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女子高生ときどき超能力者(1)  作者: 小田 聡
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 細く開けた窓から吹き込む五月の風が私の頬をそっと撫でた。それはまるで、何が書いてあるのかよく分からない黒板とくだらない話しかしない教師の話から私の関心を外へ向けるように(いざな)っているようだった。

 頬杖を突きながら視線を窓の外に向けた。誰もいないグラウンド、林立する住宅とその近くにある申し訳程度の雑木林、さらに向こうには国道と左右に行き交う自動車。どれもみんな見飽きた風景だった。

 私の視界の上半分を占める空は見事なまでの青色で塗り固められていた。

 あ。

 その真っ平らな空を見て、今日は雲一つない良い天気だと言うことにその時初めて気付いた。

「おい、白岡」

 教壇に立つ赤羽が講義を中断して私の名前を呼んだ。

「外にUFOでも飛んでるのか?」

 赤羽の皮肉にクラスメートから失笑が漏れた。私はハッとなって顔を黒板の方に向き直した。

「この辺の問題は今度の中間テストで必ず出るから、ちゃんと覚えておくんだぞ。テストを作る俺が言ってるんだから間違いない」

 赤羽の言葉に慌ててみんなが教科書にラインマーカーを引き始めた。右斜め前に座る蓮田紀子も一筆書きで大きな☆マークを書いていた。

 とりあえずノートに板書だけしておいた。書き終わってから改めてノートを眺めてみたものの、どうやったらこの計算式が変化して正解へと導かれるのか全く理解できなかった。テストに出ると分かっていても、答え方が分からなければ知らないのと一緒だった。

 黒板の方に向き直り、赤羽の授業に耳を傾けて間もなく、私の瞼は重力に抗うことなく次第に閉じていった。視界はみるみる狭まっていき、赤羽の声が子守歌のように心地良く響いた。それでも一応ささやかな抵抗を試みるも、周囲はブラックアウトし、ほどなく静寂の世界に包まれた。そこから終業のチャイムが鳴るまで、現実世界に生還することはなかった。

「赤羽ってさ、どうも好きになれないよね」

 昼休み、紀子がお弁当箱の隅っこの卵焼きにフォークを突き刺しながら言った。

「そう? ちょっと口うるさいところはあるけど、生徒思いの良い先生だと思うよ」

 ミエは野菜サンドを頬張るとパックの牛乳で流し込んだ。

「好きこそものの上手なれ、だよね!」

 素子の言葉は多分、数学の点数を上げたいなら赤羽のことを好きになれ、と言っているのだろうが、時々発する彼女の意味不明な言い回しには解釈に苦しむことがある。

 購買で買ってきたチョココルネのチョコクリームをスプーンで掻き出しながら食べている素子を見て、紀子がツッコミを入れた。

「あんた、いつも変な食べ方してるよね」

「だってこうしないとチョコが漏れてきちゃうんだもん~」

「それって、頭の方から食べるからでしょ!」

「そういえばこれってどっちが頭なんだろう?」

「頭って言ったら、こっちの先っぽの方じゃないの」

 チョココルネの太い方と細い方のどちらが頭なのかという論争を繰り広げている素子と同じクラスのミエが尋ねた。

「あれっ? モコ、今日はお弁当だったんじゃなかったっけ?」

「お腹が空いちゃったから二時間目の休み時間に食べちゃった」

「そんなに食べても太らないあんたが羨ましいわ……」

 私達四人は窓際に机を並べて外を向きながら昼食を取るのが日課になっていた。他愛のない話をしながらノンビリと過ごすこの時が学校にいる中で一番好きだった。

 私は三人の会話をBGMに、登校前にコンビニで買ったおにぎりを頬張った。

「あ、そうそう。みんなにお願いしたいことがあるんだ」

 思い出したように紀子が声を掛けた。

「今度の土曜日なんだけどさ」

 そう切り出した紀子の顔色が急に冴えなくなったのを見て、あまり良い話ではないのだと直感した。


「起きて」

 私は二の腕の辺りを誰かに小突かれて、ふと目を開けた。どうやら電車の中でいつの間にか寝ていたらしい。

「そろそろ着くわよ」

 寝ぼけ眼で首を傾けると、ちょっとだけ表情を強張らせたミエの横顔が見えた。車内アナウンスが流れてしばらくすると電車は少しずつ減速していった。どうやら目的の駅に到着したらしい。

 駅名を耳にして、ようやく電車に乗っている理由と私達に課せられた今日一日のミッションを思い出した。

「紀子ちゃんの貞操を守るんだからね!」

 素子が力強く言った。周囲の乗客が一瞬ギョッとした顔でこちらを見た。

「いくら何でもそれほど大袈裟じゃないよ」

「ううん。こういう心配はいくらしてもし足りないくらいだよ! あたし、紀子ちゃんにもしものことがあったら、すっ飛んでって、ボッコボコにしちゃうんだからっ!」

 いつになくエキサイトしている素子に私とミエは顔を見合わせて苦笑いした。

 電車を降りた瞬間から三人はその異様な雰囲気を感じ取っていた。と言うよりも、感じずにはいられなかった。

 ホームの壁に当たり前のように飾られているアニメ絵のポスターはどうやら近日封切り予定の劇場版長編アニメらしいが、見たことも聞いたこともないタイトルだった。実際にこんなデザインだったら恥ずかしくて街を歩けないだろうな、と思うような学生服を着た男性主人公の周りにカラフルで特徴的なヘアスタイルの女の子が群がっている絵柄だった。そしてなぜかどの女の子も異常なくらい胸が大きかった。

 左右の壁に貼られたポスターからアニメキャラの熱い視線を浴びながらエスカレータを降り、コンコースの床に描かれた巨大な女の子の笑顔に出迎えられながら改札を出ると、柱に備え付けられた液晶モニタからはアニメ雑誌やら新作DVDの広告やらが次々と流れていた。

 駅前に出ると、どの建物を見てもアニメかアイドルの広告ばかりだった。

 アキバ初心者の私達はそれらをまじまじと見上げながら、まるでイベント会場のような非日常的な光景にすでに圧倒されていた。

「わぁー、あの女の子カワイイなぁ!」

 素子がビルの壁面に掲げられた巨大モニタに映るアニメキャラを指差した。

「見て見て! あの人達、みんなオタクなんでしょ 案外フツーだね」

 素子の指はアニメキャラから周囲の通行人に向けられた。

「バカッ!」

 ミエが慌てて素子の口を押さえた。

「ここでそんなこと言うなんて自殺行為よ。アキバ中の人全てを敵に回すようなものだわ!」

 アキバに来ている人達はレベルの大小こそあれオタクを自認しているだろうから逆上するようなことはないとは思うが、あえて彼らを挑発するような行為は慎んだ方が安全であることに間違いはなかった。

「コスプレの人ってどこにいるんだろ?」

「とにかく、ノリちゃんのお店に行くわよ!」

 “ノリちゃん”というのはミエだけが使う紀子のニックネームで、私も素子も紀子のことを“ノリちゃん”とは言わないし、他のクラスメートがそう呼んでいるのを聞いたことがない。ついでに言うと、ミエは私のことを“ゆかりん”と呼び、素子のことは“モコ”と呼んでいる。これらもやっぱりミエだけのオリジナルだ。最初は聞き慣れないニックネームに戸惑ったが、今はもうすっかり慣れてしまった。

