カレー大好き桜子さん――仙川 線路沿いの小さなカレー屋さん
『先の踏切内に人が立ち入ったため、現在安全確認を行っております』
車内アナウンスが告げるのを耳にして、桜子は本を閉じ、顔をあげた。
平日の昼間である。京王線各駅停車新宿行きの車内は、がらんとしていた。まばらな客は、ギターケースを持った茶髪の青年と、主婦らしき中年の女性、そして仲良く腰かけた老夫婦くらいしか見当たらない。
ここに、取引先へ向かう途中の営業マンなどがいたら残念なことだが、幸いにして慌てた様子の乗客は見当たらなかった。桜子は、他の乗客同様、すぐに視線を落とし、読書を再開する。
桜子にはひとつ、哀しい出来事があった。
府中駅構内のC&Cが、とうとうラッキョウの無料サービスを終了させてしまったのである。
C&Cは京王線沿線を中心に展開されるカレーショップだ。28種類のスパイスをブレンドしたカレーの味わいは安定感があり、何より卓上にて無料に供される福神漬けとラッキョウが、桜子の舌を満足させていた。C&Cのラッキョウはごろっとした大粒のもので、これをカレー皿の脇の5、6個並べるのが密やかな楽しみだったのである。
が、最近は原料価格の高騰やら何やら。ラッキョウの無料提供を行う店舗が減り、そしてとうとう先日、公式ホームページで“一部を除く全店”で、ラッキョウの無料提供を停止するという旨が、公式ホームページにて達せられた。
無念。そのひとことである。
京王レストラングループがある府中ならばあるいはと思い出向いたのだが、やはりここでも、ラッキョウの無料提供は終了していた。
是非もなし。それがお上の決定なら仕方ない。
桜子はせめてもの供養のつもりで、1皿40円となったラッキョウを5皿ほどカレーに沿え、その後高幡不動の方まで赴いて用事を済ませ、そしてその翌日、こうして帰っているというわけだ。
昨日は、京王線沿線の全店舗を回ってラッキョウを探す気概に充ち溢れていた桜子だが、今の心根はただただ、空虚であった。
『お客様にはご迷惑をおかけして、大変申し訳ありません。当列車は仙川駅にて、停車中です』
再度アナウンスが流れる。同時に桜子の小腹が、くぅ、と鳴った。
「仙川……。仙川かぁ」
開きかけの文庫本に視線を落とす。
先日、まさかのアニメ第4期の放映が決まったライトノベルだ。久々に読み返してみたのだが、そういえばこの作品はちょうど京王線沿線が舞台で、学校の最寄駅が“泉川”だった気がする。
聖地巡礼、というわけでもないが、お腹も空いたし、降りてみようかしら。列車はまだ当分、動く気配がないし。
ぱたんと本を閉じて、桜子は駅へと降り立った。
仙川の駅前は、思ったよりもごちゃっとしていた。手前にロータリーがあって、それを取り囲むように商店街が軒を連ねる。いわゆるアーケード街ではなく、縦横に何軒も、色んな店が広がっている形だ。
当然、飲食店もある。右手側にはトンカツ屋さんが見受けられた。左の方に見える看板は、あれは中華料理店だろうか。
「(ま、もう少し歩いてみても良いかな)」
あまり闇雲に歩いてしまうと、訳が分からなくなるから、なるべく線路に沿って。お腹も空いているから距離を歩きたくはない。なるべく早く、琴線に触れるようなお店が見つかればいいんだけど。
しばらく歩いていると、ちょっぴり強めの豚骨臭が、桜子の鼻孔まで届いた。これはラーメンだ。近くにラーメン屋があるのだ。
桜子は、いわゆる二郎系ラーメンであるとか、家系ラーメンであるとかが、嫌いではない。
毎日食べたいとまでは思わないが、生来胃袋は頑丈であるし、傾向としてはオイリーなものが好きだ。
「などと、歩いていると……よく知った黄色い看板が……」
ラーメン二郎仙川店。だが、今はあまり、ラーメンという気分では、ない。
「うーん……」
桜子は腕を組み、ちらりと視線を動かした。
そして、見つけたのである。
「カレーだ」
カレーであった。
ラーメン二郎の2軒隣に店を構えていたのは、カレー屋であったのだ。店構えからしてあまり大きくはないが、軒先に出されたメニュー看板に書かれた『カレー』という文字を目に焼き付けるにつけ、胃袋が『そう、それだよ!』と叫んでいるのがわかった。その瞬間、扇桜子はすべてを理解する。末端神経に至るまでの全細胞が、宇宙の真理のたどり着いたかのような錯覚(ただの錯覚である)を得た。
