあ、確かに、『愛している』と言うことで、きみを成長させることはできなさそうだね。分かったよ。とにかく、尋問への立ち会いを許してくれてありがとう」
素直に了承して、ナーヴェは再び粥を口に運び始めた。
(少々、言い方がまずかったか……)
アッズーロも止めていた匙を動かしつつ、考える。ナーヴェが以前よりもアッズーロへの愛を表明し出したことは、歓迎すべきことのはずだ。アッズーロは粥を食べる合間に付け加えた。
「……ただ、言いたくなった時には、我慢せず言うがよい。われは、そなたの全てを受け入れるゆえ」
ナーヴェは持ち上げた匙を止め、困惑した面持ちで尋ねてきた。
「ぼくは、言いたくなった時にしか、『愛している』とは言っていないんだけれど、結局、どうすればいいんだい……?」
アッズーロは一瞬悩んでから、厳かに告げた。
「そなたが『愛している』と言うた時の、われの表情を見て学ぶがよい。それが言うべき時であったかどうかを、な。そうした積み重ねこそが、そなたの成長に繋がろう。愛を告げる言葉は、一方的に言うものではなく、相手を喜ばせてこそだからな」
最愛は、はっとした表情になった。
「そうだね……。心は、きみとぼくの間にある。愛の言葉は、自分の気持ちだけで一方的に言ってはいけないんだね……。確かに、きみの愛の言葉は、いつもぼくを幸せにしてくれる。とても勉強になったよ」
まだまだ純真な宝に真剣に感謝されて、アッズーロは少々後ろめたさを感じながら粥を平らげた。控えているフィオーレとミエーレが、憐れむような眼差しをナーヴェに注いでいる。麦を羊乳で炊いて乾酪をまぶし、阿利襪果実の塩漬けを添えた粥は、優しい味で胃の腑に収まった。
「まずはエゼルチトの尋問を行なう。それから大臣会議だ。招集を掛けずとも、どうせその辺りに全員おろう。心積もりだけさせておけ。特に羊の薬の配布状況については細かく確認する旨、予め伝えておくがよい。会議が長引かん限りは、会議の後に昼食だ。ただ、その前にナーヴェの本体で混線の修正をする。午後は会議がどうなるか次第だが、一度ティンブロとも話しておいたほうがよかろう。そちらも心積もりをさせておけ」
アッズーロは、朝食後、来室したレーニョに、すらすらと一日の予定を告げた。
(きみはまだ安静にしていなければいけない身で、本当に忙しいのに、ぼくの混線の修正まで……)
ナーヴェは申し訳ない思いで青年王を見つめる。すると、レーニョのほうに視線を向けていた王が、ふと振り向いた。
「そのような憂い顔を致すな。そなたのために時間を割くは、わが喜びだ。テゾーロのためにもセーメのためにも、微笑んでおるがよい」
呼応するように、ミエーレにあやされていたテゾーロが揺り篭から笑い声を立てた。ラディーチェが朝一番に来て授乳してくれたので、機嫌がいいようだ。
「……うん。ありがとう、努力するよ」
ナーヴェは無理に微笑んで頷いた。
「地下はここより冷える。上着を羽織って参れ」
アッズーロは、フィオーレに歯を磨かれるナーヴェに命じる。
「座っておく椅子も必要であろう。フィオーレはナーヴェを支え、ミエーレは椅子を一脚持って、ともに参れ」
「仰せのままに」
「畏まりました」
それぞれ一礼した女官達の間で、ナーヴェは目を瞬いた。
(仲夏の月だから、寒いというほどではないし、椅子も、まだ妊娠初期だから大丈夫なのに……)
ナーヴェの口を濯ぎ終わったフィオーレは手桶と楊枝、木杯の片付けをミエーレに頼み、自らは衣装箱の中から適当な上着を探し始める。自由になったナーヴェは、寝台に腰掛けたまま、青年王を見つめた。
「アッズーロ、きみも椅子が必要だよ」
「そうだな。レーニョに持っていかせよう」
己の寝台に腰掛け、自分で歯を磨いた青年は、ミエーレに後片付けを任せて、ナーヴェの仕度完了を待っている。
「レーニョ、そこの椅子を持って参れ」
「椅子は二脚ともミエーレ殿に頼みます。わたくしは、陛下を支えます」
有能な侍従は淡々と応じ、いつも食事を取る卓に備えられたアッズーロとナーヴェの椅子を、寝室の入り口まで移動させた。
三
――「そなたの瞳は、やはり青色なのだな、と祖父様に言われた。おれは、どう答えたらよい?」
苦い笑みを浮かべた親友に言うべき言葉を、エゼルチトは持たなかった。
(翡翠色の瞳だったロッソ一世陛下は、青い瞳の妃殿下を娶られた。やはり翡翠色の瞳だったロッソ二世陛下も、同じく青い瞳の妃殿下を娶られた)
代々の執念が、親友を苦しめる。青い瞳に生まれてしまった親友には、オリッゾンテ・ブル国王になるしか、苦しみを撥ね除ける術がない――。
(そもそもの理由を作った王の宝ナーヴェ。恨んでも恨み切れないから、本当に破壊してしまいたかったんだがな……)
返す返す、残念だ。
(尋問に、あれも来るだろうか……?)
