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雪片

作者: 癸史 梨香

読み切り短編小説です。


感想、評価等お待ちしております。

 純白のウェディングドレスを着るには、もうとっくにその適齢期を過ぎている。とんだ病に見舞われた三十代の最後という歳を華湖(はなこ)は恨んだ。二十代半ばでおめでた婚をした女も、合コンで知り合った証券マンと派手婚をした女も、お見合いで親に言われるがままひっそりと納まるべきところへ納まった女でさえ、オフホワイトなり、生成りなりのドレスに包まれて、それぞれの男の元へと嫁いでいった。

華湖はそんな友人達を羨んでいた時期もあったが、今はそうでもない。ここまで来ると、寧ろ気持ちの良いものだ。いい歳をした女が一人、誰からも縛られずに自分の生活を全うしている。離れ小島の無人島にこそ、珍動植物の発見と驚きに満ちているというものだ。

 来月のクリスマス・イヴが、ついに四十の(みち)へのチケットをくれる。チケットだなんて小洒落ているが、待ち遠しくはない。術後の経過診察の為病院へと車を走らせながら、友人達の輝かしい白のドレスを思い出していると、チラチラと白いものを視界に捉えた。今年の初雪だ。フロントガラスにピタリと張りついたかと思うと、じんわりと解けていった。初雪というものはいつも、ゆっくりひらひらと舞い落ちては、すぐに解けゆくものなのだ。


 華湖は、今年の春に乳癌と診断された。

テレビを見ながら(ぬる)めのハーブティをゆっくりと口に運び、就寝前のリラックスタイムを楽しんでいたある夜に事件は起きた。来たる四十路へ備え、それが毎晩の日課であるバストアップマッサージをしていた時だ。褐色の液体が左胸からポトポトとこぼれ落ちてきたのである。母乳にしては随分と色づきが良いし、それより何より自分は産婦ではない――。「褐色 液体 胸」とスマホの検索枠に入れた途端、華湖は冷静さを奪われた。「乳癌」「乳癌」の文字……。年に一度か二度風邪はひけど、大病をしたこともなく自分は健康体であると信じ込んでいた。血の気も引いた震える手で、必死にその可能性を否定した記事がないかと探したが、どのサイトを開いても、目が捉える文字は一緒だった。

バクバクと鼓動する心臓を抑えられぬまま、この町で腕の良い婦人科を、今度はパソコンを開いて本格的に検索した。すると、

「雪のかたまり解かします」

という謳い文句が目に入った。「丘の上レディースクリニック」へリンクしている青い文字をクリックすると、背景がピンク色のホームページ上部に、白く丸みのある字体でそう書かれていた。病院の外観写真、住所、電話番号、院長の名前があるだけで、他には何の情報もない。妙に情報に乏しいそのクリニックが、華湖は気になった。更に病院の口コミを調べてみると、

「この病院を選んで良かったです。女性としてまた希望が持てました」

「先生に感謝しています。今は洋服のオシャレも楽しんで、女らしく生きています」

 そんな喜びの声が綴られていた。聞いたこともなかったが、どうやら腕は確からしい。

 幸い、翌日は仕事が休みだった。「丘の上」という名前の通り、小高い所にそれはあった。

 問診と診察、検査を受け終え待合室で待っていると、再び「雪のかたまり解かします」の文字と出会った。受付カウンターの右端に、事務員さんの手作りらしい小さなポップでそう掲げられていた。その眩しい黄色の文字さえ、遠い世界のもののように見える。健康を色で表すならこういう色だろう。そうしている内に診察室へ呼ばれた。いよいよ覚悟の時か――。こんなにも、この世の終わりに臨むような気持ちで診察室に入ったことはない。

中に入ると、じきに古希を迎えるであろうおじいさんドクターが、マンモグラフィの画像を拡大しながら口を開いた。

「いやあ、おめでとうございます! 乳癌ですよ、乳癌! 早急に手術しましょうねェ!」

 医者は、笑みを含んだしゃがれ声でそう告げた。この歳にして初めて婦人科の門を叩き、何の躊躇(ためら)いもなく言われた言葉が「乳癌」――。それも、かなり陽気な口調でだ。

生きるか死ぬかという大病を宣告する瞬間だというのに、何故「おめでとう」と言われなければならないのだ――。華湖は面食らっていた。

 この医者は、名を倉木(くらき)といった。この町に婦人科を開業して三十年のベテラン医である。大病院には負けるが、個人院にしては設備の整った大きなクリニック。深いシワと、歳の割にサラサラとしたグレイの髪。そこから覗く額の大きなシミが、腕の尺度を物語っていた。

「手術をすれば良くなりますからねェ!」

 倉木はニコニコとしていた。

「はあ……」

すぐに手術が必要だという言葉とは相反する倉木の態度が、華湖を惑わせた。「良くなる」とは言うけれど、完治するものなのか。これからのこと、手術のこと、仕事のこと、それから――女の象徴がどれだけ失われるのか――。問いたいことはうんとあったが、倉木の態度は華湖の口に開く隙を与えなかった。倉木は、画像と睨めっこしなながら、相変わらずの口調で話を続けた。

