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姉の名を呼ぶあなたとは、結婚しません

作者: 歩人
掲載日:2026/10/31

 薔薇の匂いが、ヴェリネの喉に引っかかった。

 侍女のベータが運んできた花瓶から、白い花が顔の近くまでこぼれている。

「ミルドレッド。そこの花を一本、取ってくれるかな」


 ヴェリネは花へ伸ばしかけた手を止めた。

 姉の名だった。一年前に亡くなった姉の。


 窓際の椅子に座るエドムントは、こちらを見ていた。姉の婚約者だった人が、今は自分の婚約者としてこの家を訪れている。


 返事をする前に、ベータの腕の中で花瓶が傾いた。水が縁へ寄る。ヴェリネは底に手を添え、すぐそばの台へ一緒に下ろした。端に置かないよう奥へ押すと、茎の束が揺れた。


「お嬢様、棘が。私がいたします」

「待って。そのまま触ったら刺さるわ」


 台に置いていた自分の外出用の手袋を取った。丈夫な革で、花の支度をするには薄すぎない。


「これを使って。花瓶は私が押さえているから」

「お借りしますね」


 ベータが手袋をはめたのを見てから、ヴェリネは婚約者へ向き直った。


「エドムント様。私はヴェリネです」

「ごめんよ。横顔があまりに似ていたから」


 彼は申し訳なさそうに笑った。そんなふうに笑われると、これ以上言うのは意地悪な気がしてくる。

 それでも、確かめたかった。


「私との婚約なのですよね」

「もちろんだよ。ほら、薔薇を持って。よく似合うから」


 差し出された花を受け取ると、親指の付け根に茎の冷たさが触れた。

 姉は、この花を持つのが上手だった。花びらへ頬を寄せて笑うだけで、そこが絵のようになった。

 ヴェリネは花を顔から少し離した。

 ベータの手元からは、切った茎の青い匂いが上がっていた。




 母が笑うのを見られた。それが、この婚約を受けた一番の理由だった。


 婚約が決まった朝、母のイングリドは冷めていた茶にようやく口をつけた。姉の部屋の扉を開け、長く閉じていた窓も開いた。

 その日から、食卓には母の好きな菓子が戻った。


「お姉様も、きっと喜んでくださるでしょう」


 ヴェリネもそう思いたかった。

 幼い頃、庭で客を迎えるのに飽きてしまった妹を、姉はこっそり水辺へ連れ出してくれた。自分は靴を汚さない場所に座り、ヴェリネが水に浮かべた葉を、いつまでも見ていてくれた。

