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居酒屋 筋肉

作者: 右上腕二頭筋太郎
掲載日:2026/08/04

 残業帰りだった。


 駅前の大通りを一本外れた細い路地に、小さな赤提灯が一つだけ灯っている。


 提灯には、黒い字でこう書かれていた。


 居酒屋 筋肉


 少し変わった店名だった。


 何が筋肉なのかは、よくわからない。


 だが、「居酒屋」と書いてあるのだから、居酒屋なのだろう。


 昼から何も食べていなかった。家に帰って何か作る気力もない。


 私は引き戸を開けた。


「いらっしゃいマッチョ!」


 店内にいた男が、満面の笑みでダブルバイセップスを決めた。


 ……うん。


 店を間違えたようだ。


 私は反射的に引き戸を閉めた。


 戸は半分ほど閉まり――止まった。


 隙間から、太い指が一本だけ見える。


 私はそのまま力を込めた。


 戸は動かない。


 むしろ、ゆっくりと開いていく。


 全力で閉めようとした。


 それでも、少しずつ開いていく。


 最後まで抵抗した。


 全開になった。


「いらっしゃいマッチョ!」


 男は何事もなかったように笑っていた。


 片手は引き戸に掛けたまま、反対の腕だけでシングルアーム・バイセップスを決めた。


「お一人様ですか?」


 逃げられないらしい。


「……はい」


「かしこまりました。右上腕二頭筋へご案内します」


「どこですか」


「右上腕二頭筋です」


「聞こえなかったわけではなくて」


 男が店内を示した。


 中央に厨房があり、その周囲を囲むように客席が配置されている。


 入口から見て右側には、


 右大胸筋。


 右三角筋。


 右上腕二頭筋。


 右前腕。


 左側には、


 左大胸筋。


 左三角筋。


 左上腕二頭筋。


 左前腕。


 それぞれの席の上に、木札が下がっていた。


「人体なんですか、この店」


「はい。中央が体幹になります」


「厨房ですよね」


「体幹です」


 男は迷いなく答えた。


 どうやら譲る気はないらしい。


 私は右上腕二頭筋と書かれたカウンター席へ案内された。


 椅子もテーブルも普通だった。


 少し安心した。


「おしぼりです。どうぞ」


「ありがとうございます」


 普通のおしぼりだった。


 温かい。


 私は手を拭いた。


「ダンベルです。どうぞ」


「なんでダンベル?」


 銀色のダンベルが差し出された。


 側面には三キロと書かれている。


 店員は私の顔を見た。


 次に、腕を見た。


 そして、三キロのダンベルを引っ込めた。


「少々お待ちください」


「何がですか」


 店員は奥へ行き、今度は五キロのダンベルを持ってきた。


「お客様は、なかなかですね。こちらで」


「五キロになった」


「三キロでは失礼にあたるかと」


「ダンベルに接客マナーを持ち込むな」


「どうぞ」


「どうすればいいんですか」


「一度、お持ちください」


「居酒屋で入店直後に?」


「はい」


 店員は、ごく普通のサービスを案内するような口調だった。


 断るのも面倒だったので、私はダンベルを持った。


 一度だけ持ち上げる。


「おお」


 店員が感心した。


「なかなかです」


「さっきも言いましたね」


「フォームがきれいです」


「居酒屋で褒められたくない部分です」


「常連になられる素質があります」


「居酒屋の常連に素質はいらないでしょう」


 店員は満足そうにうなずき、ダンベルを私の前へ置いた。


「ご自由にお使いください」


「食事中に?」


「料理をお待ちの間などに」


「スマホでいいです」


「首が前に出ます」


「姿勢まで管理しないでください」


 店員はメニューを差し出した。


「本日のおすすめは、サラダチキンです」


「居酒屋のおすすめがサラダチキン」


「プレーン、ハーブ、スモークからお選びいただけます」


 私はメニューを開いた。


 サラダチキン。


 焼き鳥。(タレより塩がオススメ)。


 ゆで卵。


 プロセスチーズ。


 魚の缶詰。


 蒸し大豆。


 ギリシャヨーグルト。


 するめ。


 豆乳。


 スモークチキン。


「コンビニか!」


「便利ですよね、コンビニ」


「仕入れ先まで認めるんですか」


「深夜でも高タンパク食品が揃います」


「居酒屋としての自負はないんですか」


「ございます」


 店員は真剣な顔をした。


「当店では、すべて皿に盛り付けております」


「移しただけでしょう」


「ゆで卵は半分に切ります」


「急に料理人の顔をするな」


「塩も振ります」


