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ある日、空っぽで幸せだった日常はあっけなく終わりを迎えた。
いつもどおりの朝。
いってらっしゃいと声をかけ家族を送り出し、一息ついてから少し遅めの朝食を取る。生まれつき体が弱く、心臓に重い疾患も抱えているため働きに出ることもできない私は、負担の少ない家事をのんびりこなし、代わりえのない日常を過ごしていた。
ぼんやりと箸を進めていると、ふとカレンダーが目に入った。3月20日の欄には赤いサインペンで大きく『お姉ちゃんの誕生日』と書き込まれている。
妹が書いたのだろう、枠いっぱいに元気よく書かれた丸みのある文字はとても楽しげだ。
「もう来年で34歳かぁ…」
家からは一歩も出られない。いつ心臓発作が起きるかわからないからだ。
両親と妹から庇護され生かされる毎日。返すあてのない愛を受けるだけ受けて朽ちていく暮らしだ、誕生日を心待ちにし指折り数えるような気持ちにはとうていなれない。年々、後ろめたさと焦りばかりが募る。
自分は恵まれているということは分かる。分かっているとしても、無為にただ過ぎていくように感じる自分の人生をそう簡単には割り切れないのだ。
「あーだめだめ。みんな楽しみにしてくれてるんだもんね…」
今年のケーキのデコレーション案でも考えて前向きに気持ちを上げていこう、そう思った矢先、胸に強い痛みが走った。
緊急時用のアラームに視線を向ける。電話脇に置かれたそれは、押すと必要な緊急連絡先に電話がかかる設定になっている。
前回の発作の比ではない痛みだ、これはいよいよまずいかもしれないなと頭はやけに冷静なのに、体は激しい痛みに耐えきれず床に倒れ込んでしまった。指の一本も思うように動かない。
本能的に服の胸元を強く握りしめたまま意識は遠のいてゆく。
―――そうか、きっともうこれで終わりなんだね…。
―――お父さん、お母さん、あいり。何も返せないままでごめんね。
―――もし生まれ変われるなら、次の人生は自分の思うように力いっぱい生きてみたいなぁ。
死ねばその先なんてなにもないだろうと漠然と思う。
それでも、小さな世界でしか生きられなかった今生との別れ際に私は、そう願わずにはいられなかった。
温かい日差しが背中に当たっているのを感じる。長い夢をみていたような感覚だったが、実際は机に突っ伏して午後のひだまりでまどろんでいただけのようだ。
頬が少し痛い。痕が付いてしまっただろうか、これではザックにお昼寝がバレてしまうかも。こすって誤魔化しながら重い瞼を開くとそこは見慣れたダイニングキッチンだった。
いや、見慣れているのはおかしい。
覚めていく意識とともに違和感が大きくなる。お世辞にも整っているとは言えない、簡素で飾りっ気のない木造の建屋と家具。床は今どき見ない土間だ。自宅とは明らかに違うと分かっているのに、それでもここは自分の暮らしている場所に他ならないという記憶がある。
「どういうことなの…?」
私は心臓発作で死んでしまったのではなかったのか。
いや、私はこの工房の女中をしているはずだ。昼食の片付けが終わって一息ついたところでうたた寝をしてしまったのだ、そろそろ洗濯物を取り込まなくては。
そんなはずはない、私は、私は…。
混乱する頭を抱えたまま椅子から降りて歩き出すと違和感はさらに増していった。
体はとても軽いし、妙に周りの物が大きい気がするのだ。それはそうだろう、私はまだ14歳の子供なのだから。
「え?そんなはずないでしょ!いや、でも…」
鬱々と34歳へのカウントダウンをしていたとは思えないほど、素直に自分は子供なのだと認識していた。
現に、広げてまじまじと見つめた手のひらは細く小さかった。
そうしているうちに全てを理解した。
私、『斉藤まなか』は心臓発作で死んでしまった後、前世の記憶を持ったままこの少女の人生を歩み始めたらしい。少女の生きた14年間の記憶もしっかり頭に残っていて、そんなはずはないのに、それも自分の人生だと感じているのが不思議だ。
そっと自分の胸に手を当てた。
もう痛みはなく、ほのかに温かさと何か力強いエネルギーのようなものを感じる。これが健康な体、心臓…新鮮な感覚と当たり前に思う気持ちが入り混じってもう何が何やら分からない。
(今は深く考えないようにしよう。)
傾きはじめた太陽に焦ってしまうから、私はとにかく頭を空っぽにして洗濯物を取り込もうと勝手口へ急いだ。