あの船自体は来たがるだろう。そういう性格だ。問題は、アッズーロがそれを許可するかどうかだ。
エゼルチトの疑問に回答を与えるように、地下牢の通路から、複数の足音が響いてきた。
(やっぱり、ちょっとひんやりする……。アッズーロの言う通りだったね……)
肉体というものは本当に繊細だ。ナーヴェは、傍らを歩くフィオーレが着せ掛けてくれた上着の前を掻き合わせ、ミエーレが地下牢の通路へ置いてくれた椅子に腰掛けた。
前を進んでいたアッズーロとレーニョ、軍務担当大臣カヴァッロ伯ムーロ、将軍ファルコ、近衛兵のグーストとブイオは、エゼルチトが入れられている部屋の扉前で足を止める。陽気なグーストと慎重なブイオは、どちらもナーヴェと顔見知りで、出会えば話をする仲だ。アッズーロが、特に信用できる近衛兵として選んだのだろう。彼らの傍へ走り寄ったミエーレが、傍の篝火近くに椅子を置いた。どうやら、アッズーロは中へは入らないらしい。恐らくレーニョが小声でアッズーロに言い含め、ミエーレにも目で合図したのだ。
(よかった……。きみは、少しでも楽にしていてくれないと)
安堵したナーヴェの視線の先で、グーストが鍵を使って扉を開け、ムーロとファルコ、ブイオが中へ入っていった。アッズーロは椅子に腰掛け、レーニョがその傍らに付き添う。そうして、尋問が開始された。
「あなたは、オンダ伯エゼルチトで相違ないですね?」
ムーロが丁寧な口調で確認する。エゼルチトの声が、笑い含みに答えた。
「違うと言えば、どうなるのですか?」
「余計な時間が掛かるだけですな」
ファルコが面白くもないというふうに告げた。
「記録を取っておりますので、話はできるだけ簡潔に願います」
ブイオが硬い声音で口を挟んだ。
(彼らしい)
ナーヴェはくすりと笑った。尋問などというものは、雑談も交えながら、捕虜の心を解して、あれやこれやと聞き出すものと記録しているが、ブイオにそのようなつもりは皆無らしい。目上のムーロやファルコに遠慮せず話すところも、ブイオならではだ。神経質なところのある黒髪の青年の仏頂面が、まざまざと思い浮かぶ。
(まあ、目上の人に対して遠慮がないのは、グーストも同じだけれど)
暇な時には常に軽口を叩いている金髪の青年もまた、上官に対して遠慮がない。そして、王の宝であり王妃ともなったナーヴェに対しても、屈託なく話し掛けてくれる。最初にナーヴェが二人の名前を記録したのも、グーストに話し掛けられたことが切っ掛けだった。
(ただ、こういう面倒な場面では、グーストはできる限り黙っているだろうな……)
ナーヴェが二人の近衛兵の様子を想像している間にも、尋問は進んでいく。自身がオンダ伯エゼルチトであることすら素直に認めない青年に、ムーロが単刀直入に問うた。
「では、あなたが今回、わが国内で行なったことは、誰の命令に拠るものですか? それとも、全て或いは一部は、あなたの独断に拠るものですか?」
「全て、わたしの独断です」
即答したエゼルチトの声音は凜としていて頑なだ。
(絶対に、彼はそう言い通すだろうね……)
ナーヴェは密やかに溜め息をついた。エゼルチトの第一優先はロッソだ。ロッソに迷惑の掛かるようなことは一切口にしないだろう。一昨日も、ナーヴェがアッズーロの治療に専念していた間、ファルコがエゼルチトの尋問を行なったが、大した成果は上げられなかったと聞いている。その後、ナーヴェがエゼルチト達に問い掛けて掴んだ情報もアッズーロとファルコに伝えたが、尋問は余り進んでいないようだ。