 姉のことを話して笑える家に戻れたら。母の隣で、その話を続けていけたら。


 けれど、母が姉の部屋から出してきたのは婚礼衣装だった。


「やっと着られるわね」


 母はそう言って、箱の蓋を開けた。




 姉の香水は、花瓶の薔薇よりも甘かった。

 婚約披露の晩餐を間近に控えた午後、母はその小瓶を応接室へ持ってきた。エドムントが栓を抜くと、ヴェリネの前の茶まで別の味になりそうだった。


「髪にも少しつけるといいよ。ミルドレッドはそうしていたね」

「私はつけません。甘い香りは苦手なのです」


 彼の指が瓶の口を塞いだ。


「前は嫌がらなかっただろう」

「お姉様がお使いになるのは好きでした。自分につけるのは、違います」

「君までその香りを嫌がったら、あの人が本当にいなくなる気がするんだよ」


 ヴェリネは膝に置いていた手を動かせなかった。

 姉がもういないと分かる朝は、何度もあった。廊下で扉が開いた時。皿を一枚多く頼みそうになった時。母が姉の名を呼びかけてやめた時。

 彼にもあるのだろう。それは分かる。


「今くらいは、合わせてあげて」


 母が小瓶をヴェリネへ寄せた。


「エドムント様もお辛いのよ。あなたが隣にいてくれるだけで、どれほど心強いか分かるでしょう」


 そこから先を聞けば、また頷いてしまう。

 ヴェリネは卓の栓を取り、小瓶を閉じた。


「つけないとお返事しました。これは、お姉様のところへ戻してください」


 目の前にある茶はまだ温かい。けれど、口へ運ぶ気にはなれなかった。

 閉じた瓶のそばで、母が衣装合わせの日取りを話し始めた。




 古い薄紙と、しまってあった絹の匂い。

 衣装を広げた支度部屋で、ヴェリネは裸足のまま動けずにいた。

 姉の白い裾が床へ長くたまっている。胸も肩も余っていた。ベータが背中の布をつまんでいる間だけ、どうにか服の形になった。


「やはり裾を詰めないといけないわね。歩く時に踏んでしまうでしょう」


 母は裁ち鋏の置かれた台を見た。


「切らないでください」


 ベータの指が止まった。ヴェリネは裾を持ち上げ、縫い込まれた小さな花を見た。姉が選んだ花だ。この長さも、この飾りも、姉のために出来ている。


「お姉様の衣装です。私の寸法に切ってしまうのは嫌です」

「しまったままにする方が寂しいわ。エドムント様だって楽しみにしてくださっているのよ」


 部屋の入口で待っていた彼が近づいてきた。


「髪を結い上げれば、もっとよくなるよ。後ろへ流す形はやめてみようか」


 いつもの髪型まで、もう決まっていた。

 ヴェリネは裾から手を離さずに言った。


「私は自分の服で出たいです。髪もいつものままが楽です」

「今度は衣装が気に入らないのかい」

「この衣装は好きです。お姉様に着てほしかったです」


 声が細くなった。

 嫌だと伝えたのに、姉が好きかどうかを答えている。


「私が着る服は、私に選ばせてください。婚約のお披露目も延期していただきたいです」

「もう招待を送ってあるだろう。皆が待っているんだよ」

「私の話を聞いていただけないまま、お祝いはできません。この婚約を続けてよいのかも、お話ししたいのです」


 エドムントは衣装の袖を指で直した。手首を包むはずの飾りが、ヴェリネの指先まで落ちる。


「そんなに難しく考えなくていいよ。披露は予定どおりにしよう。着てしまえば慣れるから」


 彼が離れるのを待って、ヴェリネはベータへ背を向けた。


「脱ぐのを手伝って。裾はそのままにしておいてね」


 背の留め具が外れた。肩から衣装が下りても、胸のあたりの苦しさは取れなかった。




 土を踏んだ時の匂いが、ヴェリネを庭の奥まで誘った。

 翌日の午後、隣家の子爵レイザートが、母へ招待の礼を届けに来た。帰り際の彼を庭で見つけ、ヴェリネはつい呼び止めた。

 彼は足元から小石を拾い、指の腹で撫でていた。


「まだ、平たい石をお探しになるのですね」

「見つけると拾ってしまうね。川へ持っていくわけでもないのに」

「今はもう、なさらないのですか」

「一人ではあまりね。うまく跳ねた時、誰にも見てもらえないだろう」


 彼は石を花壇の縁へ戻した。ヴェリネは母のいる部屋の窓を見て、それから口を開いた。


「私も行きたいです。ベータについてきてもらえれば」


 母は川岸までの外出を許した。晩餐の前に日に焼けすぎないようにと、それだけ言った。

 ベータは日除けと布を持ち、少し後ろを歩いた。


 川岸には水草の匂いが広がっていた。ヴェリネはしゃがんで、乾いた小石を裏返した。丸いものばかりが手に当たる。浅い水の底には、指で挟めそうな薄い石が見えた。

 靴の留め金を外すと、ベータがそばへ布を敷いた。


「お嬢様、裾はこちらへ。石で滑らないようになさってくださいね」

「ありがとう。あの石を拾ってきます」


 靴と靴下を置き、裾をたくし上げて浅い水へ足を入れる。