「あっちこっちにいろんなメイドカフェがあるんだね~」

 確かに、ゴチャゴチャと立ち並ぶビルのあちらこちらで『カフェ』とか『Cafe』という単語が目に付いた。

「あの『リフレ』って、なんだろうね?」

 アキバの文化に疎い私達には目に入るもの全てが新鮮で強烈なインパクトを放っていた。

「ノリちゃんのお店って、こっちでいいのかな?」

 私達に課せられた最初のミッションは、紀子が書いた地図を頼りに彼女の働く店に辿り着くことだった。良く言えば簡略に、悪く言えば大雑把に書かれた地図ではヒントが少なすぎて、どこに向かえばいいのか、どこで曲がればいいのかがわからなかった。

 早々に彼女が書いた地図を見るのをあきらめ、スマホアプリで検索することに変更した。

 お店の名前を入力するとすぐに目的地までの道順が表示された。

「最初からこっちにすれば良かったわね」

 スマホを見ながら軽やかな足取りで歩くミエの先導で、ほどなく店まで辿り着くことができた。

「なーんだ。案外近いんだね」

 紀子の店についてホッとしたと同時に、あんまり簡単に着いてしまってちょっと拍子抜けした気分だった。

「でもちょっと待って。このお店『2号店』って書いてあるわ」

 ミエの顔が急に曇った。

「ということは1号店もあるってことよね。ノリちゃんはどっちのお店で働いているのかしら?」

 1号店と2号店があるなどという情報は紀子から知らされていなかった。ミエはすぐに紀子に電話したが、彼女は出なかった。

「もうお店に出ちゃったのかしら」

 焦りの色が浮き出る私とミエをよそに素子は紀子が書いた地図を手に歩いていた男性のところへ一人で近付いた。

「あの~スイマセン、ちょっと教えて欲しいんですけどぉ、ここに書いてある『フェアリーテール』ってお店どこにありますかぁ?」

 道を聞かれた男性は屈託のない笑顔を振りまく素子に最初はちょっとびっくりしていたが、すぐにお店の場所を教えてくれたようだった。身振り手振りで教える男性を見つめながら素子は何度も大きく頷き、最後に両手で握手をし、可愛らしく手を振る彼女にその男性は照れくさそうに小さく手を振り返して去っていった。

 意外とメイドの素養があるかもしれないと、軽快にスキップをしながら戻ってくる素子を見て思った。

「ミエちゃ~ん、ゆかりちゃ~ん、わかったよぉ~!」

 こういうときに物怖じしない性格の素子はありがたかった。

「この地図は、1号店の方だって。ここからすぐのところにあるみたい」

 今度は素子が先に立って紀子のお店を目指した。似たような路地を何度か曲がった末、雑居ビルの窓に紀子の地図に書いてあったのと同じ名前を見つけることができた。

 ビルの三階は窓一面がロゴの入った看板で埋め尽くされていて、中を覗き見ることができなかった。

『お帰りなさいませ! 歩き疲れたらココでリフレッシュしてくださいネ!!』

 という手書きのメッセージとウサギのイラストが書かれたボードがビルの入り口にちょこんと立っているだけで、入り口や階段にも特に目立った装飾もなく、ただ細く薄暗い階段が奥に見えるだけだった。メッセージボードがなかったら通り過ぎてしまいそうなくらいにとても地味だった。

 私とミエは三階の窓と足許のメッセージボードと無味乾燥な階段を交互に見つめた。可愛いポップな看板と薄汚れたコンクリートが露出した古びたビルの入り口に、何とも言えない違和感を覚えた。

 私達はビルから離れ、1ブロック先の曲がり角から紀子が出て来るのを待った。

 どのお店もまだ開店時間前で人通りもまばらなため、うら若い女子高生三人が黙ったまま遠くをにらんでいる姿は端から見ると異様な光景に映ったかもしれない。しかしすっかり探偵気取りのミエと素子は小恥ずかしい気持ちなど微塵も見せずにむしろ悦に浸っている様子で任務に就いていた。

 時折人が出入りする以外には特に変化のない入り口を見つめながら、昨日のお昼休みに紀子から依頼されたミッションの詳細を再度思い返してみた。


「今度の土曜日なんだけどさ、ちょっと助けて欲しいんだ」

 お弁当箱をフォークで突いていた紀子は手を止め、いつになく暗い顔で話し始めた。

「何よ、助けてだなんて。何か物騒な事件にでも巻き込まれてるの?」

 普段から強気の紀子がみんなに助けを乞うなんて事は想像もしていなかったので、私は思わず聞き返してしまった。

「物騒ってほどでもないんだけどね。ま、事件と言えば事件になるのかなぁ」

「えーっ、事件って、殺人事件」

「そんなわけないでしょ!」

 いつものようにミエの裏拳ツッコミが素子の肩口に炸裂したところで、紀子は何事もなかったように話を続けた。

「あたしが勤めているバイト先でさ」

「あれ、紀子ってどこでバイトしてるんだっけ?」

「アキバ」

「あ、キバ」

 素子が両手の人差し指を上唇に当てて牙に見立てた。素子のボケが雑すぎたのか、そろそろ彼女のボケに反応するのに疲れたのか、三人とも無反応でその場をスルーした。なかなか話が進まない事態は毎度のことなので誰も気にしてはいなかった。

 紀子がバイトをしているのは知っていたが、まさかアキバのメイドカフェでバイトをしているとは思わなかった。彼女曰く、コンビニやファミレスよりも時給が高くて働き具合に応じて臨時ボーナスや時給アップするという厚遇に惹かれたようだ。それに交通費が全額補助されるというのも些細なことではあるが重要なポイントだったようだ。

 そのお店では、お客は利用額に応じてカードにスタンプを押してもらい、一定のポイントが貯まるとそのポイントに応じた特典が与えられるというサービスを実施していた。五ポイントでメイドさんのイラストコースター、十ポイントで写真入りストラップ、十五ポイントで写メまたはポラロイド撮影、二十ポイントでツーショット撮影、五十ポイントで握手またはハグ(写真撮影OK)、そして百ポイントでお気に入りのメイドと腕組みまたは手繋ぎで二時間フリーデート(カラオケボックスOK、ホテルNG)というもので、しかもデートの間は撮影フリーとなっている。

 どのお店もいろいろと特典やサービスを展開しているようだが、紀子の働くお店は特に美人が多いとマニアの間で話題となり、激戦区アキバでも人気のお店らしい。

 そして今回、見事百ポイントを貯めた客がアキバデート特典に紀子を指名したというのだ。デート特典で紀子が指名されたのは今回が初めてだった。

「もう、何であたしなのよ」

 仏頂面でいきさつを説明した紀子は食べ終えたランチボックスを片付けるとこれ見よがしに大きな溜息をついた。お店のルールなんだから仕方がないとはわかっていても、どうしても釈然としないようだった。

