冬の願いごと(1)
すこし開いた窓から、目が冷めるような冷たい風が入り込んできました。
一週間前に降った雪が田んぼに残っていて、その表面が溶けてきらきら光っています。人も車も通らない田園風景を一台の車が走っていました。幸一は助手席に座り、窓の外を眺めていました。
「幸一、窓は閉めなさい」
ハンドルを握ったまま、幸一の父さんが言いました。幸一は黙って窓を閉めました。父さんはそれを確認すると、目の前の山を指さしました。
「見えてきた。あの山だぞ」
そこには真っ白な雪に覆われた小さな山がありました。
幸一は膝の上に抱えた大きなボストンバッグをぎゅっと抱きしめました。
とうとう着いてしまった。
石の固まりでも飲み込んだみたいに、ずっとお腹が重かったのですが、それはその山を見たとたん、我慢出来ないほどになりました。
車を走らせながら、父さんは山にある家について話し始めます。
家はとても広いぞ。
暖房があるから寒くはないぞ。
ただじっとしているだけでいいんだ。
幸一はその話をほとんど聞いていませんでした。聞いても、その言葉は頭に残らずどこかへ消えていってしまいます。
父さんは幸一の反応は気にせず、こう言って笑いました。
「たった一週間の辛抱だ。昔から決まった家のしきたりだからな。がんばれよ幸一、ははは」
家のしきたり。
幸一は落ち込んでいるのを悟られないように、精一杯返事をしました。
「うん、わかったよ」
嫌な事でも、納得していない事でも「うん」と言わなければならない。幸一はずっとそうやってきました。
家に一人で寂しくないか。
友達はいるか。
学校は楽しいか。
その全部の質問に、幸一は本当の答えとは反対の「うん」を返していました。
その小さな嘘には誰も気づいていませんでした。
やがて幸一の乗った車は、山間の寂れた休憩所に止まりました。ドアを開けると、刺すような冷たい風が吹いてきます。
「それじゃ、幸一。がんばるんだぞ。一週間後、この場所に迎えにくるからな。くれぐれも道に迷わないようにな」
父さんはそう言って車で走っていってしまいました。ここから先は幸一一人で行かねばなりませんでした。
◇◇◇
幸一の家に生まれた子どもは、みんな変わった目を持っていました。
父さんも、母さんも、兄さんも、全員その目を持っています。
それは「人の願い」を見ることが出来る不思議な目です。その目には、人の残した願いがまるで雪の結晶のように見えるのです。
幸一がそれを見ることが出来るようになったのは最近のことです。しかし幸一は自分が時々見えるものが「人の願い」であることをまだ知りません。
幸一はそれをただ気味が悪いものとしか思っていませんでした。
小学校でも、見えないものを見てしまう幸一はみんなから気味悪がられました。幸一がそれを見るとたいてい嫌なことが起きるからです。だから幸一は時々見えるその光をとても嫌っていました。
そして、その光が見えるようになってから一年以内に、ある山で一週間、一人で過ごさないといけません。それは幸一の家のきまりでした。幸一が泊まる山小屋には管理人さんがいるらしいのですが、その人は一日に一度、様子を見に来るだけです。
幸一は一週間もの間、誰もいない家で過ごすのが嫌でたまりませんでした。
◇◇◇
車を降りた幸一は、凍った雪を踏みしめながら歩いていました。
山道には木々が立ち並んでいます。聞いた事もない鳥の声が聞こえ、幸一の頭に雪が落ちてきました。
「うわっ、冷たい」
幸一は首を振りました。首にも雪が入ってしまったので、幸一はマフラーを外しました。
太陽の光で溶けかけた雪が木の枝から落ちて来たのです。幸一は両手で雪をはたき落としました。雪を落とした幸一は、近くに置いたマフラーに手を伸ばしました。するとその時、幸一の目の前を金色の何かが横切りました。
はっと顔を上げると、目の前に一匹のキツネがいました。
少し雪の付いた金色の毛並み。それは眩しく光っていました。キツネは幸一のマフラーを口にくわえています。
「キツネさん、それ僕のなんだ。だから返して」
幸一は言いました。
それは幸一のお気に入りのマフラーでした。いとこからプレゼントされたもので、普段は照れくさくてつけていませんが、一週間寂しくなると思ったので、今日だけ持ってきていたのです。
キツネはまるで幸一の言葉がわかるように小さく頷きました。しかし、マフラーをくわえたまま走って行ってしまいました。
「あ、待って」
幸一は慌ててその後を追いました。しかしキツネの足は速く、すぐに見失ってしまいました。キツネを見失った幸一は、その場に座り込んでしまいました。
いつの間にか薄暗い雲が現れて、太陽を覆い隠しています。急に風が冷たくなり、視界はどんどん悪くなっていきました。
幸一は立ち上がり、泣きそうな顔をしながら歩きました。あのキツネはどこへ行ってしまったのだろう、しばらく探しましたが見つかりません。いくら歩いても雪の積もった森が見えるばかりです。
やがて雪が降り始めました。雪は風に乗って幸一の体にぶつかっていきます。それはだんだん強くなり、やがて吹雪に近くなっていました。
「うう、寒いよ、もうやだよ……」
幸一がその場で泣きじゃくると、不思議な声が聞こえました。
――ひとりぼっちの寂しい子 道に迷ってどうしたの
それは山全体がささやいているような声でした。
――ひとりぼっちの寂しい子 行くとこないならいらっしゃい
声は目の前にある森から聞こえてきます。
その声につられて、幸一はふらふらとその声のするほうへ歩いて行きそうになりました。
しかしその時、幸一の靴に何かが当たりました。足下をよく見てみると、そこにはさっきのキツネがいました。
「あれ、キツネさん」
キツネは幸一の靴に噛みついて引っ張ってきます。
「僕のマフラーは?」
幸一が言うと、キツネは顔を上げて首を振りました。
そして森とは反対方向へ走っていってしまいました。幸一は慌ててその後を追います。
「ちょっと待ってよ」
吹雪の中、幸一は走りました。
キツネは幸一よりずっと早く雪道を走ることが出来ました。しかし、キツネはまるで幸一が後を追ってきているのを確認するように、時々立ち止まっては後ろを振り返りました。
そうして、キツネとしばらく追いかけっこした幸一は、不思議な家の前に立っていました。
「何だろ、この家……」
それは古く、崩れそうな丸太の家でした。とても大きいのですが、壁はぼろぼろで、所々削れていました。
屋根から大きな煙突が伸びています。それは幸一の視界に入らないくらい、高い煙突でした。
ふと扉のあたりを見ると、幸一のマフラーが置いてありました。幸一はマフラーを拾い上げました。
「よかった、無事だった……」
幸一はマフラーの暖かさを確かめて、首に巻きました。
その時、目の前の家の扉が勝手に開きました。まるで中へ入ってこいと言っているようです。
「ここが父さんの言っていた山小屋なのかな」
幸一は後ろを振り返りました。外は吹雪になっています。幸一は鞄と服の雪を落としてから、そっと家の中へ入っていきました。