 ひゃ、と声が漏れた。足首を洗う水は、思っていたよりずっと冷たい。


「私、岸で拾えると思っていました。靴まで脱ぐつもりはなかったのに」

「そうか。僕は最初から靴を脱ぐつもりだったけど」


 振り返ると、彼も靴を脱いでいた。片手に石を集め、もう片方で裾を持っている。

 ヴェリネは水底の石を拾った。表面の砂を洗い、岸へ戻って指で挟む。


「低く投げるのですよね」

「うん。水の上を滑らせるつもりでね」


 腕を横へ振った。石はすぐそばへ、ぽちゃんと落ちた。


「今のは、跳ねたことになりませんか」

「水しぶきなら跳ねたかな」


 彼は笑って自分の石を構えた。膝を曲げ、腕を大きく引く。

 次の水しぶきは、さっきより高く上がった。

 ヴェリネの口から笑いがこぼれた。彼の濡れた裾に気づくと、また笑ってしまう。


「こちらの方が高く跳ねましたね」

「低くと言ったばかりなのにね。もう一つ試してもいいかな」

「私もまだあります。今度は小さい方で」


 投げる前の格好だけは二人とも立派になった。けれど、石は相変わらず沈んだ。

 レイザートが投げた最後の一つが水面を一度打って、向こうへ小さく跳ねた。


「今、跳ねましたね」

「うん。でも、どうやったのかな」

「もう一度お願いします」


 彼が自分の空の手を見た。ヴェリネも開いた手を見せた。


「私の分も投げてしまいました」

「さっきまで、いくらでもあると思ったんだけど」


 彼の足元を覗き込むと、丸い石ばかりが残っていた。

 岸へ戻っても、笑いは口元に残っていた。

 ベータから受け取った布で足を拭く。彼は離れた石に腰掛け、自分の裾を絞っていた。彼が差し出した包みには、川へ来る途中で庭から分けてもらった菓子が入っていた。


「そちらの丸い方をいただいても?」

「もちろん。どう違うのかな」

「柑橘の皮が入っています。匂いで分かります」


 噛むと甘さより先に、ほろ苦い皮が舌へ触れた。

 彼も同じ菓子を選んだ。一口齧って眉を寄せ、残りをしげしげと見る。


「思ったより苦いね」

「そこがおいしいのに」


 つい言ってしまってから、ヴェリネは食べかけの菓子を下ろした。


「……すみません」

「謝ることかな。僕はこっちの方が好きみたいだね」


 彼が次に選んだのは、四角い菓子だった。割ったところから焼いたバターの匂いが届く。

 ヴェリネは丸い菓子をもう一口食べた。今度は大きな皮が当たり、舌の端まで苦かった。

 次にもこちらを持ってきたいと思いかけ、指の粉を払う手を止めた。


「レイザート様。私はまだ、エドムント様の婚約者です」


 彼は食べかけの菓子を膝の包みへ戻した。


「うん」

「今日、楽しかったから……またと申し上げそうになりました。けれど、その前にしなければならないことがあります」

「そうか。今日はベータさんにも付き合ってもらったね。帰る支度をしようか」


 彼は次の約束を急がなかった。脱いだ靴をこちらへ揃えて、自分は少し先の荷物を取りに行った。

 ヴェリネは靴に足を入れた。

 もう一度、この人と遊びたかった。

 ただ庭へ戻って頷いてしまったら、その望みは口に出せなくなる。




 屋敷へ帰ると、廊下まで薔薇が飾られていた。

 ヴェリネは着替えだけ済ませ、母とエドムントのいる応接室へ向かった。川の菓子を手にした時のようには、指を楽に伸ばせなかった。


「お母様。エドムント様。昨日のお話の続きをさせてください」


 母は花の配置を書いた紙から顔を上げた。


「衣装なら明日までに整えてもらえるわ」

「その衣装は着ません。婚約も考え直したいです。私の返事を聞いていただくまで、お披露目を待ってください」

「だから、着れば気持ちも落ち着くよ」

「着ないという気持ちは変わりません」


 自分でも驚くほど、そこだけはすぐに言えた。

 母が紙を伏せる。


「今から皆様をお断りするわけにはいかないの。明日の席で話しましょう。あなたも必ず来てちょうだい」

「お祝いに同意したということには、しないでください」

「来れば分かるわ。皆様のお顔を見れば、あなたも落ち着くでしょう」


 エドムントが母に頷いた。返事を待たず、二人は席順の話へ戻りかけていた。


「伺います。私の返事をお伝えするために」


 ヴェリネは二人の前でそう言って、部屋を出た。




 支度部屋にはまだ姉の香りがあった。

 翌日の晩餐の前、ヴェリネは鏡台の小瓶の栓を確かめ、箱へ戻した。ベータが持ち上げた姉の衣装には、鋏は入っていなかった。


「こちらの紐は、ほどいてもよろしいでしょうか」

「ええ。留めたままだと布が引かれてしまうものね。戻してくれる?」


 姉の部屋へしまう前に、二人で皺を伸ばした。裾の小さな花が薄紙の上に並ぶ。


「私には緑の服を出して。腰のところで結ぶ、いつものものを」

「はい。手袋もこちらへ合わせますね」


 ベータに貸した一双ではなく、薄い別の手袋が鏡台へ並んだ。

