広家の豹変
安国寺恵瓊は怒っていた。
西軍は東軍をぐるりと囲んでいる。しかも西軍は山の上に陣を構え、遅れて来た東軍は盆地の中にいた。この布陣が必勝の構えであることは坊主である彼の目にも明らかだった。毛利はただ山を下れば良い。それだけで天下の主……は無理だけど、豊臣家の家臣筆頭になれるのである。鎌倉幕府が将軍より執権だったように、室町幕府が将軍より管領だったように、豊臣家では大老筆頭である家康が幅を利かせているではないか! 今この時、ちょいと山を下るだけで、彼らの主毛利輝元は事実上の天下人になれてしまうのである。
「何でこんな簡単な理屈が分からないのだ! 馬鹿か? 馬鹿なのか? 広家殿は馬鹿なのか!?」
馬鹿と面罵された吉川広家は、額の血管とこめかみをヒクヒクさせながら恵瓊を宥めた。
「まあまあ、落ち着かれよ。空腹だから気が立つのです。ああ、弁当はいかがですか? ……おい、ここに精進料理を!」
広家がパンパンと手を叩くと、弾かれたように恵瓊が怒鳴った。
「要らんわ! ていうか、朝から何食目だ!? それに戦場で生臭もくそもあるか!」
広家はもう一度パンパンと手を叩いた。
「やっぱり唐揚げ弁当を!」
「要らんわ!」
恵瓊が怒るのも無理はない。「今、弁当食ってるから」と言って一向に動こうとしない吉川勢のせいで、毛利全軍(と巻き添えの長束勢と長宗我部勢)が山を下れないのだ。朝は「食いしん坊だなぁ。干飯で我慢しろよ」と思っただけだったが、日が高くなり、昼を過ぎ、日が傾き初めても、広家はずーーーっと「今、弁当食ってるから」と言い続けているのだ。温厚(?)な恵瓊もいい加減我慢できず、遂に広家の元に乗り込んで来たのであった。
だが、そんな広家に文句があるのは恵瓊だけではなかった。吉川家の家臣が苦情を持って来たのだ。
「殿、兵達が不満を訴えています」
「ほら見ろ! 今が攻め時だということは雑兵にでも分かるのだ!」
広家は眉をひそめつつ恵瓊を無視した。
「何事だ?」
「それが……」
家臣の伝えた苦情は、実に衝撃的な内容だった。
「……お腹がいっぱいで、もう、食べられないと……」
「くっ、だらしない奴らだ!」
広家は悔しそうに唇を噛むと、恵瓊はここぞとばかりにはしゃぎ出した。
「よし、腹が膨れたならすぐに戦だ!」
だが広家は諦めが悪かった。
「これは恵瓊殿とは思えぬお言葉でございますな」
「な、なにっ……?」
動揺する恵瓊に対して広家は胸を張った。
「食べてすぐは動けませんっ!」
「……いや、まあ、そうだけど……」
「というわけで一刻ほど食休みをして、戦はその後ですな」
「一刻!? そんなに待ったら日が暮れるわ!」
既に日は傾きつつある。一刻後に山を下り始めたら、敵と遭遇する前に真っ暗になっているだろう。もっとも、既に恵瓊の目の前は真っ暗になっていたが。
そこに更に別の家臣が飛び込んできた。
「御注進! 御注進!」
「何事だ」
「小早川中納言様、東軍に寝返られました!」
「…………!」
その衝撃の知らせに恵瓊は呆然とし、広家は膝を打った。
「良し! ……じゃなかった。ナ、ナンダトー!」
「…………」
広家のその衝撃的なまでに臭い演技に、恵瓊は恨みがましい目を向けた。なんだか呪殺とか試みちゃいそうだ。
「広家殿……そなた、よもや中納言様まで……」
「わ、悪く思われるな。恵瓊殿が毛利を思っているように、私も毛利家を思ってやったことだ!」
「どこがっ!?」
「今更何を言ってもどうにもならぬ! 納得いかぬと言うのなら、一緒に山に登られぬか? 戦場がどうなっているのか、その目で見れば諦めも付くだろう」
そう言い捨てると恵瓊の返事も待たず、彼はそそくさとその場を後にした。勝者の余裕である……恐らくは。あるいは恵瓊が恐くて逃げ出したのかもしれないが。
「…………」
しばらく恵瓊は押し黙ったまま立ち尽くしていたが、やがて広家の後を追い始めた。
二人は半里ほど歩いて峰の上の物見台に辿り着いた。そこからは戦場が手に取るように見渡せる。南では小早川勢と藤堂勢に挟撃された大谷勢が完全に崩壊し、隣の宇喜多勢、小西勢までも大きく崩れていた。一方北でも大きく陣形を崩した石田勢が黒田勢や細川勢に追い立てられている。当初圧倒的に有利だった陣形は、もはや影も形も無かった。
――確かにもはや手遅れだ。だが、この絶好の物見台から敵味方の布陣を掌握していながら、広家殿は何故徳川の味方をしたのだ……?