 店では客に指名されると指名料と称したボーナスが支給されるため、どの女の子も指名して貰おうと積極的にフロアに出てアピールしていた。セクシー路線から萌え路線、ツンデレなどあらゆるニーズに応えようとみんな個性を打ち出すことに余念がなかった。紀子はそんな客に媚びるような態度を取ることができず、髪をツインテールにしている以外は素のままの自分で客に接していた。そのせいか、個性がないと言われることが多かった紀子の人気はイマイチだったのだが、逆にその自然体での振る舞いが魅力的だと感じているコアな客も何人かはいるようで、今回デートする男もどうやらその中の一人だった。彼は紀子に会うために毎週お店を訪れては紀子を指名し、ポイントサービスは全て紀子を指定するほどの惚れようだということだった。

「紀子ちゃん、モテモテだね!」

「私だってさ、わがままで言ってるんじゃないのよ。お客さんに指名されればボーナスも入るし時給もアップするわ。それにデート特典に指名されることは大変名誉なことだからって店長やお店の先輩メイドさんからも言われていたから、いつかは指名してもらえたら嬉しいなって思ってたんだ。今回、初めてだったから嬉しかったんだけど……」

 紀子はもう一度大きく溜息をついた。

「よりによって、あいつとデートしなくっちゃいけないというのが許せないのよ!」

 吐き捨てるように言う姿は、声に出すのもイヤだと言わんばかりだ。あいつ、という語気だけで彼女の嫌悪感が十分に伝わった。

 その男は、紀子のことをあからさまにえこひいきするらしい。そのことはまだ許せても、それ以上に酷いのは紀子以外の女性店員に対して罵詈雑言を浴びせるのだという。それも本人に向かって言うのではなく、紀子だけにこっそりと伝えるのだそうだ。

「こないだ○○がお店で鼻くそをほじってた」

「△△の前を通ったら臭かった」

「□□はクラスでイジメに遭って不登校」

「××のブログ、誤字脱字が多すぎ。バカ丸出し」

「あいつ死んじゃえばいいのに。誰かに殺されちゃえばいいのに」

 どれも根も葉もないデマや想像の域を出ない話だとわかっていても、仲の良いバイト仲間の悪口を言われて気持ち良いはずがなかった。

 先日、その男がいつものように紀子を指名してきたとき、紀子はお店の裏からフロアに出るのを拒んだ。それほどその男が嫌いになっていた。が、お客様第一、商売優先がモットーの店長にフロアへ出てちゃんと応対するようにと命じられ、渋々相手をしたらしい。

 私達に話しているうちに紀子の声は震え、見開いた眼光は怒りを通り越してほのかに殺意さえ感じられた。

「ほんっと、マジむかつくのよ。あの野郎」

 紀子の拳が机を叩いた。力を加減している分だけまだ冷静さは失われていないようだ。

 あくまでも紀子からの一方的な話なので真偽のほどは定かではないが、彼女の怒り具合を見ているとあながち嘘だとは思えなかった。もしこれが真実だとしたら、とんでもない最低最悪の男だ。

「それでさ、そいつと疑似デートしている間、あたしにもしもの事がないように、見張って欲しいんだよね」

「紀子ちゃんがその男に襲われないようによね」

「ううん。あたしがそいつをぶん殴っちゃったりないように」

 紀子が口許を歪めてニヤリと笑った。氷のように冷たい微笑だった。

「大丈夫。任せといて」

 ミエの声は怒りで少し震えていた。

「でもさ、女の子だけじゃ心細くない? 誰か男の子にも来てもらおうか。古河君とか野木君あたりどうかな?」

「ダメダメ、あの二人じゃ頼りないし、いないのも同然よ。それに私のメイド姿を見るなんて百年早いわ」

 紀子が間髪入れずに即答した。紀子のメイドルックにそれほどの価値があるのかは疑問だが、彼らでは心許ないのはうなずけた。

「私んちのSPさんを何人か紀子ちゃんに付けておくようにお願いしてみるね」

 普段はナチュラルボケを連発しているゆるキャラ素子もさすがに真剣な顔をしている。

 彼女はとある大企業の社長令嬢で、本来ならもっとハイグレードな高校に通ってもおかしくはないのだけれど『一般市民からの視点を知ることが大事』という両親からの教えに従って、県内の普通高校に通っている。以前、素子の周辺にはSPが彼女の護衛に当たっているという噂話を耳にしたことがあった。一国の要人ならともかく、一般企業の社長令嬢と言うだけでSPが配備されるものかと半信半疑だったが、素子の口から直接『SP』という言葉が出たところをみるとどうやら事実のようだ。

「SPだなんて、そこまでしなくてもいいよ。いくら相手が男でもたかがオタク野郎一人なら女四人でよってたかってボッコボコにするくらいはできるでしょ」

 いざとなればバックに素子のSPが付いているという安心感も手伝って、三人は紀子のボディーガードを引き受けることにした。

 当日は幸か不幸か、デート日和と呼ぶにふさわしい好天に恵まれた。好きな男性とのデートであれば心も弾むだろうが、嫌いな奴と無条件で二時間も拘束されるというのではちっとも嬉しくはないだろう。

「すごーい、あの人、髪の毛ミドリだよ! あ、あっちはオレンジだ!」

「コラッ、指を差さないの!」

 ミエの声で我に帰った。

 素子の目は目の前を歩くコスプレイヤー達に釘付けになっていた。何のアニメのコスプレなのかは全く分からなかった。

「あれって『イタ車』って言うんでしょ! こないだテレビでやってたよ! 痛いからイタ車なんだって!」

 ボディにこれ見よがしにアニメキャラがプリントされた乗用車が路肩に停車していた。ボディ全体にくまなく描かれたアニメイラストのインパクトは絶大だった。

「でも、何が痛いんだろ?」

 カオスな状況に頭がクラクラしてきた。テレビや雑誌などでアキバに関する情報はある程度は見聞きしてはいたものの、実際にこうして現実感のない光景を目の当たりにすると、まるで自分達が別世界に紛れ込んでしまったかのようだった。雰囲気に飲まれるというのはこういうことかと思いつつ、こんな状態で果たして紀子の護衛がまともに務まるのか自信を喪失してきた頃、ようやく紀子のバイト先まで辿り着いた。

「なんだか、刑事ドラマっぽくてドキドキするよね!」

 物陰に隠れる素子の瞳はキラキラと輝いていた。気分はすっかり一人前の女刑事なのだろう。

「尾行の時は相手のことを意識しないで平静を保つこと。それと、相手との距離は十五メートル以上をキープすること。そうしないと相手に感づかれちゃうからね」

 ミエはビルの入り口を見つめたまま私達に尾行のレクチャーをしてくれた。

「ミエちゃん、よく知ってるね」

「昨日ネットで調べたの。尾行するのに正しい尾行の仕方を知らないといけないじゃない」

 根が真面目なミエらしい。

 時々通りを歩く人がビル影に隠れている私達に気付いてギョッとなった。私だって、若い女の子がこんな所に隠れているところを目撃したら逆に怪しむに違いない。

 素子とミエは鋭い眼光でビルの入り口を見つめていた。素子はまばたきすらしていないのか、みるみる目が充血していくのがわかった。

 素子の眼球がすっかり乾燥して目を閉じることもできなくなった頃、ビルの入り口付近で動きがあった。一人の男がビルの中へそそくさと消えていったのだ。何のためらいもなかったその動きは明らかにそのビルに用事のある人物だとわかった。そしてその男が例の紀子の疑似デートの相手だと確信した。