 自分の服は息を吸っても胸を押さえつけない。髪はいつもどおり後ろへ流して留めた。顔の横に垂れた一房を自分で耳にかける。


「苦しいところはございませんか」

「ないわ。これなら歩きやすい」


 扉の前で、ヴェリネは白薔薇の束を選んだ。

 ベータが持ち手の茎を布で包む。その中から一輪だけ大きく開いた花を見つけて、中央へ差し直してもらった。

 姉なら、この花を喜んだだろう。


「お姉様の花も持っていくわ。置いていったら、私も寂しいから」


 鏡台に香水瓶はない。

 薔薇は手に持っていればいい。顔を埋めなくても、きれいだと思えた。




 薔薇の匂いが、喉に引っかかった。

 晩餐室に入ると、卓にも窓にも白い花があった。母の友人たちが談笑し、エドムントが杯を手に振り返る。


 母の隣には、ヴェリネの椅子が用意されていた。

 その席からなら、母が姉を思い出して話す声もよく聞こえる。一緒に食べて、夜が更けるまで話していたかった。


 ヴェリネは母の隣まで進み、腰を下ろさず椅子へ白い花束を置いた。


「どうして、その服で来たの」


 母の声に、近くの客が振り向いた。


「お姉様の衣装は、お部屋に戻しました。裾を切らずに済んでよかったです」


 エドムントが杯を持ったまま、客の方へ顔を向けた。


「ミルドレッドの衣装で来ると、言っておいたのに」

「着られないとお返事しました」

「みんな楽しみにしていたんだよ。髪まで違うじゃないか」


 手袋の中で指を曲げた。

 せっかく好きな服で来たのに、似合うとは誰も言わなかった。気に入っている髪も、直したいところにしか見えないのか。


「皆様にお詫びします。私は姉の姿で、この方と結婚することはできません」

「そういう意味じゃない。忘れられない人がいるのは、分かってくれているだろう?」

「ええ。私もです」


 花束の包みから、大きく開いた白い花が覗いていた。


「お姉様を忘れてほしいとは、申し上げていません」


 言って、初めて彼の顔をまっすぐ見られた。


「私を覚えてほしかったのです。苦手な香りも着たくない服もお伝えしました。何を嫌だと言っても、お姉様が好きかと聞かれてしまいます」

「君が嫌いなわけじゃないよ。僕の気持ちも考えてくれたら……」

「私の気持ちを、お聞きになりましたか」


 彼の手が杯に触れたまま止まった。

 母が立ち上がる。椅子の脚が床をこすり、卓の向こうの会話まで途切れた。


「ヴェリネ。今夜だけでいいでしょう。お姉様のためにも」

「お母様。私の婚約のお披露目は、いつですか」


 母の口がわずかに開いた。


「今夜よ」

「では、今夜は私の返事を聞いてください」


 花。椅子。母の顔。

 並んで座れたはずの場所を前に、喉の奥が痛くなった。


「エドムント様とは、結婚しません」


 祝いの杯が、卓へ戻された。母の友人の手が杯を離れ、隣の客も持っていた杯を下ろす。


「待って。衣装はもういいよ。その服でも僕は構わないから。今夜だけでいいじゃないか」


 エドムントが手を伸ばした。ヴェリネは一歩退いた。スカートの裾は靴に絡まなかった。


「この服を許していただくために、着てきたのではありません」


 曲げていた指を開くと、手袋の縫い目から爪が離れた。


「結婚しないというお返事です。衣装を変えても、変わりません」




 扉の方から、料理の温かな匂いが流れてきた。

 給仕が足を止めている。ヴェリネの前には皿も杯も並んでいるのに、そこへ座る人だけがいない。


「夫人、言ってください。このままではミルドレッドとの婚礼まで、いつまでも終わらないでしょう」


 エドムントの声に、母の手が動いた。

 ヴェリネへ伸びかけたまま、その手は卓へ戻った。母は花束のある椅子と、立っている娘の顔を交互に見た。


「ミルドレッドとの……」


 誰も続きを足さなかった。料理を運ぶ皿のかすかな音が、扉の向こうから届く。


「席を改めさせてください」


 母は客に頭を下げた。


「今夜のお祝いは取りやめます。お招きしたのに、申し訳ありません」

「夫人、もう一度話を——」

「両家のお話は、私と夫で引き受けます。結婚しないと申した娘を、今ここでお席に戻すことはいたしません」


 給仕が祝いの杯を下げた。客たちは立ち上がり、エドムントの横を通って戸口へ向かった。彼は杯を探すように卓へ手を置いたが、もう誰も彼へ杯を上げなかった。


 ヴェリネは母に向き直った。


「しばらく、家を離れたいです。お知り合いのお宅へ滞在できるか、お尋ねいただけますか」


 母はすぐに返事をしなかった。

 ヴェリネも待った。今なら隣へ戻って、ごめんなさいと言える。母の手へ自分の手を重ねることもできる。

 けれど、足はそこへ動かなかった。


「……ええ。明日、便りを出すわ」

「ありがとうございます」


 それ以上の言葉は見つからなかった。