この瞬間、桜子の胃が欲していたのは、カレーであったのだ。
「ごめんなさい二郎さん、今日は私、ラーメンじゃなくてカレーな気分……!」
黄色い看板に頭を下げると、栗色のポニーテールが跳ねた。桜子はそのまま意気揚々と、カレー屋の扉に手をかける。
「いらっしゃい!」
カウンターの向こうに立つ、店主と思しき男性が声をあげて歓待する。席はカウンター席しかない、本当にこじんまりとした店だった。客は、作業着を着た2人の男性と、上品そうな中年の女性。桜子はその間の席について、そしてふと、カウンターの上に置かれたあるモノに気付く。
小さめの容器に抑えられた、白い小粒のそれが、その時の桜子にはまさに真珠のような輝きを放って見えた。
「(ラッキョウがある……!)」
ラッキョウである。この店ではラッキョウの無料サービスをやっているのだ。昨日の今日でこの店にたどり着いたのは、もはや運命と言っても過言ではない。桜子はカレーの神に見初められているのだ。感謝のあまり涙もちょちょぎれてしまう。
さて、泣いてばかりでは腹も膨れぬ。桜子はメニューとにらめっこをする。二郎をフッてまでここに来たのだ。カレーはしっかり堪能せねばなるまい。
だがこの時、違和を覚える。ハッとした桜子は、すぐさま左右に視線を配った。
今日はラーメンではなくカレーの気分、とばかりにこの店に入り、どんなカレーを頼もうかと心を躍らせる桜子の前に出現したもの。それは。
ラーメンであった。
右に座る作業着のおっちゃんも、左に座るピンクの服のマダムも、なんとどんぶりから麺をすすっている。ここはカレー屋なのに!
どういうことなの、とばかりにメニューに視線を落とすと、そこに踊るは『カレーラーメン』の文字! しかも一番左側に掲載されている。このカレー屋は、カレーラーメンを供する店なのだ。しかも、結構種類が多い!
「(カレー、ラーメン……!)」
これは不意打ちのボディブローだ。桜子の胃袋が欲していたのは、カレーであったはず。だからこそ、軒先に見えたカレーの二文字に対する決断は早かった。カレーラーメンに対する心の準備はできていない。
この店はどうやら、カレーラーメンの専門店というわけではなさそうだ。カウンターにラッキョウと福神漬けがあるのだから、まぁ、そうだろう。メニューにもきちんと、カレーライスが載っている。ベースはチキンカレーとあった。
店内の客が全員カレーラーメンを食べているので面喰ったが、きちんとカレーで勝負を仕掛けてくる店でもあるようだ。改めて、メニューを睨む。
ベースはチキンカレー、その下に親子カレーとあった。更に下へ視線をうつすと、キノコのカレー[イタリア風]なる文字列も気になる。メニューにはそれらのカレーに該当する写真が見当たらず、名前も独特なのでどのようなカレーであるのか想像しづらい。
今更ながら、カレーラーメンも案外悪くないんじゃないか、という気がしてくる。ラーメンの麺をカレー風味のスープに絡めて啜る。味の期待値が想像しやすいし、何より左右に見本がある。トッピングの炙りチャーシューという文句も、心をくすぐってくるではないか。
「(待って、桜子、負けてはダメよ)」
ここでカレーラーメンに流れることは、自身の胃袋に対する裏切りだ。桜子はカレーライスを食べるべきである。
まず順序立てて考えよう。ここのベースは、おそらくチキンカレーと名前のついたカレーだ。鶏肉が入ったカレーを、桜子はまず想像する。次にカレー自体の味付けだが、チキンカレーと聞いた場合、桜子が真っ先に連想してしまうのはインドカレーの定番、バターチキンである。
トマト由来の鮮やかなオレンジにバターの甘味、バジルを散らした芸術的な一皿は桜子の大好物であるが、ここでそのバターチキンを期待するのは間違いだろう。この店は欧風カレーの店であり、しかもカレーラーメンを供している以上、ラーメンにもマッチするカレーが出てくるはずである。それに、バターチキンはあんまり白米に合わない。