 男は確かにアキバ系のもっさりとした顔で、髪型にも服装にも洒落っ気を感じられない、特段変わり映えのしない風貌で、さらに奇妙だったのは、これから旅行にでも行くのかと突っ込みを入れたくなるような大きなデイパックを背負っていたことだった。

「あの男に違いないわね」

 ミエもそう感じていたようで、急にピンと張り詰めた空気に包まれた。

 ほどなくして男が再び姿を現した。入るときに比べると何となく口許が緩みがちに見えた。そして彼の後ろからメイドルックを身に纏った女性がビルから出て来た。

「ねぇ! 紀子ちゃんが出てきたよ!」

 紀子の姿を目撃した途端、あれが本当に紀子なのかと目を疑った。目の前の彼女はフリフリのメイド服を身に纏い、黒髪を結ったツインテールの毛先が彼女の腰の辺りで小躍りしていた。あれだけのボリュームだときっとウィッグなのだろう。少なくとも昨日見たときは肩までしかなかった彼女の髪が一日であんなに伸びるなんてことは不可能だ。

 メークは薄目だが、それが余計にチェリーピンクのルージュに彩られた唇を際立たせていた。とにかく、いつもの紀子とは別人だった。

「紀子ちゃん、メッチャ可愛いね~!」

 紀子は一瞬私達の方に顔を向けたかと思うと、プイとそっぽを向いて私達とは反対側の通りへすたすたと歩いて行った。どうやら気付いていないようだった。

 相手の男はちょっと小太りでギンガムチェックのシャツにジーパンというごく普通のいでたちだが、すでに紀子からネガティブイメージを擦り込まれていた私の目にはどう見てもとんでもなく不細工に見えた。仕事とは言え、あんな男と一緒に歩く紀子が不憫でならなかった。

「早く行かないと、見失っちゃうよ」

 素子が慌てて飛び出そうとするのをミエが引き留めた。

「ダメよ、モコ。尾行するときは十五メートル以上離れなくっちゃ」

「でも、そもそも私たちが誰だか分からないんだから、見られたって大丈夫なんじゃないの」

 ミエは首を振って私の意見を全否定した。

「相手に尾行の気配を感づかれた時点でアウトなの。気配を消すことが尾行の鉄則なのよ」

 ミエから尾行のなんたるかを教えられた私と素子は彼女の言いつけに従って二人の後を追いかけた。

 十一時を過ぎると続々とお店が開き、それに呼応するように人通りも増え始めた。

 前を歩く二人をガン見するわけにはいかず、されど二人を見失わないように、そしてさりげなく歩くという行為は、思った以上に難しかった。気配を消そうとすればするほど動きがぎこちなくなって、知らない人が見たらこの三人の行動はさぞかし怪しげに映っているに違いない。不審者がいると通報されないかそちらの方が心配になった。

 紀子のメイドルックとツインテールが非日常的すぎてデートっぽくには見えなかった。しかも日常的な男の服装とのアンバランスさが余計に現実感がなかった。男の方が一方的に話しかけ、紀子が明らかにそれだと分かる営業スマイルで応えるという光景を見て、彼女への拷問以外の何物でもないと思った。

 おもむろに紀子から男の腕に手を絡めた。私は予想だにしていない彼女の行動に思わず声を漏らしてしまった。

「男からのリクエストね。確か手繋ぎと腕組みはOKだったはずよ」

 ミエの冷静な解説に納得する。

 いつだったか、お母さんが私にお小遣いを渡すときに「お金を稼ぐというのは大変なことなのよ」と言っていたのを急に思い出し、その意味がわかったような気がした。

 お母さんの言葉を噛みしめながら、紀子に同情するとともにお金を稼ぐ事への大変さ、尊さを垣間見た思いから、私は彼女に向かって自然と手を合わせていた。

「ご愁傷様」

 歩道にはどんどんと人が溢れ始め、真っ直ぐに歩くことが難しくなっていった。人をよけながら、次第にスムーズにすれ違うことも難しくなり、人混みの中で何度も二人を見失いそうになった。

「紀子ちゃん、とってもカワイイよねぇ~。いつもメイドさんの格好すればいいのに」

 素子が瞳をキラキラと輝かせながら呟いた。確かに紀子は沿道に立っている他のメイドさんと比べても全く見劣りすることはなかった。普段は気付かなかったが、スリムな体型にもかかわらずメイド服から伸びる腕や脚には適度な肉感があって、それが変にいやらしいというのではなく清潔感のあるエロティックさを兼ね備えていた。ひょっとしたら彼女はこの世界でブレイクできる可能性を秘めているのかもしれない。そう考えるとあの男が紀子に惚れ込んだのも何となく合点がいった。

 ふと、前を歩く二人がある店の前で立ち止まった。

 それまでも店先に並ぶゲームやらパソコンの部品やらを見ていることはあったが、今回はちょっと二人の雰囲気が違っていた。じっとお店の方を覗き込んだまま、何か考えるような仕草をしていた。もう少し近付いてみると、そこがカウンター式の狭い店構えにパステル調の可愛いペインティングが施されたクレープショップだとわかった。

「やっとデートっぽい雰囲気になったわね」

 ミエが二人から目を離さずに言った。私はもう一人のミッションパートナーが見当たらないことに気付いて、辺りを見回した。

 私達から数メートル離れたお店の前で素子が何かに釘付けになっていた。

「素子、何やってんのよ」

 素子が凝視していたのはクマのぬいぐるみだった。一見、ただのぬいぐるみのように見えたそれは、よく見るとお腹の部分が空洞になっていて、そこに小さな扇風機が付いていた。しかもお尻からコードらしきひもが伸びていた。

「これ、すっごくカワイイ~! ねぇ、買ってもいい?」

「ダメ、今は大事なミッションの最中でしょ。後にしなさい」

 目の前の素子よりも十五メートル先にいる紀子達が気になった。二人はまだお店の前にいた。

 素子の手を引こうとした矢先、店員が素子に声をかけてきた。

「どうです、可愛いでしょう」

 店員はぬいぐるみを素子の方に向けると、クマのお腹から素子の顔面に向かって涼風が降り注がれた。

 素子は嬉しそうにその風を浴びていたが、ブーンと羽根の回る音がやたらうるさくて、どう見ても扇風機の回転と風量が比例していないように感じた。

「わぁ~! やっぱり扇風機だったんだ!」

「USBケーブルでパソコンに繋いでも、乾電池でも動く優れものですよ。暑い時はこれを机の上に置いて勉強したらはかどること間違いなしです!」

 扇風機の音が気になって勉強どころではないような気もするが、ブサカワなデザインと店員の饒舌な売り言葉にすっかり魅了された素子は明らかに買う気満々だ。

「ねぇ、勉強はかどるってさ! どうしよう、買っちゃおうかな~っ!!」

「素子、買い物に来たんじゃないんだよ!」

 無理矢理素子の手を引っ張り店から彼女を引きずり出した。素子はすねた子供のように唇を尖らせた。

「おじさん、後で買いに来るからね!」

 名残惜しそうにいつまでもぬいぐるみと店員に向かって手を振る素子の関心事は明らかに親友の尾行から目の前の微妙なグッズへと移っていた。

「あれっ?」

 ついさっきまでクレープ店の前にいた二人の姿が消えていた。

「二人とも何やってるのよ!」

 大きく手招きをしているミエの先に大通りの横断歩道を渡っている紀子とちょいデブ男の姿が見えた。そして同時に、歩行者用の青信号がチカチカと点滅しているのも目に入った。

