姉の名を呼ぶあなたとは、結婚しません
薔薇の匂いが、ヴェリネの喉に引っかかった。
侍女のベータが運んできた花瓶から、白い花が顔の近くまでこぼれている。
「ミルドレッド。そこの花を一本、取ってくれるかな」
ヴェリネは花へ伸ばしかけた手を止めた。
姉の名だった。一年前に亡くなった姉の。
窓際の椅子に座るエドムントは、こちらを見ていた。姉の婚約者だった人が、今は自分の婚約者としてこの家を訪れている。
返事をする前に、ベータの腕の中で花瓶が傾いた。水が縁へ寄る。ヴェリネは底に手を添え、すぐそばの台へ一緒に下ろした。端に置かないよう奥へ押すと、茎の束が揺れた。
「お嬢様、棘が。私がいたします」
「待って。そのまま触ったら刺さるわ」
台に置いていた自分の外出用の手袋を取った。丈夫な革で、花の支度をするには薄すぎない。
「これを使って。花瓶は私が押さえているから」
「お借りしますね」
ベータが手袋をはめたのを見てから、ヴェリネは婚約者へ向き直った。
「エドムント様。私はヴェリネです」
「ごめんよ。横顔があまりに似ていたから」
彼は申し訳なさそうに笑った。そんなふうに笑われると、これ以上言うのは意地悪な気がしてくる。
それでも、確かめたかった。
「私との婚約なのですよね」
「もちろんだよ。ほら、薔薇を持って。よく似合うから」
差し出された花を受け取ると、親指の付け根に茎の冷たさが触れた。
姉は、この花を持つのが上手だった。花びらへ頬を寄せて笑うだけで、そこが絵のようになった。
ヴェリネは花を顔から少し離した。
ベータの手元からは、切った茎の青い匂いが上がっていた。
母が笑うのを見られた。それが、この婚約を受けた一番の理由だった。
婚約が決まった朝、母のイングリドは冷めていた茶にようやく口をつけた。姉の部屋の扉を開け、長く閉じていた窓も開いた。
その日から、食卓には母の好きな菓子が戻った。
「お姉様も、きっと喜んでくださるでしょう」
ヴェリネもそう思いたかった。
幼い頃、庭で客を迎えるのに飽きてしまった妹を、姉はこっそり水辺へ連れ出してくれた。自分は靴を汚さない場所に座り、ヴェリネが水に浮かべた葉を、いつまでも見ていてくれた。
姉のことを話して笑える家に戻れたら。母の隣で、その話を続けていけたら。
けれど、母が姉の部屋から出してきたのは婚礼衣装だった。
「やっと着られるわね」
母はそう言って、箱の蓋を開けた。
姉の香水は、花瓶の薔薇よりも甘かった。
婚約披露の晩餐を間近に控えた午後、母はその小瓶を応接室へ持ってきた。エドムントが栓を抜くと、ヴェリネの前の茶まで別の味になりそうだった。
「髪にも少しつけるといいよ。ミルドレッドはそうしていたね」
「私はつけません。甘い香りは苦手なのです」
彼の指が瓶の口を塞いだ。
「前は嫌がらなかっただろう」
「お姉様がお使いになるのは好きでした。自分につけるのは、違います」
「君までその香りを嫌がったら、あの人が本当にいなくなる気がするんだよ」
ヴェリネは膝に置いていた手を動かせなかった。
姉がもういないと分かる朝は、何度もあった。廊下で扉が開いた時。皿を一枚多く頼みそうになった時。母が姉の名を呼びかけてやめた時。
彼にもあるのだろう。それは分かる。
「今くらいは、合わせてあげて」
母が小瓶をヴェリネへ寄せた。
「エドムント様もお辛いのよ。あなたが隣にいてくれるだけで、どれほど心強いか分かるでしょう」
そこから先を聞けば、また頷いてしまう。
ヴェリネは卓の栓を取り、小瓶を閉じた。
「つけないとお返事しました。これは、お姉様のところへ戻してください」
目の前にある茶はまだ温かい。けれど、口へ運ぶ気にはなれなかった。
閉じた瓶のそばで、母が衣装合わせの日取りを話し始めた。
古い薄紙と、しまってあった絹の匂い。
衣装を広げた支度部屋で、ヴェリネは裸足のまま動けずにいた。
姉の白い裾が床へ長くたまっている。胸も肩も余っていた。ベータが背中の布をつまんでいる間だけ、どうにか服の形になった。
「やはり裾を詰めないといけないわね。歩く時に踏んでしまうでしょう」
母は裁ち鋏の置かれた台を見た。
「切らないでください」