よし、イメージできた。鶏肉の入った欧風カレー。
となると、それだけでは物足りなくなってくる。ベーシックな味わいを損なわない、プラスアルファが欲しい。
キノコのカレーは[イタリア風]という文字が、興味をひくと同時に不穏な印象を浮かび上がらせる。これだけはまったく想像がつかない。一方で、親子カレーは簡単だ。チキンカレーに卵を添えたものであろう。
オムカレーというものがある。桜子にとっては因縁深いカレーだ。
ちなみにC&Cではド定番のメニューでもあり、昨日はこれを食べてきた。
親子カレーという文字列が想起させるのは、日本の食文化が生んだ傑作、親子丼だ。溶き卵にそのまま火が入って生まれる、親子丼のふわっとした黄色は、どこかオムカレーのそれに通じるものがある。
というと、親子カレーは、チキンカレーにオムをトッピングしたもの、になるのだろうか。おおよそ、イメージが膨らんでくる。箸から逃げていくほどに絶妙な柔らかさの卵を、カレーと一緒にすくっていただく。悪くない。
なるべく正しい方向で、イメージを膨らませることは大切だ。その上で、自分の胃袋が求める最適のカレーをチョイスする。
まだはっきり固まったわけではないが、空想上の親子カレーもなかなか悪いものではない。これで良いかな、と思いかけたまさに時、桜子の視界には余計な文字列が入ってくる。
桜色の唇から、思わず言葉が漏れた。
「特製……カツ、カレー……」
右隣の作業着のおっちゃんが、怪訝な顔でこちらを見ていた。
特製カツカレー。メニューには確かにそうあった。
少ない情報を繋ぎ合わせ、カレーのイメージを膨らませていた桜子にとって、この7文字はまさしく言葉の暴力にも相応しいものである。
カツカレー。カレーにカツが載っているというだけの、極めてシンプルな、しかしあらゆる意味での頂点を極めるカレー。日本のカレー文化が生み出した原初のマリアージュにして、その豪奢さからおいそれと庶民を寄せ付けない絶対の頂。
ふんわりとした衣は、歯をたてればサクリと音を鳴らすだろう。カレーに浸せばしっとりと濡れ、また別の側面を覗かせるだろう。古今東西どこを廻ろうと、カツレツほどカレーの高級感を際立たせるトッピングは存在しえない。衣から染み出す油すらも、カレーは包容力を持って受け止める。この時彼女の脳内では、衣を噛むサクリサクリという音と、カツを揚げる油の音が、幻聴となって渦巻いていた。
桜子が脳内で築き上げた貧困なイメージ図などは、伝統に裏打ちされた破壊的な情報量の前に、ただただ無力に流されていく。カツカレーとは、それだけのパワーを秘めたカレーであるのだ。
桜子はすぐさま、トッピングの中にカツを探した。桜子の理性はなんとしても、脳内で築き上げた親子カレーのイメージの『答え合わせ』をしたいのだ。だから親子カレーを頼むことは、ほぼほぼ既定路線となりつつある。
だが、そこに突如として現出した『特製カツカレー』は、その桜子の理性をたやすく揺るがしていた。もしトッピングにカツがあるのなら、親子カレーにそれを組み合わせることで、カツの暴力から脱する心積もりだったのだ。
だが、トッピングの中に、カツはなかった。炙りチャーシューはあったし、これもかなり心を惹かれたが、これ以上ブレていては思考の迷宮に囚われる。炙りチャーシューの誘惑を振り切って、桜子の脳内はカツにのみフォーカスを合わせる。
トッピングの中に、カツはなかった。
しょうがないよね。特製だもんね。
そう、この“特製”がダメだ。もし、ここに書かれていたのが単なるカツカレーであったなら、桜子の心はここまで揺れなかっただろう。
カツカレーと、特製カツカレー。この両者の間には、容易に飛び越えがたき溝が存在する。“特製”の二文字が意味するのが“カツ”であるにせよ、“カレー”であるにせよ、あるいは“カツカレー”であるにせよ、そこにのみ、絶妙なイメージの空白が存在する。日本人ならば今までに幾度と食べてきたであろうカツカレーへの信奉と信頼を盾に、『だがこれはただのカツカレーではないぞ』『何がどう違うのかは教えないけどね』などという高慢な態度で押し迫るのが、“特製”の二文字なのだ!