「早く!」

 私は素子の手をほどき、通行人をよけながら、ミエも抜き去り、点滅している青信号に向かって猛然とダッシュした。信号なんかで立ち往生してしまったら二人を見失ってしまう。間に合わないのは百も承知だが、このタイミングならいける。こういったギリギリの状況を毎朝の通学で経験している私の本能的な勘だった。

 私達が横断歩道に踏み込んだその時、目の前の信号が青から赤に変わった。が、車道側の信号が青に変わるまで若干のタイムラグがあるので、その間に渡りきればいい。例え赤になったとしても、目の前をいく人間を無造作に轢くような車もないだろうから、大丈夫なはずだ。

 だが、私自身の経験則の中で「~なはずだ」というのは自分に都合の良い解釈であって、実際はそうでないことの方が多いのをその瞬間忘れていた。

「パパパパパーーーーーーッ!!」

 一台の車が大音響のクラクションとともにも猛スピードで横断歩道に入ってきた。

 スモークガラスの向こうから運転席が左側に見えた。車の中の人物は私達をいさめるようにこちらを睨み付けていた。若い男のようだった。右から左へ流れるその光景がスローモーションのようにゆっくりと流れた。

 濃紺の車体は私のほんの数十センチ前を減速することなく通り過ぎ、爆音とともに一気に走り去った。

 それら全てはほんの一瞬の出来事だった。

 車が通り過ぎた後も私の身体はピーンと硬直した状態で横断歩道上に直立していた。

「ユカ危ないっ!」

 ミエが往来が激しくなる車道から私を引っ張った。歩道に引き戻された私はへなへなと膝から崩れ落ち、そのまま路上にへたり込んだ。

 私の耳にはバクバクと脈打つ自分の心臓の音しか聞こえなかった。

「大丈夫」

 ミエに声をかけられてもすぐには返事ができなかった。声を出そうにも声が出なかった。真っ白になった頭の中で、『生きてて良かった……』と思うのが精一杯だった。

 泣きそうな顔で覗き込むミエの顔を見て、やっと我に帰った。

「うん、大丈夫」

 ミエの手を借りて私はヨロヨロと立ち上がった。まだ足に力が入らない。周囲の歩行者がじろじろとこちらを見ていた。

「あれっ、素子は?」

「そう言えば……」

 ミエが慌てて振り返った。

「」

 素子は歩道と車道の切れ目の所で倒れていた。外傷は見られなかったが、意識を失っているのか、うつぶせのままピクリとも動かなかった。

「素子!」

 呼びかけに反応しない彼女をひょいと担ぎ上げる者がいた。その人物はチェック柄のシャツとデニムに迷彩キャップという完璧なオタクファッションに身を包んではいるものの、精悍な顔つきをしていて周囲のオタク達とは違った雰囲気があった。

「お嬢様を確保した。外傷はないが頭部を痛打した可能性もある。至急車を回してくれ」

 最初は独り言でも言っているのかと気味が悪かったが、よく見ると黒っぽい棒のような者が彼の耳許から伸びていて、それで会話をしているらしかった。どうやら小型のインカムを装備しているようだ。やはりアキバ系の人はこういったアイテムに精通しているのだろうか。

 倒れている女性を助けてくれるような正義感溢れるオタクもいるのかと感心しているところへ、別の男性から声をかけられた。

「大丈夫ですか?」

 こちらもイケメンだ。何だ、最近のオタクというのはイケメン系が多いのか? と錯覚しているとその男性は素性を明かした。

「私達は宝積寺家の護衛の者です。今日はお嬢様から警護を命じられていましたが、できるだけ目立たぬようにとのことでしたので、見様見真似でこのような格好をしてきました」

 ハンサムは何を着てもサマになる。それ以上に、素子のSPが実在することに驚いた。素子が超リッチな家庭のお嬢様であることを改めて知らされた。

 素子を抱き上げた男性が車道へ出ると、まるでそれに呼応するかのように黒塗りの乗用車がどこからともなく現れ、横断歩道の手前に横付けした。そして後部座席が開いたかと思うと素子を車内に運び入れ、信号が変わるのと同時に発車していった。あっという間の光景を私とミエはただポカーンと見ているだけだった。

 私とミエは黒塗りの車を見送ってから、ようやくお互いの無事を確認し合った。

「ケガしなくて良かったね」

 私の隣にいたオタクルックのイケメンに連絡が入ったらしく、彼は表情を全く変えずに耳許に指を押し当てて何やら話していた。

「今連絡が入って、お嬢様は意識を取り戻たそうです。記憶、言語ともに問題ないようですが、念のため病院で診てもらうことになりました」

「無事なんですね。良かった……」

 ミエはホッと胸をなで下ろした。すりむいた膝から滲む血が痛々しかった。

「ケガをしているようですが、病院へお連れしましょうか? この近くに宝積寺家の経営する病院があるはずです」

「大丈夫です。ちょっとすりむいただけですから」

「それと」

 SPが言葉を続けた。

「お嬢様から『あとのことはお願い』との伝言がありました」

 私をミエは顔を見合わせると顔を曇らせた。

「お願い、って言われても……二人がどこに行っちゃったか、もう分からないもの……」

 私は紀子達を最後に目撃した反対側の通りに目をやった。そこには、かわいいけれども紀子よりは見劣りするメイド達が一生懸命の作り笑顔でお店のチラシを配っている姿があった。そしてその何十倍もの数が行き交う通行人の群れの中とアキバというゴチャゴチャとした街の中から、すでに見失ってしまった紀子達の姿を探し出すのはほぼ不可能だった。

「私達もお友達の行方を追ってはいたのですが、こちらの出来事につい気を取られてしまって……」

 SPは残念そうに唇を噛みしめた。しかしSPの人達を責めることはできなかった。むしろ尾行一つできなかった自分達のふがいなさに落胆していた。

 あぁ、こんな時に私に超能力があれば……ふとそんなことを考えた。透視や瞬間移動の能力があれば、紀子を見つけることも追いかけることもできたかもしれない。いざというときは超能力でオタク野郎をやっつけることも可能だろう。

 あぁ、私に超能力があれば……。

 人の往来は時間が経つにつれてどんどん増えていった。人の数が増えれば増えるほど、私の中の疎外感、孤独感は膨張していく一方だった。

「私達も帰ろうか……」

 心の中の呟きがつい声に漏れた。どちらからともなく出た言葉だった。

 SPに礼を言うと、重い足取りで駅に向かった。駅に向かうまでの間、二人とも無言のまま何度も何度も溜息をついた。

「何か」

 ミエがようやく重い口を開いたのは、電車に乗り込んでからだった。

「あまり大したことしてないのに、すっごく疲れたね」

 まだお昼前だというのに、丸一日歩き回ったくらいの疲労感が全身を襲っていた。疲れ切って吊革に掴まるのがやっとだった私は黙ったままうなずいた。

「でも、ノリちゃん、大丈夫だったかなぁ」

 あの紀子がオタクの餌食となって恥辱の限りを尽くされているとは思えなかった。いや、思いたくなかった。きっと彼女のことだからいざとなれば男の魔手から逃れる事もできるはずだ。そもそも武術の心得はおろか運動部でもない貧弱な女子高校生が護衛をすること自体が元々無謀なことだったのだ。