「コンビニでもできる」


「卓上調味料もご用意しております」


 テーブルの端に、透明な容器が並んでいた。


 塩。


 胡椒。


 七味。


 白い粉。


 薄茶色の粉。


 茶色い粉。


「これは?」


「プロテインです」


「卓上調味料に置くものではないでしょう」


「左からプレーン、バニラ、チョコです」


「何にかけるんですか」


「足りないと思ったものに」


「味ではなく、タンパク質の話ですよね」


「はい」


「はい、じゃないんですよ」


 私はメニューを閉じた。


「とりあえず、生を一つ」


「生卵ですね」


「ビールです」


「失礼しました。増量期かと思いまして」


「客の体を見て注文を予測するな」


「生ビール一丁、右上腕二頭筋!」


「はい、右上腕二頭筋、入りマッチョ!」


 中央の厨房から返事が飛んできた。


「語尾まで統一されてるんですか」


「連携を重視しております」


「そこだけ普通の会社みたいに言わないでください」


 私は店内を見回した。


 客は十人ほどいる。


 全員、マッチョだった。


 Tシャツの袖が限界まで伸びている男。


 椅子より背中が広い男。


 腕を組もうとして、胸と腕が干渉している男。


 奥には老人もいた。


 白い髭を生やし、静かに日本酒を飲んでいる。


 しかし、肩だけ見れば山である。


 一人くらい普通の人はいないのか。


 そう思っていると、細身の若い店員がビールを持ってきた。


「お待たせしました。生ビールです」


「あ、普通の店員もいるんだ」


 若い店員が首をかしげた。


「普通、ですか?」


「いえ、失礼。なんでもないです」


 そのとき、厨房から声が飛んだ。


「トップオフ!」


「はい!」


 若い店員は、すぐに上着を脱いだ。


 中から現れたのは、無駄のない細マッチョだった。


 腹筋ははっきり割れ、腕には筋が浮いている。


「隠れてただけか!」


 最初の店員が説明した。


「ホールでは威圧感を与えないよう、着やせする制服を採用しております」


「接客マナーで筋肉を隠す店、初めて見ました」


 若い店員は脱いだ上着を脇に抱え、厨房へ向かった。


「なんで脱いだんですか」


「ビール樽の交換です」


「制服のままでいいでしょう」


「袖が破れます」


「服が業務に耐えられてない」


 私はビールを一口飲んだ。


 普通のビールだった。


 この店に入って初めて、知っているものに出会えた気がした。


「ご注文はお決まりですか?」


「焼き鳥を」


「塩でよろしいですか?」


「タレは選べないんですか」


「選べます」


「なら、なぜ塩を前提に」


「糖質を気にされるかと」


「居酒屋で客の健康管理をしないでください」


「タレにされますか?」


「塩で」


「ありがとうございます」


「誘導された」


「焼き鳥、塩! 右上腕二頭筋!」


「はい、右上腕二頭筋、塩入りマッチョ!」


 厨房から、肉の焼ける音が聞こえた。


 少なくとも焼き鳥は店で焼いているらしい。


 私は少し安心した。


 隣の右三角筋では、二人の常連客が話していた。


「今日は軽めにするよ」


「珍しいですね」


「昨日、脚だったから」


「では十五で?」


「いや、十二・五にしてくれ」


 酒の濃さの話かと思った。


 しかし、店員が持ってきたのはダンベルだった。


「お預かりしていたマイダンベルです」


「ありがとう」


「ボトルキープみたいに出すな」


 思わず横から口を挟んでしまった。


 常連客がこちらを見る。


「初めて?」


「はい」


「慣れるよ」


「慣れたくないです」


 常連は笑った。


「俺も最初はそうだった」


「今は?」


「三本預けてる」


「増えてるじゃないですか」


 店員が説明する。


「当店では、マイダンベルのお預かりサービスを行っております」


「月額ですか」


「九百八十円です」


「ロッカー代としては普通にありそうなのが腹立つ」


「磨き上げ、グリップ交換、サビ取りは無料です」


「ボトルキープより手厚い」


「ご購入も可能です。新作も入荷しております」


「ダンベルに新作があるんですか」


「二〇二七年モデルです」


「車みたいに言うな」


「こちらは握り心地が大幅に向上しております」


「家電売り場の説明みたいだ」


 店員はカウンターの下から、黒く光るダンベルを取り出した。


「試し持ちもできます」


「試飲みたいに言わないでください」


「数量限定の桜カラーもございます」


「筋肉にも季節感があるのか」


「春ですから」


「それはそうですけど」


 焼き鳥が運ばれてきた。


 見た目は普通だ。


