豊久の誤算
島津勢にとってこの戦いは何とも気の進まぬものだった。
そもそも彼らには秀吉に恩を受けたという思いがない。確かに秀吉は薩摩領を安堵してくれたが、島津は鎌倉幕府開闢以前からずーーーっと薩摩を支配してきたのだ。彼らが薩摩を支配するのは、日が東から昇るのと同じくらい当然のことである。
だから今回の争いでも東西どちらについても良かったのだが、何となく三成が気にくわないので家康に味方することになった。しかし頼まれたとおり伏見城に行ってみたら、鳥居某とかいう爺が「そんなこと聞いてない。さっさと帰れ!」とか言うので、思わず攻め殺してしまった。
それで仕方無く西軍に味方することになったのだが、西軍諸将は思惑がバラバラで信用できず、弱兵揃いでアテにも出来なかった。その上に三成だ。成り上がりで14万石ぽっちの小大名で天下無双の戦下手の治部少輔如きが、鎌倉幕府開闢以来の名門で薩摩70万石の大大名で九州を制圧しかけた戦上手の島津参議左近衛権少将義弘に対し、「攻め掛かれ!」と指図してきたのだ。しかもその使者は義弘の前で馬から下りようともしなかった。片腹痛いとはこのことである!
だから彼らは動かなかった。「お、今がまさに攻め時ぞ!」と思っても動かなかった。時々攻めてくる敵を完膚なきまでに痛めつけたが、撤退したら追わなかった。三成が何度も「攻め掛かれ!」と命じてくるからだ。自分で判断して動いたとしても、まるで三成の命令に従ったかのように見えてしまう。彼らは戦に負けることより、そっちの方が気に食わなかった。
そして何時しか昼下がり、ふと気付けばいつの間にか横も後ろも敵だらけになっていた。不思議なことに正面だけが無人であった。
「伯父御、どうやら我らは負けたようじゃ」
敵のまっただ中に孤立してしまったというのに、島津中務大輔豊久の声はどこか楽しげだった。
「お主は三十路になっても子供のままじゃの」
だがそう言った義弘も、そんな甥を窘める気が無かった。
「良いか、豊臣方が負けたのであって我ら島津は負けておらぬ」
「ほっ! 確かにそうじゃ!」
二人はニヤリと笑い合った。
「さて豊久よ、これからどうする? 追撃する敵を更に後ろから追うか、それとも一気に家康の首を狙うか」
「敵の本陣を突いたとして……毛利は動くかの?」
毛利は家康本陣の後方、南宮山の上に大軍を擁している。島津勢と呼吸を合わせることが出来れば、今から逆転することも不可能ではない。
「あー、無駄じゃ。輝元よりはマシだと思うとったが、秀元もボンクラじゃ。儂があの位置におったら、日が昇りきらぬうちに家康の首は塩漬けになっておったろうに」
義弘の言葉に豊久も頷いた。毛利勢の数と布陣をもってすれば、幾らでも有利な状況を作れたはずだ。だが毛利秀元は動かなかった。義理の父同様にボンクラなのだろう。
「毛利が動かねば家康の首を獲るのは無理じゃ」
「ほう、豊久にしては謙虚じゃの」
「さすがのオイも、馬を降りて首を切り落とす余裕は無か」
どうやら豊久は、殺すだけなら出来ると思っているらしい。大変謙虚なことである。
「……ま、まあ、それなら、伊勢街道を南に向かうのはどうじゃ? どのみち薩摩に帰るには船を整えねばならぬ」
だがその伊勢街道の入り口は敵の向こう側にあった。敵中突破して単独で撤退するというのは、豊久に負けず劣らず大胆不敵な考えである。しかし義弘は猪武者という訳ではなかった。
既に近江に続く中山道は逃げる西軍と追う東軍で大混雑しているだろう。今更後に続いても思うようには進めまいし、前後から挟み撃ちにもなるだろう。かといって街道を捨てて山中に逃げ込んでも、土地勘が全くない島津勢が薩摩まで帰れる見込みはほとんど無かった。伊勢街道を抜けることだけが唯一の活路だったのである。