ベータの指が止まった。ヴェリネは裾を持ち上げ、縫い込まれた小さな花を見た。姉が選んだ花だ。この長さも、この飾りも、姉のために出来ている。
「お姉様の衣装です。私の寸法に切ってしまうのは嫌です」
「しまったままにする方が寂しいわ。エドムント様だって楽しみにしてくださっているのよ」
部屋の入口で待っていた彼が近づいてきた。
「髪を結い上げれば、もっとよくなるよ。後ろへ流す形はやめてみようか」
いつもの髪型まで、もう決まっていた。
ヴェリネは裾から手を離さずに言った。
「私は自分の服で出たいです。髪もいつものままが楽です」
「今度は衣装が気に入らないのかい」
「この衣装は好きです。お姉様に着てほしかったです」
声が細くなった。
嫌だと伝えたのに、姉が好きかどうかを答えている。
「私が着る服は、私に選ばせてください。婚約のお披露目も延期していただきたいです」
「もう招待を送ってあるだろう。皆が待っているんだよ」
「私の話を聞いていただけないまま、お祝いはできません。この婚約を続けてよいのかも、お話ししたいのです」
エドムントは衣装の袖を指で直した。手首を包むはずの飾りが、ヴェリネの指先まで落ちる。
「そんなに難しく考えなくていいよ。披露は予定どおりにしよう。着てしまえば慣れるから」
彼が離れるのを待って、ヴェリネはベータへ背を向けた。
「脱ぐのを手伝って。裾はそのままにしておいてね」
背の留め具が外れた。肩から衣装が下りても、胸のあたりの苦しさは取れなかった。
土を踏んだ時の匂いが、ヴェリネを庭の奥まで誘った。
翌日の午後、隣家の子爵レイザートが、母へ招待の礼を届けに来た。帰り際の彼を庭で見つけ、ヴェリネはつい呼び止めた。
彼は足元から小石を拾い、指の腹で撫でていた。
「まだ、平たい石をお探しになるのですね」
「見つけると拾ってしまうね。川へ持っていくわけでもないのに」
「今はもう、なさらないのですか」
「一人ではあまりね。うまく跳ねた時、誰にも見てもらえないだろう」
彼は石を花壇の縁へ戻した。ヴェリネは母のいる部屋の窓を見て、それから口を開いた。
「私も行きたいです。ベータについてきてもらえれば」
母は川岸までの外出を許した。晩餐の前に日に焼けすぎないようにと、それだけ言った。
ベータは日除けと布を持ち、少し後ろを歩いた。
川岸には水草の匂いが広がっていた。ヴェリネはしゃがんで、乾いた小石を裏返した。丸いものばかりが手に当たる。浅い水の底には、指で挟めそうな薄い石が見えた。
靴の留め金を外すと、ベータがそばへ布を敷いた。
「お嬢様、裾はこちらへ。石で滑らないようになさってくださいね」
「ありがとう。あの石を拾ってきます」
靴と靴下を置き、裾をたくし上げて浅い水へ足を入れる。
ひゃ、と声が漏れた。足首を洗う水は、思っていたよりずっと冷たい。
「私、岸で拾えると思っていました。靴まで脱ぐつもりはなかったのに」
「そうか。僕は最初から靴を脱ぐつもりだったけど」
振り返ると、彼も靴を脱いでいた。片手に石を集め、もう片方で裾を持っている。
ヴェリネは水底の石を拾った。表面の砂を洗い、岸へ戻って指で挟む。
「低く投げるのですよね」
「うん。水の上を滑らせるつもりでね」
腕を横へ振った。石はすぐそばへ、ぽちゃんと落ちた。
「今のは、跳ねたことになりませんか」
「水しぶきなら跳ねたかな」
彼は笑って自分の石を構えた。膝を曲げ、腕を大きく引く。
次の水しぶきは、さっきより高く上がった。
ヴェリネの口から笑いがこぼれた。彼の濡れた裾に気づくと、また笑ってしまう。
「こちらの方が高く跳ねましたね」
「低くと言ったばかりなのにね。もう一つ試してもいいかな」
「私もまだあります。今度は小さい方で」
投げる前の格好だけは二人とも立派になった。けれど、石は相変わらず沈んだ。
レイザートが投げた最後の一つが水面を一度打って、向こうへ小さく跳ねた。
「今、跳ねましたね」
「うん。でも、どうやったのかな」
「もう一度お願いします」
彼が自分の空の手を見た。ヴェリネも開いた手を見せた。
「私の分も投げてしまいました」
「さっきまで、いくらでもあると思ったんだけど」
彼の足元を覗き込むと、丸い石ばかりが残っていた。
岸へ戻っても、笑いは口元に残っていた。