 戸口で待っていたベータと一緒に、帰っていく客たちの後ろへ出た。寝室で荷箱を開け、自分の普段着を入れる。姉の衣装も香水も、持っていく物には加えなかった。




 婚約の正式な解消は、後日、父から渡された書面で確かめた。

 両家が取り交わした書面には、ヴェリネとエドムントの婚約を解くことが記され、父の署名もあった。もう彼と結婚する約束はない。

 母の知人宅への滞在も決まった。出発の朝、母は荷物に掛けた布を直した。抱き合うことはなかった。

 ヴェリネは礼をして、馬車へ乗った。


 婚約が解かれた翌週、出かける支度をしていると、ベータが一双の手袋を持ってきた。


「お返しするのが、遅くなりましたね」


 あの外出用の手袋だった。指を通してみると、つけ根のところに元からあった皺が戻った。


「花の支度に使ってもらったままだったわね。ありがとう」

「棘で傷がついていないか確かめました。お使いになれますよ」


 ヴェリネは手袋をはめた。髪も、服も、自分で選んだ。それでも出かける前に、鏡の前で襟を直した。

 ベータと訪ねた子爵邸では、レイザートが庭へ迎えてくれた。卓のそばの花壇には、白や薄紫の小さな花が咲いていた。

 近くで柑橘の皮を剥いたような香りがする。庭の卓には、丸い菓子と四角い菓子が別々の皿にあった。


「ベータさんから来訪の便りをもらってね。ヴェリネ嬢には、こちらだったね」


 彼は丸い菓子の皿を寄せた。

 ヴェリネは椅子に座り、膝に両手を置いた。用意していた挨拶が出てこない。


「婚約が正式に解かれました。それで今日は、お願いがあって参りました」

「聞いてもいいかな」

「私とお付き合いしていただけますか」


 彼が菓子を取ろうとしていた手を止めた。

 ヴェリネは顔を上げたまま待った。もっと上手な頼み方があったかもしれないけれど、今の言葉を引っ込めたくはない。


「はい。僕も一緒にいたいです」


 レイザートの手が卓の上へ戻った。それから、少し困ったように笑った。


「……ヴェリネと、呼んでも?」

「はい」

「ヴェリネ」


 ただ呼ばれただけで、頬が熱くなった。


「はい」


 返事をしてから、また同じ返事をしてしまったと気づく。彼も気づいたらしく、二人で笑った。

 膝で握っていた手をほどき、手袋を外す。丸い菓子を口に運ぶと、皮の匂いが鼻へ抜けた。


「こちらは前より、皮が多いのですね」

「別の店のものなんだよ。少なめの方がよかったかな」

「いいえ。苦いところが好きなのです」


 もう一口齧ると、硬い皮が歯に当たった。

 レイザートも自分の皿の菓子を取った。四角い端から崩れて、指に粉がついた。


「次に買う時も、忘れないようにするよ」

「私もご一緒したいです。お店を見て回ってもいいでしょうか」

「もちろん。僕はすぐ決まるけど、待つよ」

「そうでしょうか。まだ食べたことのない菓子もありますよ」


 彼が口元の粉を拭い、空いた皿を見た。


「それは、困ったな。お腹を空かせていこうか」


 ヴェリネは笑って、自分の皿の菓子を一つ割った。半分を彼の方へ差し出しかけ、指を止める。


「こちらの苦い方も、召し上がりますか」

「今日は、こちらの甘い方にしておこうかな」

「では、これは私が」


 差し出しかけた半分を自分の皿へ戻した。レイザートが四角い菓子を取るのを見ながら、ヴェリネも続きを口へ運ぶ。

 花の匂いも、少し届いていた。咲いている方を見ても、もう息を詰めずにいられた。

 返ってきた手袋の脇に、菓子の欠片が一つ落ちた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


今回は、姉妹の思い出をどこまで本文に入れるかで迷いました。水辺へ連れ出してくれたお姉様のことを考えていたら、座ったまま妹の遊びを眺めている姿が浮かんできました。本人は服を汚したくないけれど、妹が遊ぶのを見るのは好き。そんな姉妹だったのかなと思っています。


川岸の場面では、私まで石を探したくなりました。平たければ跳ねそうだと思うのに、投げてみると沈んでしまう。書きながら、子供の頃に拾った石の手触りを思い出していました。二人にはもう少し遊んでいてほしかったのですが、お菓子がなくなる前に岸へ上がってもらいました。


次の外出のお菓子も、きっと二人で相談して選ぶのでしょうね。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇

自分の幸せを選び直す令嬢たちの、一話完結の物語です。


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結局なんでお姉様はいなくなったの? 空気的に多分亡くなったんだろうなーとは思うんだけど、今ひとつ確信が持てないんですよね
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