 ……と、そう自分に言い聞かせるので精一杯だった。紀子に申し訳ない気持ちが余計に二人の口を重くさせていた。

 やっとの思いで家に帰り着くと、そのままベッドに身体を沈めた。何も考えることなくすぐに深い眠りに就いた。

 何時間寝たのだろうか。ようやく起きた私は、頭の中に濃い霧が立ちこめた状態で携帯電話を手にした。時刻はすでに夕方になっていた。着信履歴に紀子の名前があるのを見て、私の中で午前中の忌まわしい記憶が蘇った。紀子の電話は、まともに護衛ができなかった私達への叱責なのかもしれない。

 私は恐る恐る紀子に電話をかけてみた。

「……もしもし?」

「あぁ、ゆかり」

 電話の向こうの声はいつもよりも明らかにトーンダウンしているのがわかった。やはり任務を果たせなかった私達に腹を立てているのだろうか。

「今日は私の今までの人生の中で一番最低最悪の日だったわ」

 それは親友に裏切られたせいだからか。

 紀子の話では、疑似デートはアキバ街の散歩から始まり、パソコンショップに立ち寄っては男が高価な部品や機材を手当たり次第に買ってはどや顔を見せつけていたらしい。

「はぁ それで金持ちのつもり?」

 紀子はまるで目の前にそいつがいるかのように啖呵を切った。まだ腹の虫が治まらないのだろう。

「お互いのクレープを食べっこするのよ。考えられる ありえないわよ!」

 仕方なく紀子は男が口を付けていない部分をちょっとだけかじったが、男の方はと言うと、紀子が食べたところを根こそぎ奪い取るようにかぶりついたという。

「そんなクレープもう食べられないから、手が滑ったふりして道端に落っこどしてやったわ」

 それは賢明な判断だと思った。

 最後は時間ギリギリまでカラオケボックスに二人っきりの状態にさせられたようだ。

「あれは完全に“拉致”としか言いようがないわ」

 カラオケボックスでは当然デュエットを強要され、密室なのを良いことにやたらと体を密着させてきたらしい。しかもそれだけだけでなく、ことあるごとに肩だの髪だのに触れり、それだけに飽き足らず、どさくさに紛れて腰に手を当ててくるわ、デジカメで手当たり次第撮りまくるわでルール内ギリギリの破廉恥行為を繰り返したという。

「あいつが顔をこっちに向けてくるからしょうがなく目を合わせていたけど、目を合わせる度に奴への殺意が強まっていったわ」

 しかもとどめは一本のポッキーを両側からお互いに食べていくという、まるでスナックのホステスがやるような座興であわやマウスタッチの危機に陥ったという。

「もう当分ポッキーは見たくないわ……あたし大好きだったのに……」

 寸前で顔を引き離して最悪の事態は逃れたものの、精神的に大きなダメージを負った紀子はポッキーに対してトラウマができてしまったらしい。

「それでさ、お店に戻ってきてから店長に奴のセクハラ行為を訴えたの。そしたら『サービス業なんだからそのくらいして当然だ。お客様に奉仕するべきメイドとしてのサービス精神に欠けている!』って逆に私の方が怒られちゃったのよ。あり得る?」

 さらに店長から時給の減額を言い渡されてしまったらしい。

「せっかく、デート特典に指名してもらって一時金が出たのに、これじゃヤラレ損だわ」

 気落ちする紀子にかける言葉も見つからなかった。

「ごめんね……ちゃんと護衛できなくて」

「ううん、ゆかり達はちっとも悪くない。だから謝ることなんてないわ。悪いのは全てあいつ。ミエから聞いたんだけど、ゆかり達、車に轢かれそうになったんだって?」

 私は車に轢かれそうになった一瞬の出来事について話した。

「ケガしなくて良かった。これでケガでもしたら申し訳ないよ。ゆかり達にも嫌な思いをさせちゃったね。ゴメン」

 私達以上に嫌な思いをした紀子に謝られると更に申し訳ない気分になった。

「あ、そう言えば素子なんだけど、あそこやっぱりSPがいたわよ。しかもみんなイケメンなの」

 私はSPの話で気分を変えようと思った。

「ふうん、SPって本当にいたのか。イケメンというのが気になるわよね。今度素子んちに乗り込んでみようか」

 紀子の声に少しだけ元気が戻った。

「よし、明日は気分転換に買い物に行こう。ゆかり、あんたも一緒に行くわよ、いいわね」

 突然言い出した紀子の誘いに私はどう反応していいのか迷ってしまった。買い物に行きたい気持ちもあるが、財布の中身を考えるとちょっとためらった。

「買い物でもして憂さ晴らししようよ。ランチくらいはおごってあげるからさ」

 せっかく元気を取り戻した紀子の気持ちに水を差すのは気が引けるので、私はOKの返事をした。おかあさんからお小遣いの前借りを申請しなければ。

 電話を切ってから、中間テストがあさってから始まるのを思い出した。ま、どうせいつも大して試験勉強もしていないから全く気にしていないが。

 翌日、私と紀子は電車に揺られて、若者達の間ではメッカと言われているファッション街に繰り出した。無事にお母さんからお小遣いを前借りできたので久々に何か服でも買おうと意気込んでいた。

 ティーンズ向けのファッションショップが建ち並ぶ百メートルほどの通りは華やかで素敵な街並みだった。同じ人混みでも昨日のアキバとは歩いている人種が違いすぎる。

 どのお店も個性的で、端から順に一軒一軒入ってみたくて仕方なかった。

「時間はたっぷりあるんだから、じっくり品定めしようね」

 私は紀子の言葉どおりお店の中をくまなく見渡し、気になる商品は手に取って吟味した。紀子はその逆で、目に付いた品をポンポンと買い物カゴに放り込み、惜しげもなくお金を使っていた。その姿はテレビで見た爆買いツアーの外国人観光客のようだった。

「さぁ、この調子でどんどん買い物するわよ」

 お店を出た紀子の第一声だった。この調子で買い物を続けたら、荷物は宅配便で送らないといけなくなりそうだ。

「いやー、お腹空いちゃったわ。ゆかり、あれ食べようよ」

 彼女が指差したのは小さなクレープ店だった。お店の前で順番待ちのお客が列をなし、一人分しかないカウンターの向こう側では若い男女の店員が休む暇もなくクレープを作っては売り、作っては売りを繰り返していた。

 店頭のポップな装飾が目に入った途端、昨日のアキバで悪夢が蘇り、一瞬私の足がすくんだ。紀子のポッキー同様にこれからしばらくはクレープを見る度にこんなトラウマに苛まれなければいけないのかと思うとやるせなかった。

 私はブンブンと頭を振って、辛かった過去の記憶を忘れようとした。クレープには何も罪はない。アキバを憎んでクレープを憎まず。いや、厳密にはアキバ自体にも罪はない。アキバに対するネガティブなイメージはあのオタク野郎がもたらしたものだ。心の底からあいつが憎い。