ベータから受け取った布で足を拭く。彼は離れた石に腰掛け、自分の裾を絞っていた。彼が差し出した包みには、川へ来る途中で庭から分けてもらった菓子が入っていた。
「そちらの丸い方をいただいても?」
「もちろん。どう違うのかな」
「柑橘の皮が入っています。匂いで分かります」
噛むと甘さより先に、ほろ苦い皮が舌へ触れた。
彼も同じ菓子を選んだ。一口齧って眉を寄せ、残りをしげしげと見る。
「思ったより苦いね」
「そこがおいしいのに」
つい言ってしまってから、ヴェリネは食べかけの菓子を下ろした。
「……すみません」
「謝ることかな。僕はこっちの方が好きみたいだね」
彼が次に選んだのは、四角い菓子だった。割ったところから焼いたバターの匂いが届く。
ヴェリネは丸い菓子をもう一口食べた。今度は大きな皮が当たり、舌の端まで苦かった。
次にもこちらを持ってきたいと思いかけ、指の粉を払う手を止めた。
「レイザート様。私はまだ、エドムント様の婚約者です」
彼は食べかけの菓子を膝の包みへ戻した。
「うん」
「今日、楽しかったから……またと申し上げそうになりました。けれど、その前にしなければならないことがあります」
「そうか。今日はベータさんにも付き合ってもらったね。帰る支度をしようか」
彼は次の約束を急がなかった。脱いだ靴をこちらへ揃えて、自分は少し先の荷物を取りに行った。
ヴェリネは靴に足を入れた。
もう一度、この人と遊びたかった。
ただ庭へ戻って頷いてしまったら、その望みは口に出せなくなる。
屋敷へ帰ると、廊下まで薔薇が飾られていた。
ヴェリネは着替えだけ済ませ、母とエドムントのいる応接室へ向かった。川の菓子を手にした時のようには、指を楽に伸ばせなかった。
「お母様。エドムント様。昨日のお話の続きをさせてください」
母は花の配置を書いた紙から顔を上げた。
「衣装なら明日までに整えてもらえるわ」
「その衣装は着ません。婚約も考え直したいです。私の返事を聞いていただくまで、お披露目を待ってください」
「だから、着れば気持ちも落ち着くよ」
「着ないという気持ちは変わりません」
自分でも驚くほど、そこだけはすぐに言えた。
母が紙を伏せる。
「今から皆様をお断りするわけにはいかないの。明日の席で話しましょう。あなたも必ず来てちょうだい」
「お祝いに同意したということには、しないでください」
「来れば分かるわ。皆様のお顔を見れば、あなたも落ち着くでしょう」
エドムントが母に頷いた。返事を待たず、二人は席順の話へ戻りかけていた。
「伺います。私の返事をお伝えするために」
ヴェリネは二人の前でそう言って、部屋を出た。
支度部屋にはまだ姉の香りがあった。
翌日の晩餐の前、ヴェリネは鏡台の小瓶の栓を確かめ、箱へ戻した。ベータが持ち上げた姉の衣装には、鋏は入っていなかった。
「こちらの紐は、ほどいてもよろしいでしょうか」
「ええ。留めたままだと布が引かれてしまうものね。戻してくれる?」
姉の部屋へしまう前に、二人で皺を伸ばした。裾の小さな花が薄紙の上に並ぶ。
「私には緑の服を出して。腰のところで結ぶ、いつものものを」
「はい。手袋もこちらへ合わせますね」
ベータに貸した一双ではなく、薄い別の手袋が鏡台へ並んだ。
自分の服は息を吸っても胸を押さえつけない。髪はいつもどおり後ろへ流して留めた。顔の横に垂れた一房を自分で耳にかける。
「苦しいところはございませんか」
「ないわ。これなら歩きやすい」
扉の前で、ヴェリネは白薔薇の束を選んだ。
ベータが持ち手の茎を布で包む。その中から一輪だけ大きく開いた花を見つけて、中央へ差し直してもらった。
姉なら、この花を喜んだだろう。
「お姉様の花も持っていくわ。置いていったら、私も寂しいから」
鏡台に香水瓶はない。
薔薇は手に持っていればいい。顔を埋めなくても、きれいだと思えた。
薔薇の匂いが、喉に引っかかった。
晩餐室に入ると、卓にも窓にも白い花があった。母の友人たちが談笑し、エドムントが杯を手に振り返る。
母の隣には、ヴェリネの椅子が用意されていた。
その席からなら、母が姉を思い出して話す声もよく聞こえる。一緒に食べて、夜が更けるまで話していたかった。