「さすがは伯父御、そいは良か考えじゃ!」
斯くして島津勢は撤退するために前に向かって突撃を開始することとなった。
佐助の話を聞くうちに、三成はいつしか……拗ねていた。
「私が戦えと言った時には戦わなかったのに……」
「まあまあ、田舎者が意地を張るのは良くあることです」
そう言う佐助こそ完全無欠の田舎者である。
「それより、またそなたの想像なのだろう? 私を目の前にして言いたい放題だなっ!」
しかし佐助は顔色一つ変えず飄々と答えた。
「いえ、この時はホントに島津の陣に紛れ込んでました。治部少輔様の悪口でむっちゃ盛り上がってましたけど、詳しく聞きたいですか?」
「……いや、いい」
三成は何故か落ち込んでしまった。
島津勢の突撃は徳川方の誰1人として予想出来ないことだった……が、折悪く本陣の守りから解放された三河衆がその進路上にいた。小早川勢と大谷勢の攻防を切所と見て、そこに横合いから襲いかかろうとしていたのだ。お互いに予期せぬ相手と予期せぬ場所でぶつかることになったが、双方とも戦意だけは不足していなかった。
「島津を逃がすな! 全て討ち取って我らの手柄にしてくれようぞ!」
「相手は音に聞こえた薩摩兵だ! 侮るなよ!」
世に強兵の産地といえば越後と甲斐、そして薩摩だ。しかし三河兵の強さも名高い。姉川で信長を救ったのも、小牧長久手の戦いであの秀吉を破ったのも三河兵である。そして井伊直政も本田忠勝もその頃から家康の腹心として戦場にあった。
「むう、いかん。よもや策を読まれようとは」
「なんの、薩摩の兵に比べればどうということはなか!」
義弘は動揺を隠せなかったが、豊久は強敵と戦えてむしろ嬉しそうだ。
「そんなに戦いたいなら殿軍を任せる。儂が何とか穴を開けて走り抜けるから、一番後ろから付いて来い」
殿軍と言えば最も過酷な役割である。豊久といえども無事では済まないだろう。だがその前に、数に倍する強敵を突破することの方が無茶であった。恐らく義弘は、死ぬ。
「ダメじゃ! オイが突っ込む!」
「それで儂が殿軍か?」
「…………」
豊久は口ごもった。この絶望的な状況では、先鋒にも殿軍にも兵の士気を鼓舞できる猛将が必要だった。このままでは二人とも死ぬことになるだろう。
――こいも全て……三成のせいじゃ!
豊久は憤懣やる方なかったが、どうせ今頃三成は死んでるだろうから殺すことも出来ない。だが、ふと思った。三成に比べれば全然大したことないけれど、その次に憎い……というか気にくわない家康はまだ生きている。しかも彼を守るべき精鋭は目の前に居て、本陣の守りは半減しているのだ!
「伯父御、頸は取れんが殺すだけなら何とかなりそうじゃ」
「……何の話だ?」
「家康じゃ! オイが家康を狙えば奴らも本陣に戻る! 伯父御はその隙に伊勢に向かうんじゃ!」
「待て、豊久! それではお前が……!」
「家康を殺したらすぐに後を追うやっで、そしたら殿軍じゃ」
殿軍を務めるということは十中八九死ぬということだ。しかも成功するとは限らない。だったら確実に死ぬとはいえ、家康の命を狙う方が成算も高く誉れも高い。仮に成功しなくても陽動の効果は抜群である。義弘が脱出できる可能性は跳ね上がる。
「……分かった」
義弘は唇を噛みしめて頷いた。当主である彼は可能性がある限り生き続けねばならない。敵に頸を渡すわけにはいかないのだ。豊久はニカッと笑うと兵達に向けて怒鳴った。
「家康の首を挙げるぞ! 我と思わん者は付いて来い!」
「「「オオォォォ!」」」
もちろん徳川方にも聞こえている。聞かせている。彼はむしろ敵にこそ「付いて来い!」と叫んだのだ。
猛然と突き進む豊久に対して、徳川本陣はあっけないほど簡単に崩れた。伊勢街道を塞いだ精鋭に対し、本陣のなんと脆弱なことか!
――これは関東の兵か?