「あそこ結構あちこちの雑誌で紹介されているお店よ。芸能人もよく食べに来るってネットに書いてあるし」

 紀子は店を指差しながら私の肩をポンポンと叩いてはしゃいで見せた。一番嫌な思いをしたのは誰でもない彼女のはずなのにそんなことをこれっぽっちもみせることなく明るく振る舞っている姿を見て、私もイヤなことを忘れて心から楽しもうと心の中で誓った。本来なら私の方が紀子を元気づけてあげなくっちゃいけないのに。

 私達は人の波をかき分けてクレープを買い求める列に並んだ。すぐ前のカップルは仲睦まじく手を繋ぎながら、何を注文しようかとか、これからどこどこのお店に行きたいとかグダグダと話しながら、まるでこの世の幸せを独り占めしていると言わんばかりの顔で見つめ合い、すっかり自分達の世界にどっぷりと浸っていた。

 気が付くと私達の後ろにはもう十人ほどの行列ができていた。

 自分達の番が来るまでの間、お店の前に貼ってあるメニューを見ながらどのクレープにどんなトッピングをするのかを考えた。紀子はフルーツ盛りだくさんアイスクレープに生クリームとアーモンドスライスとチョコスプレーをトッピングするらしい。普段トッピングなどもったいなくてしない私もこの日ばかりはストローベリーショートクレープにアイスクリームをトッピングしようと決めていた。お金のことが気になってなかなかトッピングなんてしないのだけれど紀子が三つもトッピングするのだから、私も追随しなければという気持ちが働いたのかもしれない。

 そう思ったのも束の間、クレープの代金は紀子持ちだったのに気付いて、オーダーのときに慌ててトッピングをキャンセルした。

「何よ、トッピングしなさいよ」

「だって、紀子に余計な出費させて悪いじゃない」

「遠慮する方が悪いわよ。あんたより稼ぎが良いんだから全然気にすることないわ」

 店員さんから手渡されたクレープの素敵なデコレーションにしばし見とれていた私はいきなりかぶりつくのがもったいなくて、プラスチックのスプーンでちょっとずつアイスクリームをほじくっては丁寧に味わった。バニラビーンズの甘い香りが口の中に広がる度に幸せな気分に浸っていた。

「ゆかり、下からクリームが漏れてるよ」

 すでに半分ほど食べ終えた紀子が私のクレープを指差した。まだクレープの皮にも達していない自分のクレープはアイスが溶けてクタクタな状態になっていて、包み紙の隙間からクリームがしたたり落ちていた。

 クレープを持ち直そうとしたとき、通りすがりの男の腕がぶつかって私の左肩がドスンと大きく揺れた。

「あっ」

 と思った瞬間にはクレープはくの字に曲がり、クレープの上半分に寄り固まっていた生クリームとアイスクリームとイチゴたちがそのまま重力に従ってボトリと地面に落ちた。

「チッ」

 私を突き飛ばしたその男はこちらを一瞥すると隣にいた彼女の肩を抱いてその場を立ち去った。腕を組んでいた女は私を見て「あ~あ、もったいない」と笑った。

 行き交う人々はみんな私の落としたアイスクリームとフルーツをよけるように迂回しながら歩いて行った。

 路上で無残な姿に変わり果てたクレープ。まだほとんど食べていないクレープ。今までもったいなくてできなかったトッピングに生まれて初めてチャレンジしたクレープ。

 中身は全て道路にぶちまけ、ペラッペラの生地だけを握りしめたまま、呆然と地面を見つめていた。

「ドンマイドンマイ。クレープならもう一度買い直せば良いじゃん。私がおごってあげるよ」

 紀子の慰めが余計に私を哀れにさせた。自分のお小遣いを無駄にしただけでなく、紀子にも無用な出費を与えてしまった罪悪感が私の心を更に重くした。せっかく紀子が買い直してくれたクレープなのに、何の味わいも感動もないまま自分の胃袋に収まっていった。

「さあ、もっと買い物するわよ! 今日はじゃんじゃん買うつもりで来たんだからね! ゆかりも遠慮しないで何か買いなさいよ」

 そう言って紀子は私の手を引っ張ってお店に誘導した。

 紀子があれこれと手にとって洋服を品定めしている間、私もぶらりと店内を歩き回った。あまりこういうお店には来たことがなかったので、気に入った服があれば買って帰ろうと思った。しかし、手持ちが少ないとおのずと購入までのハードルが上がってしまう。良いなと思っても、次のお店でこれよりももっと気に入った服を見つけたらどうしよう、と考えるとどうしても潔い決断ができなかった。そうやって何件もお店をはしごしてもなかなか私の琴線に触れるような服が見つからずにいた。

 紀子は目に付いた商品を躊躇なく手に取りレジへ運んでいった。何の気がねもなく散財している紀子が羨ましかった。やはり自分もバイトしようか、という思いに駆られた。普段はお母さんから貰う五千円の小遣いでも何とか間に合うが、まとまった買い物をしようと思うとどうしても足りなかった。

 結局午前中、私は春物のソックスを一足買っただけで終わった。

 昼食は紀子が事前に調べておいたレストランで取ることになっていた。

「さっきクレープおごってもらったから、昼食代は出すよ」

「ダーメ。もともとランチはおごるって言ってたんだから私に払わせて」

 さっきクレープで予想外の出費をさせてしまった罪悪感に駆られた私からの申し出に紀子は即答した。

「その分洋服を買いなさい。いいわね」

 自分の洋服を買うことを条件にランチをおごってもらうという妙な条件を飲み込んで、ありがたく昼食をご馳走になった。

 紀子が選んだお店はバイト先の女の子に教えてもらった有名店で、ランチプレートが安くて美味しいという評判らしい。雑誌やテレビなどで取り上げられたことがあり、ネットでも高評価だそうだ。

 店の前には長い行列ができていたが、紀子はその行列を追い越して入り口のドアを開けた。

「予約している蓮田です」

「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」

 白い制服に身を包んだ店員がにこやかに私達を出迎えた。店員は私達を窓際の明るい席まで案内すると、テーブルに置かれた"Reserved"という白いプレートを拾い上げた。

「予約してたんだ」

「人気のお店だからね」

 二人はランチプレートを注文すると、グラスに注がれた水を飲んだ。喉を通る冷たい感触に、自分は喉が渇いていたんだとその時気付いた。

 何気なく窓の外を眺める紀子の横顔を見て、いつもの紀子の顔だと当然ながら思った。と同時に昨日のメイドルックの紀子が全くの別人に思えた。髪もメイクも決まってはいたがいつもの紀子とはかけ離れていた。

「ねぇ、紀子。バイト、楽しい?」

 声をかけられた紀子は窓の外を向いたまま答えた。

「楽しいよ。一緒に働いてる娘達はみんないい人ばかりだし、人目を気にせず可愛い格好もできるし。あたし結構ツインテール気に入ってたりするんだ。学校とかじゃできないもんね」

「紀子はああいう服装が嫌いだと思ってた」

 普段の紀子は地味な服装が多く、原色系やハデな柄ものを着ているのを見た事がなかった。

「だから楽しいのよ。普段は絶対に着ないような服を着て、あの非現実的な空間にいるのが快感なのよね。あたしも最初は時給が良いと言うだけでやってたけど、今はそれだけじゃないんだって思うようになったわ」