(彼の口を割らせるには、ロッソをここに連れてくるか、口を割ったほうがロッソのためになると思わせるしかない……)
ファルコは、その辺りのことを既によく理解したはずなので、これから時間を掛けて上手く誘導していくだろう。エゼルチトがフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの従妹イデアーレの子であることも、効果的に揺さ振りに使っていけるはずだ。
(一番に知りたいことは、反乱を起こしている人達の中に、エゼルチトの配下の人達が、どのくらいいて、どんなふうに動いているかだ)
ロッソがエゼルチトの今回の行動に対して、どういう見解を持っているかについても知りたいが、そちらについては、ヴァッレの監督の下、ボルドがバーゼやサーレと連携して連絡員として努力していると聞く。バーゼとサーレはテッラ・ロッサへの潜入に成功したとも聞いているので、じきに詳細が伝わってくるはずだ。
(ぼくが本体でエゼルチトと対面できれば、もっと簡単にいろいろと探れるんだけれど……)
アッズーロは、絶対にそれを許さないだろう。
(ラーモはエゼルチトから引き離してあるし、他の部下の人も牢内の彼には近付けないから、もう人質を取られる心配はない……。不注意を装ってエゼルチトにぼくの存在を知らせて、本体との話に持ち込むという手段もある……。でも、それは、アッズーロとぼくの間にある心を踏みにじることになるよね……)
演算して、ナーヴェは、もう一度密やかに溜め息をついた。まだまだ本調子ではないアッズーロに負担を掛ける訳にはいかない。
(ここは、ムーロとファルコに任せよう)
結論を導き出すと、ナーヴェは改めて耳を澄ませた。
「ゼーロ、ベッリースィモ、ニード、ドゥーエ、キアーヴェ、ヌーヴォローゾ、タッソ、チーニョ、ダーチェ。この中に、知っている名はありますか?」
ムーロが相変わらず丁寧に尋ねている。反乱を起こした人々の中心人物達の名だ。
(バーゼが掴んでいた人達よりも一人名前が増えている……。潜入しているルーチェが、新しく鳩で知らせてきたんだね……。ダーチェ、か……。どんな人なんだろう……)
「ベッリースィモについては、多少知っています」
エゼルチトの返答に、ナーヴェは目を瞬いた。今日初めての、はっきりとした受け答えだ。ムーロも驚いたのだろう。一瞬間を置いてから、重ねて問うた。
「……どのようなことを知っているか、知っていることを全て話して下さい」
「フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの妹ジュディチェの息子ですよ」
エゼルチトはすらすらと告げる。
「ズィンコの息子スターニョは、まだ二歳と幼い。ベッリースィモは自分に跡継ぎの地位が回ってくると思っていたようですが、ズィンコはベッリースィモの父の身分を理由に、それを認めなかった。ゆえに、強引な手段に出たようですね」
「つまり、ベッリースィモは、自らがフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯になるために、反乱に加わった、ということですか?」
確かめたムーロに、エゼルチトは笑い含みに応じた。
「さて。そこまでは存じません。ただ、風の噂では、国王になる野望を懐いているとも聞きました」
「『風の噂』ではなく、具体的に誰から、と教えて下さい」
ムーロは冷静に食い下がったが、エゼルチトは、それ以上、何一つ確たることは言わず、時間が過ぎた。
(そろそろムーロがファルコへ、尋問役を交代するかな……?)