恵瓊には理解できなかった。勝てる戦いで負けねばならぬ道理がどこにあると言うのだ。
押し黙る恵瓊の顔に何かを思ったのか、広家が静かに語りかけた。
「恵瓊殿。あなたは肝心なことが見えておられぬ」
「肝心なこと?」
「戦の後のことだ。西軍が勝ったとして、その後どうなる? 秀頼君がご成長されるまで、天下を治める者が誰もおらぬではないか」
「…………」
本来ならここで彼らの主君である輝元の名を上げるべきなのだろう。だが、残念ながら彼はその器ではなかった。西軍の総大将になりながら全部三成に丸投げし、毛利勢の指揮すら養子の秀元に丸投げする始末なのだ。そして自分は今も安全な大阪城に籠もっている。情けない限りだ。輝元では三成達奉行派と福島らの武断派の対立を収めることが出来ない。もちろん、三成はもっともっと全然到底最悪に駄目なんだけど。
「今天下を治められるのは徳川内府だけだ。違うか?」
「……そうやも、しれぬ。だが家康が勝てば、今度は家康と秀頼様の戦になるぞ。その時はどうするつもりだ?」
「その時は、秀頼様をお助けする」
恵瓊は広家の瞳をじっと見つめた。
「……本心か?」
広家も恵瓊をじっと見つめ返した。
「本心だ」
広家の覚悟の程を感じ、恵瓊は静かに目を閉じた。
「……分かり申した」
「おお、分かって下されたか!」
「恐らく拙僧はその日まで生きておれますまい。後のことは広家殿にお任せしますぞ」
「確と! 確と承りました!」
広家は恵瓊の手を握りしめ、二人は涙を流し合った。実に感動的な光景である。
「あのー、何か大変なことになっていますけど……」
狭い物見台で、居心地悪そうに戦場を見ていた物見がおずおずと声をかけた。
「見るな! 男の泣き顔など見るものではない!」
「なんの、広家殿。この涙は美しい涙です。見られて恥ずかしいものではありませんぞ!」
二人はすっかり別の世界に入り込んでいたが、物見の方も黙っている訳にはいかない事情があった。
「とにかくあれを見てください! 島津勢が徳川本陣を蹂躙しています!」
「「……え?」」
二人は慌てて涙を拭うと徳川本陣に目を向けた。遠くて良く分からないが、誰かが金ピカの布を掲げ勝ち鬨を上げている。
「あの派手な布は、ひょっとして……」
「……家康の、陣羽織では?」
元々はとかく派手好きだった秀吉の物である。逆に言うとド吝……もとい、質実剛健な家康の趣味では全然ない。つまり例の陣羽織以外に金ピカの布が家康の陣に転がっているとは思えないのだ。というか、陣羽織以外の布を掲げる意味が無い。そして何より、家康が無事ならあんな狼藉を許す訳がない。と、いうことは……?