坂東武者と言えばかつては精強な兵の代名詞だったが、豊久の知る坂東武者とは北条の腰抜け侍だけである。奴らは朝鮮にも来なかった。彼はさして疑問も感じぬまま敵を蹴散らし、陣幕を引き裂き、やがて行き着いた最奥で床几に腰掛けた老人を見つけた。
「徳川内府かっ!?」
「…………」
老人は何故かにこにこしたままコクリと頷いた。実に泰然自若としたものである。豊久もその風格に感じ入り、馬上のまま一旦槍を引いた。
「言い残すことはあるか?」
「あー……」
家康は何か言いかけたが、慌てて手で口を塞ぐとブンブンと首を振った。何だか良く分からないが、敵に言葉を遺すのは潔くないと思ったのだろう。天晴れである。
「では」
槍でぐさりと喉笛を貫くと家康は倒れた。あっさりとしたものだ。豊久はそのまま槍先で器用に陣羽織を引き裂き、絡め取ると、それをぐいと天にかざした。錦の陣羽織は白髪頸より良く目立った。
「島津中務大輔豊久、徳川内府家康を、討ち取ったりぃー!」
「「「オオオオォォーーー!」」」
薩摩兵の勝ち鬨が天に轟いた。味方が総崩れする中でのまさかの大逆転である。何という誉れだろうか! 満足感に浸りながらようやく振り返った豊久は、だが、そこに信じられないものを見た。彼を追っていたはずの三河衆が、今になってようやくこちらに動き出そうとしていたのだ。……義弘の頸を掲げて!
「お、伯父御ぉぉぉ!」
三河衆は影武者の事なんて無視して、半減しちゃった島津勢を一兵残らず殺し尽くしてしまったのである。
思いもかけぬ展開に三成は神妙な様子だった。まあ、単にいじけてるだけかもしれないが。
「何とも皮肉な話だな……。しかし豊久が家康本人だと思っていたのなら、そなたはなぜ影武者だと分かったのだ?」
「後で遺骸を確認したところ、髷がカツラだったのです」
「……え?」
「忍びは坊主に化けることも多いので、頭を丸めてカツラを被っている者も多いのです」
知られざる忍びの裏事情である。豊久があくまで家康の頸を切り落とそうとしていたら鬘に気付いたかもしれない。これもまた皮肉な事であった。
「へえ、そうなのか。じゃあそなたも……?」
何気なく三成が手を伸ばすと、やにわに佐助は頭を抱えて大きく飛び退った。突然のことに三成はビックリである。でも佐助の方もビックリしていた。
「な、なななな、何を急にっ!?」
「……え?」
呆然とした三成の顔を見て佐助はハッと我に返った。
「いえ、その……私は地毛です」
「…………」
「地毛ですっ!」
「……わ、分かった」
三成が手を下ろすと佐助も戻ってきた。だが頭を押さえたまま警戒していて、なんだか気まずい空気である。
「えーと、その……そうだ、討たれたのが影武者だったのなら、何で我らが勝ったことになるのだ? 徳川方の諸将はそれが影武者だと知ってたんだから、誤解して潰走したりもしなかったんだろう?」
「まあ、知らせていたというのも想像に過ぎないのですが」
「……そうだったな」
佐助が見てきたように話すものだから、ついつい全てを本当のことのように思ってしまうのだ。
「しかし徳川方が家康の安全より島津義弘を斃すことを優先したところを見ると、やはり影武者だと知っていたのでしょう。徳川本陣の抵抗が弱かったのも、『こんな勝ち戦の中で、俺だけが影武者を守るために死ねるか!』という気持ちがあったのでしょうし」
「あー、なるほど……」
主君が天下の主になろうとしているのに、何の功績にもならないことで死にたい者など1人もいない。影武者を守って死んでも大して恩賞は出ないが、とりあえず生き残っていれば未来は明るいのだ。大いなる矛盾! 命をかける理由が全く無かった。
「ですから、陣羽織を見て慌てたのは徳川方ではありませんでした」
「はて、それでは誰なのだ?」
「討ち取られたのが影武者だとは知らず、しかし自由に動ける位置にいた者たち……つまり、毛利勢です」