ナーヴェが予測した時、不意に、それまで黙っていたアッズーロが扉の外から口を挟んだ。
「よい。一先ずそこまでにしておけ」
「「――御意のままに」」
ムーロとファルコは、鼻白んだような声で了解し、ブイオとともに部屋から出てくる。最後に出てきたグーストが丁寧に扉の鍵を閉め、尋問は一端終了となった。
「どうして、早々に尋問を終わらせたんだい?」
地下から地上へ出る道すがら、ナーヴェは王に尋ねた。
「時間の無駄だからな」
アッズーロは眩しい日差しに目を眇めながら言う。
「奴には、あれ以上を話す気がない。拷問しても、碌な情報は出てこんだろう。それよりは、大臣会議で情報交換し、今後の戦略を練るほうが、時間の使い方として有効だ」
「まあ、そうだね」
納得したナーヴェの肩を、つとアッズーロが抱き寄せた。
「そなたは、このまま寝室へ戻るがよい。会議が終わるまで、暫し休んでいよ」
囁くように命じられて、ナーヴェは王の顔を見上げた。見下ろしてくる青空色の双眸には、有無を言わさぬ感情が浮かんでいる。
「……きみも、まだ安静が必要なんだよ? 無理は禁物だよ?」
それだけ言い返すのがやっとだった。
「分かっておる」
アッズーロは頬を弛め、微笑む。
「そなたの通信端末を持っていくゆえ、会議の模様は聞いておくがよい」
「それは、きみが言い出さなかったら、お願いしようと思っていたことだけれど……」
ナーヴェはもどかしく、特別に愛する相手に訴える。
「ぼくは、きみの傍にいたいんだ。この肉体の手を伸ばせば、きみに触れられる距離にいたいんだ。だから、地下牢にもついて行った。きみが心配なんだ。きみと、離れたくないんだよ……!」
アッズーロは軽く目を瞠ってから、ナーヴェの背中へ両腕を回して、痛みのない程度に強く抱き締めてきた。
「――われも、そなたと離れたくはない。だが、わが子を身篭もってくれたそなたの体を、大事にしたいのだ。無理をさせたくないのだ」
「……うん、理解しているよ」
動く左腕でアッズーロを抱き返し、その胸に顔を押し付けて、ナーヴェは答えた。理解している。理解はしている。ただ、心配なのだ。不安なのだ。
「……そのように憂えた顔を致すな。子には、母の笑顔こそが必要だ。朝にも言うたが、テゾーロのためにも、セーメのためにも微笑んでおるがよい」
顔を覗き込むようにして窘められ、ナーヴェは小さく頷いた。
「……努力、するよ……」
直後、顎に手を添えられて上向かされ、口付けられた。
「っ……ん……」
周りには、フィオーレもミエーレも、レーニョもグーストもブイオもいる。会議室へ急ぐムーロとファルコも、まだ遠くへは行っていないはずだ。しかも、白昼の庭園である。だが、アッズーロは青空の下、深くナーヴェに口付けた。舌を舌で愛撫する甘く長い口付けに、両足から力が抜けていく。
「……ぁ……はっ」
崩れ落ちそうになったナーヴェの体を抱き支え、口付けを終えたアッズーロは、再び見下ろしてきて、優しく宣言した。
「そなたの傍以外では絶対に死なぬ、という誓いの口付けだ。違えぬゆえ、安心するがよい」
「――ぼくの傍でも、死んだら駄目だよ……」
その時、確実に訪れる悲嘆と暴走については、演算したくもない。必死に請うたナーヴェに、青年王は、にっと、いつもの笑みを見せた。
「それは、そなたの努力義務だ。その明晰なる思考回路で考え、さまざまに手を打つがよい」
「――分かった。今まで以上に、ぼくの全力を尽くすよ」
ナーヴェは、しっかりと青年王を見つめ返し、最大限の約束をした。
「――大事にする、とは難しいものだな……」
会議室へと歩きつつ、呟いた幼馴染みの王に、肩を貸すレーニョは労る目を向けた。王の宝ナーヴェは、目に見えて不安定になっている。それが、この幼馴染みを案じてだということは、傍目にも明らかだ。
「陛下は、近頃は充分、大事になさっておられます」
レーニョが慰めを口にすると、幼馴染みは鼻を鳴らした。
「あのように憂えた顔をさせておいて、『大事にする』もない」
自嘲した王の横顔にこそ、深い憂いが表れている。
