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残酷描写有
京子さんが、悪いの。
ねぇ、お父さん、そうでしょう。
それでもやっぱりお父さんは言葉を、繰り返す。
なにが、どうして、なんで、お前がやったのか。
当たり前のことなのに、どうしてお父さんがそう何度も訊ねるのかわからなかった。次第にそれが、呪文のように聞こえて、背筋がぞくぞくした。
私は立ち上がって、カーペットの上に転がる京子さんだったものに近づいた。
刺さったままの包丁を、ずぷりと抜く。だいぶ血が乾いてしまっているから、ぱらぱらと粉状になって舞った。
仕方がないから、お父さんに説明してあげることにした。どう考えても、理解が出来ないらしいから。
お父さん、冷静に聞いていて。そこのベッドに腰かけていいよ、と。
まず、簡単に説明した。なんで京子さんが私の部屋で、包丁でお魚のようにお腹を裂かれて、転がっているか。
それは、京子さんがお母さんの形見の指輪を飲み込んだから。
こんな簡単な、理由。
お父さんは汗をぼたぼた落として、私をじっと見ている。黙ったまま。
指輪のことを忘れてしまったのかなぁ、と首にかけて服の内側に垂らしていたネックレスを取った。お父さんの目の前で、ペンダントトップを、お母さんの指輪を、見せる。
どうして、そこまでしなければならなかったかって。
それは今から丁寧に説明するから、お父さんはもう京子さんに愛を抱かないで欲しい。
そう言ってから、続ける。
半年くらい前にも、指輪が一度なくなった。
机と共にお母さんの作った小物入れが捨てられた時のこと。小物入れの中には指輪が入っていたのにと、泣き叫びながら私はゴミ箱を漁っていた。だけど、学校帰り見てしまったの。
京子さんが、猫のみぃちゃんに指輪を飲ませたところを。
いつもはみぃちゃんを毛嫌いしている京子さんだったから、印象深かった。
みぃちゃんにおやつとしてあげる鰹節。鰹節を美味しそうに食べているみぃちゃんを乱暴に捕まえて、何かを喉の奥に入れていた。
あの性根の悪い京子さんだったから、私はすぐに気付いた。あれは指輪だって。
だから私は、苦しくて悲しくて悔しくて仕方がなかったけれど、指輪を取り返した。
家の裏庭で甘えてくるみぃちゃんのお腹を裂いた。
みぃちゃんの細い首をこきりと折って、殺してから。
カッターの刃をぢきぢきと出してから、柔らかい部分にぶちゅりと刺した。そのままお尻の方まで一気に裂こうとしたけれど、ふわふわの毛が引っかかって中々上手くいかなかった。布を千切るような音と生温い液体がどぷどぷ溢れて止まらなかった。
まだ温かい内臓に、手を突っ込んで掻き回して、私は指輪を見つけたの。銀色だった指輪は、真っ赤に塗れて。私の手首まで血でぬめった。
泣きながら、地面を掘ってみぃちゃんを埋めた。爪の間に入り込んだ血と、土は中々取れなくて、お母さんを裏切ったという烙印を押されたように息苦しかった。
今、話している最中にも涙がぼたぼた溢れてくる。苦しいのになんでお父さんが、泣くのか意味がわからないよ。
そんな、思いをしてまで、私は指輪を取り返したかった。
どこかの窓から見ていた京子さんが、お母さんの猫を殺してまでとにやにやと笑いながら言ったことを覚えている。お父さんに言おうかと思ったけれど、みぃちゃんを殺したなんて知られるのが耐えられなかった。お父さんが京子さんと私が仲良くなって欲しいの知っているから。京子さんの味方にも、私の味方にもなるから。
もうこれ以上最低な人間に、お母さんを裏切るような人間になりたくなくて私は京子さんになにも言わなかった。代わりに、指輪はチェーンに通していつでも身に着けるようにした。
そこで終わればよかった。そこで終われば、京子さんのことをずっとずっと憎んで終わりだった。
お父さんが出張で家にいなくなって一日目のとき。お風呂の時に、洗面所にネックレスを置いていた。少し油断しているのもあった。京子さんと二人きりということをわかっていたのに、洗面所のところの鍵をかけずにお風呂に入ってしまった。
