家康の焦躁
正午を過ぎた頃から徳川本陣には重く沈鬱な空気が漂っていた。勝てるはずの戦いがなかなか勝てない。敵を裏切ると言ってた小早川中納言が、なかなか裏切らないのだ。敵との約束を破って味方を裏切らないとは、何と信用出来ない奴だろう!
誰もが「もしやこちらが裏切られたのではないか?」と不安を隠せないでいると、そこに物見が勢い良く駆け込んできた。
「小早川勢が山を下り始めました!」
その第一声に歴戦の古強者たちがさっと顔を強ばらせた。落ち着いていたのは総大将たる徳川内府家康ただ1人である。
――面白いものだ。三方原以来最大の窮地にあって、このワシの命を握るのがあの尻の青い小僧だとは。
三方原の時は彼の方が小僧だった。彼は信玄の恐ろしさに糞まで漏らしたが、おかげで今は落ち着いていられる。まあ、単に落ち着いているだけであって、窮地なのは一向に変わらないのだけど。
「それで、どちらに向かっておる?」
「はっ、北に……大谷勢に向かって下っております!」
家臣達は「おおっ」とどよめき、一斉に喜色を表した。
「殿、これで勝ちましたぞ!」
「案外あっけなかったですなぁ!」
しかし、家康は溜め息を吐いた。安堵が半分、がっかりが半分。純朴で裏表が無いのは三河人の美徳でもあるが、天下を望む彼には物足りなかった。何故彼らには今の困った状況が分からないのだろうか。
――何を悠長なことを! このままでは小早川の小倅が功一等になってしまうではないか!
小早川とは名ばかり、秀秋はもともと秀吉の甥だ。正確には正室である高台院の甥だが、子供の頃から親族として育ったことに変わりはない。恩賞として小早川に所領を与えると言うことは、将来の敵を肥えさせるに等しいのだ。他にも朝から前線で戦っている外様大名達――福島も加藤も黒田も、全て豊臣子飼いの者達ばかりではないか。そんな外様大名達に頼らざるを得ないのが、家康の苦しい立場だった。
――それもこれも、秀忠がのんびりしているからいかんのだ!
もともと家康は十分な戦力を用意していた。外様は敵にさえしなければ良いはずだったのだ。それが外様の戦力をあてにせざるを得なくなったのは、秀忠が率いる徳川勢本隊が到着しなかったからである。しかも途中で攻略するはずだった上田城も落とせなかったという。何という体たらくだ!
今回の戦いは「家康か、三成か」という選択だったから多くの外様大名を味方にすることが出来たが、来たるべき次の戦いでは「家康か、秀頼か」と問うことになるだろう。その時小早川が、福島が、加藤が、そして黒田が、果たして家康を選ぶだろうか? まあそれでも「秀忠か、秀頼か」と聞くよりマシだろうが。
――せめて今からでも、一つでも多くの首を狩らねば……
家康は手にしていた扇を畳むと、パンッと勢いよく膝の上に打ち付けた。
「本陣を前に進める!」
「はっ」
前線が移動するのに合わせて本陣を動かすことは珍しいことではない。だが、続く言葉は慎重な家康らしくなかった。
「忠吉、直正、忠勝。その方らは三河衆を率いて敵を追え。一兵でも多く敵を仕留めよ!」
井伊直政、本多忠勝は徳川三傑に数えられる重臣中の重臣だ。もう1人の榊原康政は秀忠と一緒に絶賛大遅刻中なので、何とかこの2人に手柄を上げさせたい。一方松平忠吉は秀忠の同腹の弟である。秀忠は榊原康政と一緒に超絶大遅刻中なので、何とか血のつながりが濃いこの弟に手柄を立てさせたかった。
「おお、待っておりましたぞ!」
単純な忠勝は大いに張り切ったが、直正は心配げに眉を寄せた。
「しかし……それでは本陣の守りがおろそかになります」
「なに、大丈夫だ、すでに趨勢は決しておる。それに……」
言いながら家康が床几から立ち上がると、陣幕の外から見慣れぬ小太りの老人が入って来て代わりに腰を下ろした。戸惑う諸将の前で彼が顔をひと撫ですると、その顔は好好爺然とした家康そっくりの顔になった。影武者である。
「おお、そっくりだ!」
「我らでも間違えかねぬぞ!」
影武者は自慢げに胸を張って宣った。
「今から余が徳川内府家康である」
「「「…………」」」
……声は全然似てなかった。間違える心配は無さそうだ。
「えっと、コレで大丈夫なんですか?」
家康は頷きながらも、調子に乗った家康(偽)をポカリと殴った。
「万が一の備えだ。万が一の時も喋らなければバレない」
「しかし万が一の万が一の時にはどうされます」
「では万が一の万が一の時のために、儂は身をやつして本陣から離れておこう」
「然れど万が一の万が一の万が一の時には……」
「いーから、さっさと行け!」
家康が怒鳴りつけると、三河衆はガヤガヤ騒ぎながら出て行った。
「おっと、儂も準備をせねば」
家康は陣羽織を脱ぐと、小姓に手渡そうとしてふと手を止めた。
「……もう、この陣羽織も不要じゃな」
そう言って彼はその陣羽織を影武者に着せた。それはかつて秀吉に臣従を誓った時、「秀吉のため、秀吉の代わりに采配を振るう」と言って賜った物だった。
臨場感溢れる佐助の話に、いつしか三成も引き込まれていた。
「まるで見てきたように話すものだな。ひょっとして本当に聞いた通りに話しているのか?」
「まさか! もし聞いたとおりに話していたら、きっと治部少輔様は何も理解でぬでしょう」
まるで「お前はバカだからかみ砕いて話してやった」ともとれる言葉に、三成は少しカチンときた。
「……どういう意味だ?」
「それはもちろん……三河弁です」
「…………」
確かに家康の家臣団は驚くほど訛っている。秀吉に仕えていた三成は尾張弁には慣れていたが、三河弁は理解できない。というか、とても尾張の隣国だとは信じられない訛りの酷さだ。三河衆が幅を利かせる家康の本陣で、三成が理解できる言葉が使われているとはとても思えなかった。
「ま、まあ、訛りについては適当に置き換えてくれて構わないが、それより問題は内容だ。お前はなぜ彼らの会話の内容を知っているのだ。家康の本陣にまで忍び込んでいたのか?」
「いえ、この時は違います」
「では、配下の者を忍び込ませていたのか?」
「いえ、ただの想像です」
「想像かよっ!」
三成は思わず怒鳴ったが、佐助は悪びれなかった。
「ですが十分な根拠があります。実際に家康は本陣を前に進め、さらにその半分を追撃に向かわせました。そして本人は影武者と入れ替わって本陣を離れたのです」
「……影武者だったと何故分かるのだ?」
「それはもちろん討ち取ったからですよ、島津が」
「えっ……島津がっ!?」
三成は目を剥いて驚いた。彼が何度も何度も何度も催促したにも関わらず、結局島津勢は一向に戦おうとしなかったからである。
史実では、井伊直政や松平忠吉は朝から戦っています。
先陣と決まっていた福島正則を出し抜いて、先に火蓋を切ったという説もありますね。
でも本田忠勝は午前中は毛利対策でうろうろしてるだけだったそうです。