ヴェリネは母の隣まで進み、腰を下ろさず椅子へ白い花束を置いた。
「どうして、その服で来たの」
母の声に、近くの客が振り向いた。
「お姉様の衣装は、お部屋に戻しました。裾を切らずに済んでよかったです」
エドムントが杯を持ったまま、客の方へ顔を向けた。
「ミルドレッドの衣装で来ると、言っておいたのに」
「着られないとお返事しました」
「みんな楽しみにしていたんだよ。髪まで違うじゃないか」
手袋の中で指を曲げた。
せっかく好きな服で来たのに、似合うとは誰も言わなかった。気に入っている髪も、直したいところにしか見えないのか。
「皆様にお詫びします。私は姉の姿で、この方と結婚することはできません」
「そういう意味じゃない。忘れられない人がいるのは、分かってくれているだろう?」
「ええ。私もです」
花束の包みから、大きく開いた白い花が覗いていた。
「お姉様を忘れてほしいとは、申し上げていません」
言って、初めて彼の顔をまっすぐ見られた。
「私を覚えてほしかったのです。苦手な香りも着たくない服もお伝えしました。何を嫌だと言っても、お姉様が好きかと聞かれてしまいます」
「君が嫌いなわけじゃないよ。僕の気持ちも考えてくれたら……」
「私の気持ちを、お聞きになりましたか」
彼の手が杯に触れたまま止まった。
母が立ち上がる。椅子の脚が床をこすり、卓の向こうの会話まで途切れた。
「ヴェリネ。今夜だけでいいでしょう。お姉様のためにも」
「お母様。私の婚約のお披露目は、いつですか」
母の口がわずかに開いた。
「今夜よ」
「では、今夜は私の返事を聞いてください」
花。椅子。母の顔。
並んで座れたはずの場所を前に、喉の奥が痛くなった。
「エドムント様とは、結婚しません」
祝いの杯が、卓へ戻された。母の友人の手が杯を離れ、隣の客も持っていた杯を下ろす。
「待って。衣装はもういいよ。その服でも僕は構わないから。今夜だけでいいじゃないか」
エドムントが手を伸ばした。ヴェリネは一歩退いた。スカートの裾は靴に絡まなかった。
「この服を許していただくために、着てきたのではありません」
曲げていた指を開くと、手袋の縫い目から爪が離れた。
「結婚しないというお返事です。衣装を変えても、変わりません」
扉の方から、料理の温かな匂いが流れてきた。
給仕が足を止めている。ヴェリネの前には皿も杯も並んでいるのに、そこへ座る人だけがいない。
「夫人、言ってください。このままではミルドレッドとの婚礼まで、いつまでも終わらないでしょう」
エドムントの声に、母の手が動いた。
ヴェリネへ伸びかけたまま、その手は卓へ戻った。母は花束のある椅子と、立っている娘の顔を交互に見た。
「ミルドレッドとの……」
誰も続きを足さなかった。料理を運ぶ皿のかすかな音が、扉の向こうから届く。
「席を改めさせてください」
母は客に頭を下げた。
「今夜のお祝いは取りやめます。お招きしたのに、申し訳ありません」
「夫人、もう一度話を——」
「両家のお話は、私と夫で引き受けます。結婚しないと申した娘を、今ここでお席に戻すことはいたしません」
給仕が祝いの杯を下げた。客たちは立ち上がり、エドムントの横を通って戸口へ向かった。彼は杯を探すように卓へ手を置いたが、もう誰も彼へ杯を上げなかった。
ヴェリネは母に向き直った。
「しばらく、家を離れたいです。お知り合いのお宅へ滞在できるか、お尋ねいただけますか」
母はすぐに返事をしなかった。
ヴェリネも待った。今なら隣へ戻って、ごめんなさいと言える。母の手へ自分の手を重ねることもできる。
けれど、足はそこへ動かなかった。
「……ええ。明日、便りを出すわ」
「ありがとうございます」
それ以上の言葉は見つからなかった。
戸口で待っていたベータと一緒に、帰っていく客たちの後ろへ出た。寝室で荷箱を開け、自分の普段着を入れる。姉の衣装も香水も、持っていく物には加えなかった。
婚約の正式な解消は、後日、父から渡された書面で確かめた。
両家が取り交わした書面には、ヴェリネとエドムントの婚約を解くことが記され、父の署名もあった。もう彼と結婚する約束はない。
母の知人宅への滞在も決まった。出発の朝、母は荷物に掛けた布を直した。抱き合うことはなかった。