そして、ここに生じる不安定さ、イメージの空白部分は、カツカレーへの絶対的安心感を揺るがし得るものではない。
如何に奇をてらおうと、結局はカツカレー。期待の範疇を一足とびで越えて行き、その信頼を裏切るようなものでは決してないはずなのだ。
なんという言葉のレトリック! 特製という日本語に秘められた、恐るべき罠!
桜子はメニューを持ってぷるぷると震えていた。
ここで、特製カツカレーに身をゆだねるのは簡単だ。
だが、ここで安牌に逃げ、店を発つには、あまりにもメニューが魅力的に過ぎた。
そう、魅力的に過ぎたのだ!
なんとかイメージを膨らませた親子カレーに、いまだに全容がまったく見えてこないキノコのカレー[イタリア風]。
そして、なぜかカレー屋なのにカレーよりも頼んでいる客が多いカレーラーメン。おそらくカレーラーメンのトッピングとして生み出されたであろう、炙りチャーシューのすきっ腹をまさぐるような文字列もまた、悩ましい。うどんとも異なる独特の味とコシを持つ麺に、スパイシーなカレーのスープを絡めて食べる。それもまた、魅力的な提案だ。
桜子は、またいつかこの店に足を運ぶ。確信めいた予感があった。
で、あればこそ、ここは安全策に逃げられない。桜子が今するべきは、メニューに仕掛けられた謎を解き明かし、次回来店の際の悩みのタネをひとつ減らしておくことだ。ここで特製カツカレーを選べば、桜子は永遠に、カツの呪縛に囚われたままだ!
「すいません! この親子カレーをひとつ!」
「はいっ、親子カレーですね」
言った。
その瞬間、桜子の脳裏には、いくつかの誘惑を撃ち破ったという、確かな達成感が滲み出していた。
同時に、改めて周囲を見回す心の余裕が出てくる。メニューの右上には、『料金前払いのため、注文時にご精算お願いします』と書かれていた。なるほど、この小さな店とはいえ、おそらく店主ひとりで回しているのだ。お客でごった返す時間などは、注文時に料金を支払ってもらった方が混乱も生じにくい。
この料金システムは、店が繁盛していることの証左とも言えるだろう。桜子は財布を取り出し、カウンターの上に小銭を並べた。
親子カレーが出てくるまでの間に、作業着のおっちゃん2人が空の器をのこして店から出ていく。スープも飲み切って、白い器は底を覗かせていた。
「はい、親子カレーです」
「あっ、ありがとうございますっ」
カウンター越しにとん、と置かれた白い器を、桜子は喜々として受け取る。そして中を見た瞬間、少しだけ、首を傾げた。
「(あら、ゆで卵……)」
黒々としたルーに乗っかっている卵は、溶き卵を炒ったオムレツとは、また異なるものだった。
いわゆるゆで卵だ。黄身はややしっとりさを残しているが、ほぼ完熟。親子カレーにおける子とは、ゆで卵であった。
イメージのニアミスだ。オムレツを期待していた桜子は、ほんのちょっぴり肩を落とした。
「(ま、卵はカレーの主役ではないものね)」
そんなことを思って、自らを納得させながら。
親子丼の親の方は、かなり分厚い鶏もも肉がどんと乗っかっている形だ。こちらは期待を裏切らない。器は深皿ではなく、広々とした器にルーが張っている形だ。ライスはこんもりと山状によそわれていて、カレーの海に取り残された孤島、といった趣である。
桜子はまず、カウンターの上にあるラッキョウを5、6個、カレーの隅に並べてから、スプーンを手に取った。
黒いルーはさらさらとして粘土がない。スープカレーを思わせる。これに対してつるつるの卵をトッピング、というのは、ルーが絡みにくくて相性が良くないんじゃないかしら、なんて余計なことを考えてしまう。
