前編
そいつらが栗目村へやってきたのは、冬の訪れも近い十一月の頃のことだった。
最初にそれを目撃したのは、村の外れに住む吾一という男だった。彼によれば、そいつは異様に細長く先端の尖った黒い帽子を目深に被っていて、畑仕事に精を出していた吾一の前を影のように通り過ぎていったという。
何せ狭い村のことだから、妙な格好をした得体の知れないものが村に入り込んできた、という噂は瞬く間に広がっていった。迷信深い老人などは、あれは山に棲む物の怪の類だ、災いを運んできたのだ、などと吹聴して回っていた。
吾一が男を目撃してから数日後、太助が村の外の学校から帰ってくると、すぐさま日がな時間を持て余している老人共がわっと集まって来た。
「太ちゃん、聞いたかい。例の黒帽の男。村長と話つけて、向こう山の空き家に住むことになったんだと」
そう言ったのは、前歯がところどころ抜け落ちて虫の食ったようになっている高見の家の婆さんだった。太助自身、この田舎の山村に突如現れた黒帽の男に多少は興味をのようなものを抱いてはいたが、男の行動を逐一監視して彼に報告してくる老人たちの厚かましさには正直なところ辟易していた。
それでも愛想をもって相槌をうってみせる。
「俺ぁてっきり口が聞けないのとでも思ってたから、驚いたあよ」
頭の禿げ上がった鈴内の爺さんが声を張り上げて言う。この爺は頑固で意地っぱりな上に、いつも怒鳴るような大声でまくしたてるように話すものだから、太助の母などはいつも陰でがんくつ爺と呼んでいた。
「早く追い出さんと、祟りが起こるよ」
「そういえば聞いたかね。今日重豊の旦那さんが、あれが集会所の前を歩いてるのを見たんだと」
「ほんとかい」
「それが……」
いつの間にか老人たちは、太助を蚊帳の外に置いて談話に耽り始めた。太助はこれ幸いにと、小走りにその場から逃げ出していった。
黒々とした山の稜線に、赤い夕陽が沈みゆこうとしていた。
家も、畑も、その間を縫う畦道もつかの間真っ赤に染まり、やがて太陽が完全に沈むと共に薄い闇の中にその身を横たえてゆく。
太助は夕焼けが嫌いだった。血のような赤で塗りたくられた村は、まるでいつもの村ではない別のどこかであるかのようで、得体の知れない心細さに襲われるのだ。
太助は早足に家へと向かっていた。稲穂の海を分つ畦道を駆け、用水路にかかる小さな橋の袂へと急いだ。
夕日を見ないようにと頭を垂れて走っていたから、太助は橋の上に佇む男の姿に全く気付かなかった。
男の姿は影のように真っ黒で、その輪郭を縁どるようにして逆光が滲んでいた。
太助は心臓がどくんと跳ねあがるのを感じて、足を止めた。三角の黒帽子に、袖の長い異国風の衣。男は橋の縁に立って、村を眺め回しているようだった。
「こ、こんばんは」
太助は学生服の裾を握り締め、喉の奥から擦れた声を絞り出した。
男は袖を風にたなびかせて、ゆっくりと振り向く。顔は影に隠れてほとんど見えなかった。
「君はこの村の子ですか?」
男は言った。太助ははやる思いを必死に心の中に押し込みながら答えた。
「はい」
男はそうか、と頷くと、そさくさと太助が来た方へと去っていった。
太助は息をするのも忘れて、体を揺らしながら歩いて行く男の後ろ姿にまんじりともせずに見入っていた。後から気付いたことだが、男の衣は白色だった。
次の日、栗目村にはまたしても憶測と噂の嵐が吹き荒れることになった。
「二人いたよ!」
高見の婆さんが、登校中村道を歩いていた太助を待ち構えていたようにつかまえて言った。太助が言葉を挟む暇もなく、畳み掛けるようにして言葉を浴びせてくる。
「あたしゃ見たんだ。空き家を見張ってたら、黒帽の男が二人連れだって出てきたんだよ。いつの間に村に入り込んだのか知らないけど、ありゃ何かきっと企んでるに違いねえね」
太助はしばしぎょっとして、空き家のある浦賀山の方を振り返った。ここからは空き家は見えないけれど、太助には、まるで山自体が黒帽の男に乗っ取られてしまったように感じられた。
「太ちゃんも気をつけないと駄目ね。あたしが子供の頃にも浮浪者が一人入り込んできたことがあってね、その時は……」
また際限ないお喋りが始まりそうだったので、太助は適当に理由をつけて逃げ出した。
学校についてからも、太助の頭の中は黒帽の男のことでいっぱいだった。授業の時など、先生に指されていたことに気付かなかったほどだ。
実際太助はその一日中常に男の影につきまとわれているようで、何となく気分が落ち着かなかった。踊り場の向こうや廊下の突き当たりにも男がいるような気がして、暗いところに足を踏み入れるのさえ怖かった。
一週間ほど過ぎると、黒帽の男は四人になっていた。
老人たちによれば彼らは何か仕事をするでもなく、日がなぼろぼろの空き家に籠っているようで、村人も段々と彼らに対する興味を失い始めていた。
つまりは、彼らは栗目村に定着したのだ。村八分を受けるわけでもなく、何か村に危害を加えるわけでもなく、彼らはただそこにい続けた。
様相が変わってきたのは、さらにそれから数日後のことだった。一人の村人が彼らの元を訪れ、食うものがなくては大変でしょうと米を置いていったのだ。彼らは礼を言って米を受け取った。
村は、男たちを同じ村人として認める方向に動き出したようだった。原因のひとつとして、男たちが非常に礼儀正しく、紳士的な言葉遣いをすることがあった。彼らは愛想をかかさず、すぐに相手と打ち解けるすべを心得ていたのだ。
男たちに貼られた得体の知れないものという札は取り下げられ、次第に村人たちは彼らに友好的に接するようになった。
太助はといえば、そんな村人たちの様子に少なからず危機感を抱いていた。今や、あんなに男たちの悪口を並べ立てていた老人たちでさえ親しげに彼らと話しているのだ。そういった会話によって、彼らについての情報も出回ってきていた。
彼らは西からやって来たらしく、この村にある信仰を根付かせたいのだという。
絶対神「あらぬい」を主な信仰の対象としたその宗教は、多くの部分を遥か西欧からやって来たキリスト教や日本古来の神道から拝借しており、全く継ぎ接ぎというに等しい代物だった。
それでも、未だ宗教などには触れたこともない山村の人々には、それが輝かしく崇高なものとして映ったのである。
彼らの記した書「創世伝記」によれば、はじめにこの地上にのちのあらぬいの父親である神「あらむ」と同じく母親の「えむ」が誕生し、二人によって世界の枠が形作られたのだという。次に二人はあらぬいと弟の「かむる」を産み、その後あらむは空に、えむは大地になった。
あらぬいは土地を耕し、畑作をして勤勉に働いたが、かむるは働きもせずに日々を怠惰に過ごしていた。かむるはあらぬいの人柄に嫉妬し、彼を陥れて無実の罪で裁判にかけ、磔にしてしまう。あらぬいがいなくなり世界は荒廃してしまったが、彼が自分は神の子であることを悟り復活すると、再び豊穣にその身を包まれたのだという。
黒帽の男たちはこの神話と祝詞を栗目村の人々に説いて回った。人々が信仰に目覚めるのに長い時間はかからず、いつの間にか山の麓の空き家は立派な教会へと建て替えられていた。