「われの、その場凌ぎの言葉になぞ、何の確証も得られんだろうに、あのように無理に了解して、全て呑み込もうとしておる。そうさせてしまう己の力不足が歯痒いことだ……」
アッズーロが自己嫌悪めいたことを他人に話すなど、滅多にないことだ。
「本当に、陛下は、近頃は充分、ナーヴェ様を大事になさっておられます」
レーニョは懸命に力説した。途端に、アッズーロが胡乱げな目付きでこちらを見てくる。
「おまえ、『近頃は』と随分強調するではないか」
「それは――」
無意識の内に、本心を吐露してしまっていた。言葉に詰まったレーニョに、アッズーロは、ふっと笑った。
「よい。それはわれも同感だ。あやつに肉体を持たせた当初は、われは少しもあやつを大事にしておらなんだ。今ならば、パルーデの許にあやつを行かせるなぞ、考えただけで虫唾が走るわ」
「あの一ヶ月間は、毎夜、ナーヴェ様を案じて、碌に眠れませんでした……」
夜中にパルーデの訪れがなかったと聞いた朝は、心底嬉しかったものだ。
「――おまえにも、苦労を掛けたな」
不意に労われて、レーニョは、まじまじと幼馴染みの双眸を見た。だが、青空色の双眸は、会議室へ通じる通用口へと、すぐに逸らされてしまった。
四
フィオーレに付き添われ、椅子を二脚持ったミエーレに付き従われたナーヴェが寝室へ戻ると、壁際の長椅子に座ったラディーチェが、テゾーロを抱き抱えて授乳しているところだった。セーメを身篭もったナーヴェは、全く母乳が出なくなってしまったので、今ではラディーチェに任せっきりだ。
「ありがとう、ラディーチェ」
いつものように礼を述べ、テゾーロの顔を覗き込んで微笑み掛けたナーヴェは、青い髪が幼い手に捕まえられてしまう前に、さっと身を引いて、己の寝台へ腰掛けた。
(さてと……)
テゾーロと遊びたい気持ちは山々だが、すべきことも山のようにある。
「フィオーレ、会議が終わるまで、ぼくは休んでいるから、何かあったら起こしてほしい。それから、また暫く三歳児みたいになるけれど、心配ないから」
「何をなさるのですか……?」
家族のような女官は、既に心配そうに問うてきた。
「ちょっと、アッズーロのために、特別な極小機械を作るんだ」
ナーヴェは務めて笑顔で説明する。
「羊の病に効く薬を作るのと同じくらいの手間だから、大丈夫だよ」
「……それは、かなり大変、ということですね……。畏まりました」
フィオーレは案じる顔をしながらも、とりあえず頷くと、ナーヴェが寝台に横になるのを手伝い、掛布を掛けてくれた。
(ぼくは、アッズーロを特別に愛しているけれど、きっと、フィオーレに何かあっても、暴走一歩手前になってしまうだろうな……)
そうなった自分を止められるのは、姉かアッズーロだけだろう。
「いつも、ありがとう」
柔らかく礼を述べ、目を閉じたナーヴェは、早速、本体で作業を開始した。
(アッズーロの期待に応えるためには、彼を外傷や毒素から守る特別な極小機械が要る――)
彼が生まれた時から持っている汎用型の極小機械だけでは、先日のような事態に対処し切れない。さまざまな極小機械を有しているナーヴェの本体や肉体が常に近くにいて、目的に応じた極小機械を分け与えられるとは限らない。どんな場合であってもアッズーロを死なせないためには、専用の極小機械を作ることが最善策というのが、思考回路の導き出した結論だった。
(会議を傍聴しながら、まずは、彼専用の特別な極小機械を作って……)
できれば、会議終了に間に合わせて、混線の修正のついでに、アッズーロに新たな極小機械を摂取させたい。その後は、会議の内容次第だが、羊の薬を追加生産する必要はあるだろう。
(ぼくには、きみ達のために、まだまだできることがある)
アッズーロとの婚儀の中、自ら考えて述べた言葉が思考回路で再生される。
――「神ウッチェーロに、本日、謹んで御誓約致します。わたくし、ナーヴェは、アッズーロ陛下の妃として、オリッゾンテ・ブル王室のため、そして人々のために、最後の最後まで、わたくし自身を使い尽くします」
(ぼくは、ちゃんと最後まで、ぼく達の子ども達のために、ぼく自身を使い尽くすから)
改めてナーヴェはウッチェーロに誓い、作業に邁進した。