適度にルーを弄んでから、さっとすくって口に運ぶ。野菜由来と思われる酸味の効いたカレーは、口当たりの良い味わいだ。ヒステリーめいたインパクトの強い味わいではないが、舌にはさっと馴染んで違和感がない。ルーに具はほとんど見当たらないが、しっかり溶け込んでいるのだろう。
ご飯に絡めていただく。口の中にじんわりと溶けていく味だ。鶏もも肉はずいぶん柔らかく煮込まれていて、スプーンで簡単に切ることができた。カレーの味が肉の内側、細胞の一片にいたるまで染み込んでおり、これもまたご飯と一緒に口に運びたくなる。
酸味に誤魔化されていたが、別にマイルドな口当たりというわけではない。辛味は意外としっかりしていて、食べている内に額から汗が出てきた。
「(となると、あとは、卵ね……)」
桜子は、ご飯の山を半分、鶏肉を半分食べたところで、ゆで卵を見る。
別にゆで卵は嫌いじゃない。そのまま食べたって良いと思うくらいには好きだ。カレーのトッピングとしても王道ではある。
「(ま、あんまり気にせず、ゆで卵として楽しめばいいかしら……)」
そう言って、桜子はカレールーごと、卵をスプーンに乗っける。ちょうど半分に割ったゆで卵がスプーンにまるまる乗っかるくらいの大きさで、ちょっと可愛らしい。
ゆで卵を半分齧った時点で、桜子は首を傾げた。
不思議な食感。それに、思った以上に、卵の表面にルーが絡んでいる気がした。
「(これは……!)」
桜子が卵をひっくり返すと、その表面には焦げあとがついている。薄く衣を貼って、さっと揚げたあとだ。
ただのゆで卵だと思っていただけに、この工夫には驚嘆した。確かにこうすればカレールーも絡みやすくなる。些細な気遣いを忘れない、匠の技だ。
こうなると、食事も楽しい。当初生じたイメージのニアミスなどすっかり気にならなくなり、桜子はカレーを楽しんだ。
まるまる一皿食べ終わると、腹七分目といったところでちょうどいい。アッと驚くようなインパクトはなかったが、ほっとするような味のカレーだった。親子カレー。正解だったのではないだろうか。
さて、ここで席を立って外に出ても良いのだが、桜子はメニューを睨みながらある疑問に思索を巡らせていた。
メニュー表の料理名の前に、ふたつの記号がある。◇と★だ。
たとえばチキンカレーは『◇チキンカレー』で、親子カレーは『★親子カレー』となっている。交互かと思えばそうでもなく、その並びに規則性は見いだせない。桜子は首を傾げつつ、厨房の奥に引っ込んだ店主を呼びつけた。
「すいませーん!」
「? はーい」
食事を終え、料金を払い終わった客から呼びつけられることを不思議がりつつ、店主はこちら側に出てくる。
「この◇と★って、なんですか?」
呼びつけてまで尋ねることではないかもしれない。が、気になるものは気になるのだ。せっかく美味しいカレーを食べたのだから、すっきりした気分で帰りたい。
「あ、えっと。一応ですね、★がオススメメニューってことになってます」
「(ほほう)」
桜子は再度、メニューに視線を落とす。期せずして、桜子はおすすめメニューの親子カレーを頼んだというわけだ。
ではもう一つ気になっていたキノコのカレー[イタリア風]はどうなのかと思って見てみると、これもまた★がついている。
「あ、じゃああの。代金はこのままでいいんで、キノコのカレーっていうの少なめで貰って良いですか?」
気が付いたら口から先にその言葉が出てしまっていた。
「? はい、わかりました」
店主の怪訝そうな顔が網膜に焼き付き、桜子はそこではっとする。直後、両手で額を覆う。早まったかしら?