お風呂を出たときには遅かった。チェーンだけが寂しそうに残されて、お母さんの指輪はなくなっていた。
京子さんに聞いても、にやりと笑って知らん顔。
お父さんに言うと脅しても、意味ないよとにやけ顔。
また猫の腹の中なのかと疑ったけれど、何かを察しているのか猫は最近この辺りにいない。それに、猫が好きなお母さんを裏切る方が嫌だった。それから私は指輪を死に物狂いで探した。
ゴミ箱を漁った。
戸棚を漁った。
京子さんの部屋を漁った。
庭の花の下の地面を掘り漁った。
家の近くの川に、腰まで浸かって探した。
それでも、指輪が出てくることなんかなくて。
みぃちゃんを殺したことに意味はなくなって。
もう涙が零れるばかり。
そして、昨日のこと。
部屋で、大人しく勉強をしていた。もうきっぱり諦めようと、お母さんは心の中にいるのだと。そう思い込ませた。
ノックも無しに入ってきた京子さん。
私の名前を呼んでいた。無視を決め込んで何も反応せずにいたけれど、とうとう振り返ってしまった。
あおい、の指輪。
お母さんの名前を、その汚い喉から発して欲しくなくて、睨みつけた。
すると、京子さんは銀色にちかりと光る指輪を人差し指と親指でつまんでいたのだ。
返してと言っても、ただにやにや嗤う京子さん。
立ち上がってさらに睨みつけても、なんともないという様にやついた。もう腸が煮えくりかえるという言葉がぴったりと当てはまった。血が沸騰するように、熱くなっていくのがわかった。
これ、返して欲しくないのかしら。
そう言って指輪をちらちらと振る。蛍光灯の白い光りをにちかりちかりと反射した。
いっそのこと殺して、取り返してしまおうかと思ったけれど、腕に動けないようぐるぐると蔦のように縛りつくのはみぃちゃんを殺してしまったときの私の心。これ以上、お母さんを悲しませることはできない。私にはできないのだ。
みぃちゃんを殺した、あの感覚を忘れることのないようにこれ見よがしに机の上に転がっている、カッター。錆び付いていて、何に使えるかわからない。
みぃちゃんの血を思い出せ。みぃちゃんの肉を思い出せ。みぃちゃんの動かない身体を思い出せ。みぃちゃんの死体を思い出せ。熱い脳みそを無理矢理冷まして、私は危険な考えを捨てた。
いつの間にか荒くなっていた私の息。その姿見て、また京子さんが嗤う。
ねぇ、それを返して。
私は震える手を差し出した。驚くほど素直に、京子さんは私の部屋に足を踏み入れた。フローリングから、白いカーペットの上へやってくる。
再び、手を差し出す。京子さんはつまんでいた指輪を、一度宙に泳がせる。指輪の動きに視線を奪われていた私は、気付かなかった。ぱかりと赤い口紅を引いた口を開けた京子さんに。
そして京子さんは指輪を、自分の赤い舌の上に置いた。
赤い口紅で艶やかに光る上唇と下唇の黒々とした隙間に、銀色の指輪は舌と共に吸い込まれていった。
ごくり。
喉がぎゅるりと動いて、銀色の指輪が京子さんのお腹の中に滑り落ちていったということがわかった。お母さんの指輪が、真っ黒くて底のない穴に落ちたようだ。背筋を走る冷たい感覚、しかし熱で浮かされているように感じるほど頰は熱かった。頭の中は真っ黒で。感情がたくさん混ざり合ってしまって、目の前がちかちかと急に眩しくなった。どうにかして取り出さないと。それだけ。
思わず握り締める机上のカッター。
どくどくと自分の心臓が、大きな音を立てているのがわかる。
だめだ。だめだ。だめだ。これを、このカッターをこれ以上、使ったらいけない。いけないのだ。ほら、思い出すのだ。みぃちゃんの温かい血を。みぃちゃんのぬめる肉を。みぃちゃんの屍を。
これ以上、お母さんを裏切るつもりか。
ぐぅ、と痛みを感じるほど強く、強く、カッターを握り締める手を机に押しつけた。
落ち着け。落ち着け。
ふぅと大きく息を吸う。京子さんに、顔を向けた。
私の葛藤を見続けていた京子さんは、にたりと口元を歪めた。