「ここに小さな雪玉みたいに白く写ってるの分かるかな? これねえ、癌だとこういう風に写るんだよねぇェ!」

 画像上に、癌というキーワードがリアルに映し出されている。重大なニュースだというのに、ニコニコした倉木の表情に華湖はすっかり圧倒され、苛立ちさえも覚え始めていた。

が、すぐに華湖はハッとした。「雪のかたまり解かします」の言葉と、先程見せられた画像とが、昨晩の謎を一気に解決したのだ。毛糸の手袋についた小さな雪玉のように写っていた癌細胞。「雪のかたまり」とはそういうことか――となんともメルヘンで洒落っ気のある言葉に、倉木への苛立ちと不信感も自然と溶けていった。

「びっくりしたでしょう。先生、乳癌の患者さんにはいつもああなんです」

 診察室を出ると、白衣に身を包んだ看護師が声を掛けてきた。先程、診察室で倉木の側についていた看護師の一人だ。

「患者さんの気持ちを軽くしようっていう先生なりのやり方なんですよね。癌だなんて、経験しようと思って出来るものじゃないから」

「はあ……まあ、そうですよね、確かに」

「他人が経験しないような困難を経験してこそ、人間大きくなれるもんだよ。って先生はいつも言うんです。だから、癌を経験できるのは、当たりくじを引いたようなものだと患者さんには思っていて欲しい。それが先生の考え方です。癌と聞いて絶望してしまうのは人間の正常な心理ですよ。でもね、それは保っていてはいけない正常なんです」

その名を生明(あざみ)という看護師は、白衣の天使と呼ぶにはこれまた適齢期をとうに過ぎているようだったが、「保っていてはいけない正常」という言葉が大きな説得力を含んでいて、華湖は不思議と晴れ空の気分で病院を後にした。


 それから一か月半後、手術が行われた。

「昔と違ってねぇ、今は全切除しないで、乳房をできるだけ温存しようっていう方法が確立されてきているんだよ。幸い、癌細胞も小さいし、今回は部分切除で済みそうだから、安心して。胸の形が少し小さく凹むくらいだよ。ただ、今発見できないような小さな癌がないとは限らないから、術後は放射線治療もしますからねェ! 私が執刀するから大丈夫だよ。安心して下さいねェ!」

 もうこの口調にも慣れていた。倉木という医者を信用することが、最善の治療法だと思うようになっていたのだ。

 

 手術から半年以上経ち、今は術後の経過と放射線治療の為に通院を続けている。勿論、倉木の病院へとだ。

「あら、華湖さん。調子はどうかしら?」

 生明ともすっかりと打ち解け、華湖は丘の上レディースクリニックのまるで常連だった。

「傷口は治っているのに、時折まだ痛いような気がします。でも、最近はだいぶ調子がいいみたい。ヨガ教室にも通っていますから」

「あら。それは何より。ところでね、これ。華湖さんも、どうかしら」

 彼女は笑みを浮かべながら、華湖にパンフレットを手渡した。見開き一枚の小さな紙だ。

「白雪姫の会……? 何ですか、これ」

 そこには色とりどりのドレスを着た女性達が笑顔で写っていた。年齢層は様々である。よくよく見ると、見知った顔も写っていた。

「これ、生明さんじゃないですか?」

「バレちゃったかしら。実は、もう何年も前の話だけれど、私も乳癌を経験して克服したの。それでね、これは、そういう女性達が集まって、年に数回、お姫様のようにドレスを着て会食をして集う会なのよ。白雪姫のように白く美しい女性を目指して!」

「それで白雪姫、なんですね」

「実はみんな、ここの患者さん達なのよ」

 一部であれ全部であれ、女の象徴を喪失した経験の持ち主同士、その形を気にせずに姫君気分でドレスを着て、女らしさを楽しもうという目的の集いらしい。元々、この病院主催で始まったものだと生明は説明した。

 翌月のクリスマス・イヴ。華湖は年甲斐もなく黄色のドレスを借り、心臓に早鐘を打たせながらその会へ足を踏み入れた。色とりどりのドレスが、会場にいっそうの花を添えている。真っ赤な装いの生明が華湖に気付いた。

「華湖さん、お似合いよ。元がいいものね。手術痕も全く気にならないじゃない?」

 華湖は自分の心が躍っているのが分かった。胸の雪の欠片も解け、今は、黄色が自分の

身体に相応(ふさわ)しい色だと思えるのだ。


お読み頂きありがとうございました。


これからも作品作りに日々精進して参ります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめまして梨香様、見事に丸っと完成された作品ごちそうさまでした。 うまくまとめられあげていて、精進するのは自分だなと痛感させられました。 [気になる点] せっかく雪を取り込んだ話だった…
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