今の腹具合は七分目ほど。なんとなく、物足りないと言った具合だ。だが、ここでカレーの追加注文はさすがにはしゃぎすぎではないだろうか。隣のマダムもちょっと訝しげにこっちを見ているし、白昼堂々メイド服でカレー屋に入り、1人で2皿も注文するなんて奇人以外のナニモノでもないのではないかしら?
なかば条件反射的に頼んでしまったメニューだが、もちろん理由はある。
桜子は考えた。次回来店の機会があったとすれば、自分は一体、何を頼むだろうか、と。
親子カレーは美味しかった。カレーラーメンや特製カツカレーも、頭を悩ませる良いメニューだ。
だが、食事を吟味する際、そこに正体の判然としないメニューがあるということは、それだけで思考の負担となり得るのだ。この際、すべての謎を解き明かしたい。キノコのカレー[イタリア風]の品名に冠された、イタリア風の真意を探りたい。
そう思えばこそ、桜子の口は勝手に動いていた。
頼んでしまったものを引っ込めるわけにはいかない。桜子は意を決し、財布から取り出した千円札をカウンターに置いた。
イタリアカレー、というものに、桜子は心当たりはない。ヨーロッパでカレーと言えばイギリスだ。イタリア風のカレーとは、いかなるものであるのか。★がついているということは、店主もオススメの1品ということだから、みょうちきりんなものが出てくるということも、無いだろうが。
「キノコのカレーです。どうぞー」
つり銭と共に、白い器が桜子のもとに置かれる。少なめでいい、と言ったのに、量があんまり変わっていないように見受けられた。
「こ、これが……イタリア風……!?」
思わず声に出してしまって、店主とマダムにまたも怪訝そうな顔をされた。顔を真っ赤にして小さくなる。
だが、それは確かな驚嘆をもたらす一品ではあった。
黒いさらさらカレーの中に浮かぶキノコはおそらくマイタケ。火を通してあり、香ばしい風味が鼻孔をくすぐる。だがそれだけではなかった。浮かび上がるトマトの赤、そしてトロトロに溶けたチーズの黄色。
鮮やかなのは色彩だけではない。マイタケとチーズの香りに混じって届くのは、フライドガーリックの力強いフレーバー。そしてその上から散らした、バジルの緑。
先ほどとは打って変わって、五感を全力で驚かせにかかるキノコのカレー[イタリア風]。親子カレーの時に感じた堅実、実直なカレーの姿はもはやそこにはない。
「(これは、確かに……イタリアだわ……!)」
日本人のイメージする、カリカチュアライズされたイタリアが、まさしくカレーの上に鎮座していた。
トマトとチーズがあれば、日本人にとっては確かにそれはイタリア風だ。ガーリックもあるので鉄板と言って良い。イタリア人に怒られそうだが。
スプーンでルーをすくうと、チーズが糸を引いてカレーの黒を弄ぶ。口に運ぶと、先ほどの親子カレーの時に味わった酸味のあるカレールーに、チーズの甘味が混じり合った。
「(本能に任せた2品目は……間違いじゃなかった……!)」
1皿目でこの店の実力をたっぷり堪能した後で、独自の工夫を凝らした驚きを味わう。贅沢なカレーのフルコースだ。
トマトの水気と、マイタケの歯ごたえ。フライドガーリックの風味も良い。今度はラッキョウすら乗っけずに、どんどんスプーンが進んだ。
半分ほど食べた時点で、さすがに胃袋が重くなる。が、桜子は一気に完食した。
「ごちそうさまでしたー!」
「ありがとうございまーす」
黄色い縁の扉を押して、桜子は店の外に出る。腹は重いが晴れやかな気分だ。次にこの店を訪れた時、桜子は確かなイメージの中で、余裕を持って注文に臨むことができるだろう。
カレーラーメンか、特製カツカレーか。親子カレーの堅実な実力者っぷりと、キノコのカレーのイタリアンな感じも良かった。今から選べと言われたら非常に迷うが、この迷いは心地の良い迷いである。
「さってと。そろそろ電車も動いてるかなー」
フェンスごしに割り堀の京王線と仙川駅を眺めると、ちょうど新宿行きの特急列車がレールの上を駆け抜けていくところだった。