あおい、完全に消えちゃったねぇ。
気付いたら、みぃちゃんを裂いたカッターをぢきぢきと出して、京子さんのお腹に刺していた。手が滑って、カッターが皮膚を捲き込んで捻れた。痛みに音のない悲鳴を上げて、白いカーペットに崩れ落ちる京子さん。痙攣していた。びくびくと。
取り返しのつかないことをしてしまった。
自覚はしていた。しかし、少しでも長い時間、指輪を京子さんの体内に存在させることが許すことができなかった。これ以上、お母さんの色を京子さんの色で塗りたくなかった。
これからすることを、私は正しいと思った。
階下のキッチンから包丁を、手にした。柄を、しっかり握り締めて、再び部屋に戻ってくる。
白いカーペットを赤く染めながら、京子さんの目の玉は私に向いていた。カッターを抜こうと、柄を握り締めていたけれど痛くて抜けないみたいだ。
歪んだ顔の京子さんの傍らに膝を付き、包丁を置いた。カーペットのおかげで音はない。微かに震える手に力を込めてカッターを引き抜いた。血がどぶりと溢れて、京子さんの白いブラウスを赤く染めた。京子さんの身体が、弾かれたように痙攣する。
京子さんが何かを音を発したが、近くに落ちていたハンカチを丸めて口に詰めた。うるさい。これ以上、騒々しい音を立てないで。
それからボタンをぷちりぷちりと外す。手が震えて、ゆっくりとしかできなかった。みぃちゃんのときと同様に、骨のなさそうな柔らかい部分。鳩尾辺りから、下腹部まで一気に引き裂いた。ぶつぶつぶつりと皮膚が包丁に引っかかって、途中で力をたくさん込めなければならなかった。
ある程度、お腹の中身が見えるようになるとカッターを使って、内臓や筋肉、脂肪をかき混ぜるようにして指輪を探した。
夕飯を食べていなくて本当によかった。鉄のような血の臭いがむせかえり、鼻腔に無理矢理入ってくる。胃は空っぽなはずなのに、酸っぱい液体が喉からせり上がって何度も吐きだした。
でもみぃちゃんを殺したときのように、悲しさも苦しさも悔しさも湧かなかったから、そこだけはありがたかった。指輪を飲み込んだのが京子さんでよかった。
どのくらい経ったかわからない。たぶん二時間とか、そのくらい。私には永遠のように感じたけれど。
京子さんの中身を掻き回して、掻き回して、掻き回して、掻き回して。
ようやく、指輪を見つけた。
赤黒く染まってぬめぬめとしていたが、それはお母さんの指輪だった。
宝物を探し当てたみたいに、嬉しかった。
それから私は、身体中に纏わりつく京子さんを落とすためにお風呂に入った。さすがに血塗れの廊下は、出張先から直接家に来たら驚くだろうなぁと思って綺麗にした。
それから、ベッドに身体を預けて、泥のように眠った。
隣に京子さんだったものが、落ちているのに私は、お母さんが死んでしまってから一番すっきりとした気持ちで眠りに落ちたの。
それが、昨日までの話。
お父さん、わかったでしょう。
これから、私がしなければならないこと。私たちがしなければならないこと。
お母さんを、取り戻す。それだけ。
京子さんが塗り潰していったお母さんを、取り戻すことに決めたの。
だから私はカーテンが欲しかった。
お母さんの色を取り戻したかった。
ねぇ、お父さん。
このごみを片づけて、部屋を綺麗にして、家をぴかぴかにしよう。捨てられてしまったものは、もう二度と取り返すことは出来ないけれど。アルバムも、小物入れも、机も、何もかも捨てられて、家は京子さんに塗り潰されすぎている。もう少しで、乗っ取られるところだったんだ。
お父さん、まずはお母さんを思い出そう。
お母さんの好きな色、好きな食べ物、好きな家具。
ほら、まずは。
青いカーテンを差し出した。
深い、青いカーテンは鮮やかに、お父さんの視界を埋め尽くす。
お父さんは、震える手で受け取った。
さらりとした質感に、目を細めている。
お母さんの髪みたいでしょう。
にっこり笑いかけると、お父さんはびくりと肩を揺らした。
だから、だからね──
「私はカーテンが欲しかった」