「…………」
真っ青な顔でブルブル震えだした広家を見て、恵瓊はちょっと心配になった。
「……えーと、広家殿?」
だが広家はくるりと振り向くと物見に怒鳴った。
「兵に伝えよ! 今すぐ山を下り、徳川本陣まで攻め込むぞ!」
「「はっ!」」
広家の豹変振りに恵瓊は目を丸くした。
「ちょ、広家殿っ!?」
「家康が死んだのなら東軍に付く必要は無い。ふふふふっ、大老筆頭は毛利のもんじゃーい!」
広家は奇声を上げながら物見台から飛び降りると、転がるように自分の陣へと駆け戻っていった。残されたのはただただ呆然とする恵瓊一人である。
「……ま、いっか」
斯くして毛利勢(とおまけの長束勢と長宗我部勢)は鬼気迫る勢いで山を駆け下った。そしてその先頭には、鬼のような形相の吉川広家の姿があったという。
「徳川なんぞ、なんぼのもんじゃー!」
佐助の話を聞いた三成は憤慨していた。
「まさか吉川殿が……! 何てヤツだ! 何てヤツだ!」
まるで安国寺恵瓊の怨念が乗り移ったかのような有様である。まあ、恵瓊は死んでないんだけど。
「宰相殿が空弁当(注1)を食らってるのだと思ってたが、よもや吉川殿が唐揚げ弁当を食べていようとは……!」
疑われた秀元は良い迷惑である。
「しかし吉川様がずーっと押し止めていたからこそ、毛利勢は最高の結果を得られたのですよ」
意外な言葉に三成は眉根を寄せた。
「……どこが最高だって?」
「あの頃合いだったからこそ、毛利は島津の手柄を横取りできたのです。何しろ島津勢は1人残らず全滅しましたからな」
「それ、毛利にとって最高なだけだろっ!」
三成は島津に対しても言いたいことが山ほどあったが、さすがにもう何も言う気になれなかった。絶望的な状況で奮戦し戦の流れを逆転して見せたというのに、自分たちは1人残らず戦場の露と消えてしまったのだ。しかもあれだけの活躍をしたというのに、名のある武将は1人も討ち取ることが出来なかった。まあ、豊久本人は家康を討ち取ったつもりで満足して死ねたかもしれないが。
「しかし毛利全体が裏切っていた訳でないのなら、吉川殿はどんな仕置きを受けたのだ?」
「特には何も。小早川中納言様は小言を言われてましたけど」
三成は佐助の言葉の意味がとっさに理解できず、数回瞬いた。
「なっ……こ、小早川はまた寝返ったのか!?」
あんなにはっきり寝返ったくせに、なんであっさり毛利の配下に戻っているのだろうか!
「しかも何故罰せぬ!? 刑部も左近もあいつのせいで死んだのだぞ!」
「とはいえ、毛利の分家筋の当主です。処断するには輝元様の御裁定を仰がねばならんのでしょう。その一方では秀頼様の従兄弟でもあります。こちらは叔母に当たる高台院様の許可が必要でしょう」
「ぐぬぬぬ……!」
高台院は甥を庇うだろうし、大阪にいて危機感の薄い輝元はそれを受け容れるだろう。それに同じ裏切り者である福島、加藤らに帰参を呼びかけるためにも、あまり重い罰は与えられない。三成にはそれが理解できた。そして納得も出来てしまった。
ふと空を見上げるといつの間にか雲の合間から月が顔を覗かせていた。満月には僅かに足りぬ栗名月だ。やはり夜空には月こそが相応しい。月の光に融けるように三成の心から怒りが消えていった。彼はフッと自嘲を漏らした。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。きっと頭が回りすぎ、理性で怒りを押し殺してしまえるところが凡人に嫌われる理由なのだろうな……」
「(そうやって他人をバカにしてるところが嫌われる理由だと思いますが……)」
声なき声を聞いたような気がして、三成は佐助を睨んだ。
「……何か言ったか?」
「いえいえ、滅相もございませぬ」
注1 三成は毛利秀元に再三にわたって出陣を促したものの、軍監であった吉川広家が「弁当を食ってる」と言って追い返したそうです。
この逸話が「宰相殿の空弁当」(略して「空弁」)という名で世に広まりました。宰相殿=秀元です。ああ、なんという風評被害!
確かに部下の不始末は上司の責任でもありますが、だったら輝元に責任を取って欲しいものです。スケープゴートになった中間管理職の悲哀を感じさせますね。
ちなみに空港で売ってる弁当を「空弁」と呼びますが、(たぶん)広家とは関係ありません。
あと唐揚げが(文字通り中国から)伝わったのは、本当は江戸時代になってからです。