 香ばしい匂いもする。


 一口食べる。


 普通にうまい。


「うまいですね」


「ありがとうございます」


 店員は誇らしげに胸を張った。


「鶏胸肉です」


「焼き鳥まで胸肉なのか」


「もも肉もございますが、常連の注文は少ないです」


「居酒屋で人気部位が逆転してる」


「皮は?」


「スタッフが食べます」


「そこは普通ですね」


「その後、全員で追い込みます」


「脂質を筋トレで帳消しにするな」


 店員がドリンクメニューを置いた。


「二杯目はいかがですか?」


 開く。


 ビール。


 ハイボール。


 サワー。


 焼酎。


 日本酒。


 ここまでは普通だった。


 次のページを開く。


 プロテイン。


 チョコレート。


 バニラ。


 ストロベリー。


 バナナ。


 抹茶。


 ミルクティー。


 カフェオレ。


 ヨーグルト。


 杏仁豆腐。


 塩キャラメル。


 黒ごま。


 きなこ。


 クッキー&クリーム。


 ピーチ。


 マンゴー。


 さらに次のページへ続いている。


「プロテインの方が種類多いじゃないですか」


「期間限定で桜もち味もございます」


「本当に季節感を出してきた」


「おすすめは?」


 試しに聞いた。


「増量でしたらチョコ、減量でしたらプレーンです」


「味のおすすめではないんですね」


「お客様は現在、維持期かと」


「初対面の居酒屋店員に体の時期を判定されたくない」


「でしたら、バナナが飲みやすいです」


「じゃあ、バナナを」


「牛乳、豆乳、水からお選びいただけます」


「カクテルより細かい」


「濃さは、通常、濃いめ、追いプロテインからお選びいただけます」


「ラーメン屋みたいに言うな」


「通常で」


「かしこまりました。バナナプロテイン通常、右上腕二頭筋!」


「はい、右上腕二頭筋、バナナ通常、入りマッチョ!」


 厨房で、シェイカーを振る音がした。


 カクテルバーより豪快だった。


 しばらくして、大きな透明グラスに入った薄黄色の液体が置かれた。


 飲んでみる。


 甘い。


 普通に飲める。


「意外とうまい」


「ありがとうございます」


「認めたくないですけど」


「おかわりもできます」


「ビール一杯しか飲んでないのに、もう腹が膨れてきました」


「タンパク質は満足感がありますので」


「居酒屋の売上を自分で下げてませんか」


「当店は回転率より筋肉率を重視しております」


「聞いたことのない経営指標だ」


 店の奥から、大きな男が出てきた。


 白い鉢巻き。


 黒い前掛け。


 胸板が前掛けを押し出し、布がほとんど垂直に立っている。


 大将らしい。


 常連たちが声をかける。


「大将、今日も仕上がってるね!」


「ありがとうございます」


「大将も一杯飲んでよ」


「では、お言葉に甘えて」


 大将はジョッキを手にした。


 そして、もう片方の手で床に置いてあったダンベルを持ち上げた。


 ビールを一気に飲み干しながら、ダンベルを頭上まで持ち上げる。


「飲み方までスーパーセットなんだ」


 大将は空になったジョッキを置いた。


「ごちそうさマッチョ」


「店全体で言うんですか、それ」


「感謝は大切ですから」


 大将は私を見た。


「初めてのお客様ですね」


「はい」


「ごゆっくり」


「店の構造が気になって、まったくゆっくりできてません」


「何かご不便が?」


「全部です」


「具体的には?」


「入口は何なんですか」


「大臀筋です」


「やっぱりそうなんだ」


 入店時には気づかなかったが、入口の上にも木札があった。


 大臀筋。


「店に入るたび、尻から入ってるんですか」


「人体構造上、下半身から体幹へ向かう自然な動線です」


「口から入る構造にしようとは思わなかったんですか」


「飲食店として不衛生かと」


「そこは衛生観念が働くんだ」


「お手洗いは左腓腹筋の奥です」


「聞いてません」


「そろそろかと思いまして」


 確かにビールを飲んでいた。


 私は席を立った。


 左側の通路を進む。


 左大胸筋。


 左三角筋。


 左上腕二頭筋。


 左前腕。


 さらに奥へ行くと、


 左大腿四頭筋。


 左ハムストリング。


 左腓腹筋。


 と続いている。


「意外と案内として成立してるのが悔しいな」


 左腓腹筋の奥に、普通のトイレがあった。


 用を済ませて出る。


 その隣に、もう一つ扉があった。


 トレーニングルーム


「あるんだ」


 中を覗く。


 ベンチプレス台。


 スクワットラック。


 ダンベル。


 ケーブルマシン。


 鏡張りの壁。


