花の名前
女が両手で足る年齢であった頃、見せてもらったのは男の家の家宝ともいえる代物だった。
見たのは一回きりで、でも、いつまでも覚えていた。不思議な花瓶。壺に近い形をしたそれは、内も外も底さえも色とりどりの花びらに囲われて、それ自体が花のようだった。
その花瓶をこっそり持ち出して来た、五つ年が上といえども、同じく子供であった男は、女に
「この花瓶は花を食べて、自分に色を移すんだぞ」
と言うと、手にした白い花を花瓶に挿した。すると、たちまち花は枯れ、そして花瓶に一点白い花びらが浮かんだのである。驚いて顔を上げれば、自慢げに目を輝かせた男と目が合った。
「な、すごいだろ」
嬉しそうな声に、女もすごいすごいと手をたたいて喜ぶ。男の母親に見つかって叱られるまで、二人は花を入れあって花瓶を染めるのを楽しんだ。懐かしい思い出。
それっきり花瓶は見せてはもらえなかったが、女は忘れずにいた。珍しく兄のいない、二人だけの思い出だったから。忘れずに大人になり、そしてある時、あの花瓶をまた見せて欲しいと男に頼んだ。
はじめ渋っていた男も、女が何度も頼むのでとうとう折れて、一度だけと念を押して女に見せることにした。
卓もない部屋には花瓶と女しかいなかった。男も、男の妻も、席を外してくれていた。
桐箱から出され、女の目の前に置かれた花瓶は思い出のまま鮮やかに様々な色に満ちていた。懐かしさに、自分が、男が、染めたかもしれない花びらを探そうと、顔を寄せてしまう。
触れぬようにと気を付けていたのに、視界を塞ぐように垂れてきた髪に意識を取られ、花瓶の縁にかすかに唇が触れた。
屈みこんでいた体をわずかに起こし、花もこの冷たさを感じたのだろうかと、女は思った。
水のない花瓶の暗い底に向けて、そっと息を吹き込む。花瓶の中で、女の息は渦巻いて沈み込んだ。まぶたを閉じれば、身の内に巣食う赤い花が見える。朽ちることなく咲き続けたその花は、あまりにも大きくなりすぎてしまった。
咲いていると伝えなかった花は、伝えられなくなって、それでも摘み取れず、ひっそりと咲かせていた。けれどもう、咲かせ続けるのが無理になってしまった。
赤い赤い、女しか名前を知らぬ花。
指先に一抹の未練がともる。きしりと爪に畳が食い込んで、鈍く痛んだ。畳が傷つかぬように、指先から力を抜く。それだけの行動が、女には難しくて時間がかかる。
これ以上未練に捕らわれてしまわぬうちに、女は自分だけの花の名前を囁いた。
形ある花と違って、活けることは出来ない。名前で駄目ならば、己の血肉を捧げてもいいとさえ覚悟していた。それほどに思いつめていた。
けれど、名を告げただけで、花瓶は女の願いどおりに目に見えぬその花を喰らってくれた。
花瓶の色とりどりの鮮やかな胴に、赤い染みがにじんだ。最初は一点の染みだったのが、時が経つごとに大きく広がってゆく。青も黄も紫も薄紅も、全てが赤に染め上げられてゆく。
そうしてすべてが赤く染まるころ、女の中に咲き続けた赤い花は、ようやく花弁を散らし始めた。
散る花を名残惜しむように、ほう、とため息を吐いた女の顔は誰にも見られることなく、常の表情に戻った。
花嫁は枯れた花の残骸を胸に抱いて、遠くへ嫁いで行く。
赤く染まった花瓶を男に残して。