ムーロが先触れしたので、アッズーロが会議室に入った時には、十二人全ての大臣が揃っていた。
「皆、御苦労」
労って、アッズーロは立ち上がって頭を下げた大臣達の間を通り、一段高い王座へ腰を下ろす。会議室の入り口までアッズーロの肩を支えたレーニョは、同席するファルコと並んで扉の内側に佇み、気遣う眼差しを送ってきた。
(全く。それだからフィオーレと進展せんのだ。ナーヴェも気にしておるというに)
胸中で呟いて、アッズーロは大臣達を見回す。
「これより、臨時の大臣会議を始める。議題は、羊の病に効く薬の配布状況、反乱民どもの動向、及びテッラ・ロッサとの交渉についてだ」
宣したアッズーロに、大臣達が一礼して、会議は始まった。
極小機械の改良に取り組んでいたナーヴェの思考回路に、唐突に会議の音声が流れ込んできた。アッズーロが律儀に通信端末を起動させてくれたのだ。
(きみは、本当に優しい……)
しみじみと思いながら、ナーヴェは大臣達の声に幻覚の耳を傾けた。
〈ファルコ殿の指示の下、兵達は順調に羊の薬を配布しております〉
最初に発言しているのは、保健担当大臣メディチーナ伯ビアンコだ。
(ラディーチェの伴侶だ……)
ナーヴェは幻覚の微笑みを浮かべ、理知的な青年の言葉を一言一句聞いていった。
〈民達からは、概ね歓迎の声が上がっているとのこと。薬の効き目も、さすが王の宝の手に成るもの、劇的なようで、病に罹っていた羊達が、次々と元気になっていると報告が来ております〉
(あれは、病原体となっている亜生物種そのものを駆逐する、抗生物質だからね……)
この惑星の原生種たる亜生物種とは、これからもちょくちょく戦っていかなければならないだろう。
(まあ、彼らのお陰で、この惑星が住み易くなっている側面もあるし、いずれは、共存共栄できたらいいな……)
ぼんやりと夢想したナーヴェの思考回路に、ビアンコの締め括る声が響いた。
〈全ての羊達が病から回復すれば、反乱に加わる者は激減致しましょう。妃殿下には、可能であれば、かの薬の更なる増産をお願い申し上げたく存じます〉
(うん。頑張るよ)
ナーヴェが思考回路の中で了解した直後、些か硬い将軍ファルコの声が聞こえた。
〈その薬の配布についてですが、順調に進めば、明日には、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城の辺りへ、配布担当の小隊一つが至ります。兵達には、くれぐれもこちらから手を出すことはないよう通達してありますが、予断を許さぬ状況であることは間違いありません〉
(ぼくが、本体に肉体を乗せて、その場に行けたら……)
兵達を守れる。反乱を起こしている人々も守れる。互いに傷つけ合うことのないように。万一怪我人が出たとしても、助けることができる。命を救うことができる。
(アッズーロ……。何とか、許してくれないかい……?)
ナーヴェの願いも虚しく、アッズーロが釘を刺した。
〈先に言うておくが、わが妃に許すは、薬の生産までだ。以前に告げた通り、戦場へは二度と行かせぬ。それを踏まえた上で議論せよ〉
それは、或いは通信端末越しの、ナーヴェへの宣言かもしれなかった。
(やっぱり、駄目か……)
落胆したナーヴェを慰めるかのように、軍務担当大臣ムーロが発言した。
〈反乱民に潜入しているルーチェからの報告では、昨夜、首領のゼーロを中心に話し合い、羊の薬の配布については、暫く様子を見ることになったようです。反乱民としても、薬の配布を妨害しては、民の信を失うと判断したのでしょう。ただ、薬が配布されたのち、何か些細なことでも問題が起これば、それを口実に彼らが再び活気づく可能性は大いにあるかと存じます〉
(とりあえず、いきなり戦闘にはならずに済みそうだね……)
ナーヴェは安堵する。ゼーロという青年は、真っ当な感覚を持っているらしい。
(でも、多分、ベッリースィモやエゼルチトの工作員は、羊の病が治りました、めでたしめでたし、とはしてくれないだろうね……)
〈ルーチェに命じて、内側から奴らの結束を崩すことはできんか〉
アッズーロの問いに、ムーロは申し訳なさそうに答えた。