「こないだみたいな嫌な客がいるのに?」

「あいつだけは特別。他のお客さんはみんな親切で優しい人達ばかりだよ。誕生日にちゃんとプレゼントくれる人だっているんだから」

「ひょっとして、アイツからもプレゼント貰った?」

 うん、と紀子は渋々うなずいた。

「よくわからない不細工なクマのぬいぐるみ」

「今でも持ってるの?」

「何かムシャクシャしたときはそのぬいぐるみをボッコボコにしてストレス発散してたんだけど、昨日包丁で八つ裂きにして近くの公園で燃やしちゃったわ」

 紀子が自分の部屋で包丁を振りかざしてぬいぐるみを滅多刺しにしている姿や、公園で火の付いたぬいぐるみをうつろな目で見つめている様を想像した途端、身震いがした。

 間もなく運ばれてきたランチプレートは評判に違わず絶品だった。料理の味はもちろん飾り付けも素敵で、テーブルや食器、そしてお店の雰囲気が更に料理を引き立てていた。何よりも店員の上品な応対がとても印象的だった。

 お腹も心も十分に満たされた私はようやく午前中のクレープの悪夢を払拭することができた。

 英気を養った二人はまた買い物を再開し、順々にお店を回っていった。紀子は店を出る度に買い物袋が増えてき、そのペースは衰えることがなかった。

 私は相変わらず午前中に買ったソックス以外に荷物は増えずにいた。

 紀子の気晴らしのための買い物なのだから、彼女が気持ちよく買い物ができればそれで満足だと自分に言い聞かせていたが、やはり何か一着くらいは買っておきたかった。しかし、値札を見る度に逡巡し、なかなか決心がつかなかった。

 そんなとき、ある一軒のお店の前で何となく私の足が止まった。そしてなぜか店の中がちょっとだけ気になった。

 前を歩く紀子を呼び止め、自分だけ先にそそくさとお店の中に入った。そして端から順に、今までよりもより注意深く洋服を見て歩いた。

 その店はごく普通のブティックで、ハッと目を引くようなデザインの服があるわけでもなく、普段着っぽい感じの服を主に取り扱っていた。

 さすがの紀子も大荷物を持ち歩いて疲れてきたようで、店の入り口付近で何を見るともなしに展示品を眺め、それ以上奥には入ってこようとはしなかった。

 やがて、突き当たりの壁に吊されたサンプルに私の目は奪われた。

 それは水色を基調としたワンピースだった。派手でも地味でもないが、この服の第一印象は『可愛い!』だった。私の好みの色合いとデザインに一瞬にして魅了された。一刻も早く手に取って試着したい衝動に駆られた。ワンピースが私に手招きをしているようにしか見えなかった。

 店員を呼び、壁からワンピースを取って貰うと急いで値札を確認した。

 〝\14,800-〟

 私は心の中で小躍りをした。ちょっと予算オーバーだが何とか買える。帰りの電車賃はギリギリ足りないかもしれないがそれは紀子から借りよう。次のお小遣いまではオケラ状態だがそれは今に始まったことではないから気にならない。明日以降のことはまたその時に考えよう。私の中の思考回路が服を買うことを前提に構築されていった。

 次にサイズを確認した。せっかく欲しいものが見つかってもサイズが合わなければそれでジ・エンドだ。私は祈るような気持ちで裏返しになっていたタグをめくった。“M”の文字を見つけた私はジャンプしそうになる気持ちを抑えるのに必死だった。もしこれが自分の部屋だったら間違いなく「よっしゃー!」と絶叫していたに違いなかった。

 これはもはや運命なのだ、とさえ思った。私は一目散にレジに向かった。

「これ、お願いしますっ!」

 店員がレジを売っている間、私は意気揚々とポシェットから財布を取り出し……。

「あれっ?」

 そこにあるはずの財布がなかった。私はもう一度ポシェットの中を隅から隅まで覗き込んだ。右から左へ、そして今度は手でかき分けながら探したが、やっぱり財布はポシェットの中のどこにも見当たらなかった。いや、そんなはずはない。

 突然ザワッと胸にこみ上げる不快な感覚が私を襲った。

 私は一つ深呼吸をしてから、改めてポシェットの中をまさぐった。ハンカチ、ポケットティッシュ、定期券、家のカギ、携帯電話……一つずつ念入りに確認するが、やっぱり肝心の財布だけが見つからなかった。もともと財布が入るようなポケットなど付いていないブラウスやスカートも念には念を入れて調べたが、やはり結果は同じだった。

 冷静になろうと、深呼吸をした。深呼吸をしても落ち着く気配もなく、心臓はバクバクと激しく脈打ち、呼吸をするのが辛かった。次第に目の前が真っ白になっていった。

 最後に財布に触れたのがいつだったのか、時間を逆戻ししながら思い出そうとした。ランチの時は紀子のおごりだったので財布には触れていない。それ以前ではソックスを買ったお店だ。でもその時もちゃんと財布をポシェットにしまったような……だめだ、正確に覚えていない。確実にポシェットにしまったと言い切れるだけの確信がなかった。

「ゆかり、どーした?」

 遠くから見ていた紀子が私の挙動不審な行動に気付いて、歩み寄ってきた。

「ゆかり?」

 私は紀子の顔を見た途端、それまで我慢していた感情が発露した。

「財布がないの!」

 私の両目からポロポロと涙が溢れ出した。

「どうしよう……財布がないよ……」

 紀子が表情を変えなかったのは動揺する姿を見せて余計に私を不安にさせないための心遣いだったのかもしれない。

「わかった」

 短くそう言うと彼女は店員の方に向き直った。

「それ私が払います」

 不安そうに私達を見ていた店員の顔に再び笑顔が戻った。

「ダメだよ、何から何まで紀子ばっかりに払ってもらっちゃ……」

 紀子は私の声を無視して、店員に促した。

「いいです。私が払いますから包んでください」

「えーと、1万4800円になります」

 紀子は黙ったまま手を差し出して私を制した。そして自分の財布の中から一万円札と五千円札を抜き取った。

「ダメだよ……」

 会計を済ませると紀子はワンピースの入った手提げ袋を私に渡し、勢いよく店の外に出た。

「さぁ、これからあんたの財布を探しに行くよ!」

 私達はビデオを逆再生するように、これまで通った道のりを戻っていった。立ち寄ったお店では店員に財布の落とし物がなかったかを尋ね、店内を隅々まで探し回った。

 紀子も荷物を店の隅に置いて一緒に探してくれた。彼女の真剣な表情を見て、私の中にあるわずかな良心が痛んだ。

 もし、私が超能力者だったら――。またそんな思いが脳裏をよぎった。

 私に超能力があれば。そうすればなくしたモノもすぐ見つかるだろうし、その前に財布をなくさなかったかもしれない。紀子にも迷惑を掛けなかったはずだ。

 あぁ、超能力者になりたい。

 二人が立ち寄ったお店を全て回り、歩いた通りを何度も往復したが、結局財布は見つからなかった。長い間中腰で探していたせいか、背中から腰がバキバキに固まってしまった。それ以上に財布をなくした絶望感の方が私には辛かった。

「交番に届け出よう」

 紀子の表情にも疲労の色が浮かんでいた。私はもう返事をする気力すらなくなっていた。


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