 居酒屋の付属設備とは思えないほど本格的だった。


「ご利用ですか?」


 後ろから声をかけられた。


 細マッチョの若い店員だった。


「いや、見るだけです」


「初回は無料です」


「初回無料の居酒屋施設ではない」


「お料理をお待ちの間にもご利用いただけます」


「待ち時間の潰し方がおかしい」


「現在、パワーラックが一台空いております」


「美容室の席みたいに案内しないでください」


 館内放送が流れた。


「右大胸筋のお客様。デッドリフト台が空きました」


 右側から、一人の客が立ち上がった。


 嬉しそうにトレーニングルームへ向かう。


「呼び出しシステムまである」


「混雑時は予約制です」


「居酒屋よりジムの運営がしっかりしている」


 席へ戻る途中、壁に求人ポスターが貼ってあった。


 居酒屋 筋肉 アルバイト募集


 未経験歓迎。


 まかない付き。


 交通費支給。


 制服貸与。


 筋肉自然増。


「最後の項目は何ですか」


 若い店員が答える。


「福利厚生です」


「健康被害の可能性もありますよ」


「僕も入った頃は五十キロでした」


「今は?」


「七十二キロです」


「何年で?」


「八か月です」


「成長が早すぎる」


「ジョッキを運んで、樽を替えて、ダンベルを配って、閉店後に片付けをしていたら自然に」


「仕事がトレーニングになってる」


「勤務中の私的トレーニングは禁止です」


「そこだけ聞くとまともだ」


「仕事だけで十分ですから」


「やっぱり仕事がおかしい」


 席へ戻ると、私の五キロダンベルが磨かれていた。


「何をしたんですか」


「汗を拭いておきました」


「一回しか持ってません」


「次に気持ちよくお使いいただけるように」


「そのダンベル、私のものじゃないですよね」


「今はまだ」


「今はまだ?」


 隣の常連が、するめを差し出した。


「一本どう?」


「ダンベルを勧めるのかと思いました」


「それは後で」


「後であるんだ」


 私はするめを一本もらった。


「いつから通ってるんですか」


「五年くらいかな」


「最初からマッチョだったんですか」


「いや。普通の会社員だったよ」


「今も会社員ですよね」


「そう」


「何があったんですか」


「週に三回来てたら、こうなった」


「飲食店の影響力じゃない」


「最初は酒だけ飲んでたんだけどな。店員に『料理ができるまでスクワットはいかがですか』って言われて」


「断ればよかったのに」


「初回無料だったから」


「無料に弱すぎる」


「そのうちマイダンベルを買って、預けるようになって」


「完全に店の顧客導線に乗せられてますね」


「今では会社の健康診断で毎年褒められる」


「結果が出てるから否定しにくい」


 大将がこちらへ来た。


「お味はいかがですか」


「焼き鳥はうまいです。プロテインも、まあ」


「ありがとうございます」


「ただ、居酒屋としては変です」


「よく言われます」


「改善しようとは思わないんですか」


「具体的には?」


「ダンベルを出さないとか」


「では、お客様の前腕が冷えたままになります」


「普通の店はそれで営業してます」


「座席名を筋肉にしないとか」


「右左を付けておりますので、混乱は少ないです」


「実際、意外と迷いませんでした」


「トレーニングルームをなくすとか」


「料理の待ち時間が退屈になります」


「スマホを見ればいいでしょう」


「首が前に出ます」


「またそれですか」


 大将は腕を組んだ。


 腕を組んだというより、巨大な腕が胸の前で衝突した。


「お客様」


「はい」


「居酒屋とは、何をする場所でしょうか」


「酒を飲む場所では」


「それだけでしょうか」


「食事もする」


「それだけでしょうか」


「人と話す」


「そうです」


 大将は深くうなずいた。


「人は酒を飲み、食事をし、語らいます。仕事の疲れを癒し、明日への力を蓄える」


「急にいい話を始めましたね」


「ならば、本当に力を蓄えていただきたい」


「物理的な力を?」


「はい」


「比喩をそのまま実装したんですか」


「努力は人を裏切りません」


 大将は、磨き上げたダンベルを棚へ戻した。


「筋肉もまた、裏切らないのです」


「同じことを二回言ってませんか」


「いいえ。努力は成果が見えないこともあります」


「急に現実的ですね」


「ですが筋肉は、負荷をかければ痛みで答えてくれる」


「裏切らないというより、確実に仕返ししてきてませんか」


 大将は静かに笑った。


「酒は、明日を忘れさせます」


「はい」


「筋肉は、明日も覚えています」


「筋肉痛の話ですよね」