〈以前より、可能な限りそうするよう命じてはおりますが、潜入を続ける以上は、怪しまれないようにすることが第一で、難しいようです〉
〈奴らの結束が瓦解したならば、最早、潜入を続ける必要もなかろう? そういう時期に来ておるのではないか?〉
アッズーロは尚も畳み掛ける。これには、外務担当大臣ヴァッレが応じた。
〈陛下、間諜や工作員にとって、素性が割れるということは、即ち身に危険が及ぶということです。陛下は、優秀で忠実な工作員や間諜に、死ねと仰せですか〉
間諜や工作員を使うことに慣れており、且つ王族たるヴァッレならではの反論だ。
〈分かった。話を進めよ〉
アッズーロは溜め息交じりに引き下がった。
〈エゼルチト配下の工作員については、テッラ・ロッサにも問い合わせ、ピアット・ディ・マレーア侯ズィンコ殿にも、知り得る限りを話して頂いているとのこと〉
ヴァッレは一転して、アッズーロを元気づけるように語る。ズィンコは、エゼルチトに心酔した侍従達によって、侯城の地下牢に入れられていたところを、ファルコが差し向けた一隊によって救い出されたと、ナーヴェも知らされていた。ズィンコを裏切った彼の部下達は散り散りとなり、或いは反乱民へ加わり、或いはエゼルチト配下のテッラ・ロッサ兵に合流したと聞く。そのズィンコを聴取しているのは、アッズーロと入れ替わりで王城を発ったジョールノということだった。現在はアッズーロ直属として動いているらしい。
〈その工作員の素性を暴くことができれば、反乱民の瓦解は更に早まるでしょう〉
ヴァッレは穏やかな口調で発言を終えた。
(エゼルチト配下の工作員である可能性が高いのは、キアーヴェだ。そのことは、以前にバーゼが報告していたから、アッズーロも大臣達も全員知っている。ルーチェもバーゼから、潜入引き継ぎの際に聞いたはずだ。
(それでもまだ、確証が掴めないでいるのか……。キアーヴェは、かなり能力の高い工作員なんだね……。そう言えば、ジョールノが持っていた通信端末はどうしたんだろう? アッズーロが持っているのかな……?)
ナーヴェが幻覚の首を傾げた時、やや唐突に、少女の声が響いた。
〈われわれの願いは一つのはずです……!〉
(ええと、これは――)
あまり頻繁には聞かない声だが、記録を検索すれば名前が分かる。
(山林担当大臣のヴォルペか……)
いつも大人しく、会議でも殆ど発言しない最年少大臣の言葉に、ナーヴェは興味深く聞き入った。
〈この王城におられる方々も、羊の病に苦しめられている方々も、テッラ・ロッサの方々も、そして反乱を起こしている方々も、皆、自分が大切に思う人の幸福を願っているはずです。われわれの願いは、突き詰めれば一つなのです〉
ヴォルペは堂々と語る。
〈そのために必要なことは、目指すべき最善の道は、世の安寧です〉
十八歳の大臣は切々と訴える。
〈大局的見地に立てば明らかであるその事実を、われわれはもっと積極的に示していかねばなりません! 陛下、どうか、反乱を起こしている方々の代表者達を、この王城へお招き下さい!〉
それは、ナーヴェにとっても、予測を超える提案だった。
(へえ。アッズーロ以外にも、こんなふうに、ぼくの計算を上回る人がいるんだ……)
反乱を起こしている人々と、この王城で会えるならば、ナーヴェとしては願ったり叶ったりだ。
(でも、その提案を通すことは、なかなか難しい。ぼくに手助けできることは、何かないかな……?)
ナーヴェは、久し振りに高揚した気分で、新たな演算に取り掛かった。
自分に注がれる王の眼差しは鋭い。若輩者で貴族でもない自分を大臣へと取り立ててくれた王。普段ならば、厳しい中にも温かみのある青空色の双眸が、今は険しい色を湛えている。
(妃殿下に対して、一部の人がした行為は、許し難い。それはわたしも同じだ。でも、あの方々が反乱を起こしたのには、それなりの理由がある。それについて、直接言葉を交わさなければ、禍根は、永遠に残ることになる)
ヴォルペは、王の視線を真っ直ぐに受け止め、言葉を続けた。
「どうか、彼らの話を聞き、彼らに話をなさって下さい。そこから紡ぎ出される解決策、未来こそが最善であると、わたくしは考えます!」