ヴェリネは礼をして、馬車へ乗った。
婚約が解かれた翌週、出かける支度をしていると、ベータが一双の手袋を持ってきた。
「お返しするのが、遅くなりましたね」
あの外出用の手袋だった。指を通してみると、つけ根のところに元からあった皺が戻った。
「花の支度に使ってもらったままだったわね。ありがとう」
「棘で傷がついていないか確かめました。お使いになれますよ」
ヴェリネは手袋をはめた。髪も、服も、自分で選んだ。それでも出かける前に、鏡の前で襟を直した。
ベータと訪ねた子爵邸では、レイザートが庭へ迎えてくれた。卓のそばの花壇には、白や薄紫の小さな花が咲いていた。
近くで柑橘の皮を剥いたような香りがする。庭の卓には、丸い菓子と四角い菓子が別々の皿にあった。
「ベータさんから来訪の便りをもらってね。ヴェリネ嬢には、こちらだったね」
彼は丸い菓子の皿を寄せた。
ヴェリネは椅子に座り、膝に両手を置いた。用意していた挨拶が出てこない。
「婚約が正式に解かれました。それで今日は、お願いがあって参りました」
「聞いてもいいかな」
「私とお付き合いしていただけますか」
彼が菓子を取ろうとしていた手を止めた。
ヴェリネは顔を上げたまま待った。もっと上手な頼み方があったかもしれないけれど、今の言葉を引っ込めたくはない。
「はい。僕も一緒にいたいです」
レイザートの手が卓の上へ戻った。それから、少し困ったように笑った。
「……ヴェリネと、呼んでも?」
「はい」
「ヴェリネ」
ただ呼ばれただけで、頬が熱くなった。
「はい」
返事をしてから、また同じ返事をしてしまったと気づく。彼も気づいたらしく、二人で笑った。
膝で握っていた手をほどき、手袋を外す。丸い菓子を口に運ぶと、皮の匂いが鼻へ抜けた。
「こちらは前より、皮が多いのですね」
「別の店のものなんだよ。少なめの方がよかったかな」
「いいえ。苦いところが好きなのです」
もう一口齧ると、硬い皮が歯に当たった。
レイザートも自分の皿の菓子を取った。四角い端から崩れて、指に粉がついた。
「次に買う時も、忘れないようにするよ」
「私もご一緒したいです。お店を見て回ってもいいでしょうか」
「もちろん。僕はすぐ決まるけど、待つよ」
「そうでしょうか。まだ食べたことのない菓子もありますよ」
彼が口元の粉を拭い、空いた皿を見た。
「それは、困ったな。お腹を空かせていこうか」
ヴェリネは笑って、自分の皿の菓子を一つ割った。半分を彼の方へ差し出しかけ、指を止める。
「こちらの苦い方も、召し上がりますか」
「今日は、こちらの甘い方にしておこうかな」
「では、これは私が」
差し出しかけた半分を自分の皿へ戻した。レイザートが四角い菓子を取るのを見ながら、ヴェリネも続きを口へ運ぶ。
花の匂いも、少し届いていた。咲いている方を見ても、もう息を詰めずにいられた。
返ってきた手袋の脇に、菓子の欠片が一つ落ちた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、姉妹の思い出をどこまで本文に入れるかで迷いました。水辺へ連れ出してくれたお姉様のことを考えていたら、座ったまま妹の遊びを眺めている姿が浮かんできました。本人は服を汚したくないけれど、妹が遊ぶのを見るのは好き。そんな姉妹だったのかなと思っています。
川岸の場面では、私まで石を探したくなりました。平たければ跳ねそうだと思うのに、投げてみると沈んでしまう。書きながら、子供の頃に拾った石の手触りを思い出していました。二人にはもう少し遊んでいてほしかったのですが、お菓子がなくなる前に岸へ上がってもらいました。
次の外出のお菓子も、きっと二人で相談して選ぶのでしょうね。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
自分の幸せを選び直す令嬢たちの、一話完結の物語です。
▼ 公開中
「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件
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