「はい」


「名言みたいに言うな」


「居酒屋を出たとき、入る前より少し強くなっている。そんな店を作りたかったのです」


「酒を飲んだ分、弱くなってる可能性もありますよ」


「ですからプロテインがあります」


「アルコールをプロテインで相殺できると思わないでください」


「水も多めにお出ししております」


「健康志向なのか不健康なのかわからない」


「人生は一つの種目ではありません」


「また始まりましたね」


「飲む日もある。鍛える日もある。食べる日もある。休む日もある。それらを組み合わせて、人は自分の形を作るのです」


「居酒屋の大将にしては思想が重い」


「酒だけでは、明日は変わりません」


「筋肉なら変わると」


「少なくとも、重いものが持てます」


「急に話が単純になった」


 大将は一枚のカードを差し出した。


 筋肉カード


「ポイントカードですか」


「一回のご来店で一スタンプです」


「十個貯まると?」


「プロテイン一杯無料です」


「普通だ」


「二十個でマイダンベルのグリップ交換無料」


「急に戻った」


「五十個で、店内に筋肉名を一つ追加できます」


「命名権まであるんですか」


「現在、前鋸筋が空いております」


「空いている筋肉という表現が怖い」


「ご希望はございますか」


「ありません」


「考えておいてください」


「考えません」


 私はビールを飲み干した。


 プロテインも飲み干した。


 思った以上に腹がいっぱいだった。


「会計をお願いします」


「かしこまりました。右上腕二頭筋、お会計です!」


 店内の数人が振り向いた。


「やっぱり自分の席を覚えてない人がいるでしょう」


 会計は四千二百八十円だった。


 焼き鳥。


 するめ。


 ビール。


 プロテイン。


 普通の居酒屋と大きくは変わらない。


「ダンベルはお預かりしますか?」


「私のものになってるんですか」


「初回貸し出し品です。気に入られた場合はご購入いただけます」


「買いません」


「次回も五キロをご用意しておきます」


「次回来る前提なんですね」


「合わなければ三キロへ変更できます」


「そこではないんです」


 店員がダンベルを引き取った。


 なぜか少しだけ、名残惜しかった。


「出口は大臀筋です」


「最後まで尻なんですね」


「お忘れ物にお気をつけください」


「忘れるほど物を出してません」


「筋肉痛は明日届きます」


「宅配便みたいに言うな」


 店員たちが一斉に頭を下げた。


「ありがとうございました!」


「またのお越しをお待ちしてマッチョ!」


 私は大臀筋から外へ出た。


 外の空気は涼しかった。


 腹は満たされている。


 右腕が少し重い。


 たった一度、五キロのダンベルを持ち上げただけなのに、妙に腕を意識してしまう。


 駅へ向かいながら、私は筋肉カードを見た。


 スタンプが一つ押されている。


 十個でプロテイン一杯無料。


 二十個でグリップ交換無料。


 五十個で筋肉名の命名権。


 いらない。


 まったくいらない。


 そう思った。


 それから一週間後。


 私は再び、細い路地の前に立っていた。


 提灯には、変わらずこう書かれている。


 居酒屋 筋肉


 近くまで来たからだ。


 たまたまである。


 私は引き戸を開けた。


「いらっしゃいマッチョ!」


 店員が満面の笑みでダブルバイセップスを決める。


 私は反射的に戸へ手をかけた。


 店員の太い指が、先に引き戸へ掛かった。


「お一人様ですか?」


「……はい」


「お待ちしておりました。右上腕二頭筋へどうぞ」


「今日は空いてるんですか」


「はい。五キロも磨いてあります」


「私のダンベルみたいに言わないでください」


 席に座る。


「おしぼりです。どうぞ」


「ありがとうございます」


「ダンベルです。どうぞ」


 差し出された五キロのダンベルを、私は受け取った。


 一度持ち上げる。


「おお」


 店員が感心した。


「前回より安定していますね」


「一回しか来てないでしょう」


「素質があります」


「それ、前も言いましたよね」


「本日は何になさいますか?」


「生を一つ」


「生卵ですね」


「ビールです」


「失礼しました」


「あと、焼き鳥。塩で」


「ありがとうございます」


「それと」


 少し迷った。


「バナナプロテインを」


「牛乳、豆乳、水からお選びいただけます」


「豆乳で」


「濃さは?」


「濃いめで」


 店員が笑顔になる。


「バナナプロテイン豆乳、濃いめ。右上腕二頭筋!」


「はい、右上腕二頭筋、バナナ豆乳濃いめ、入りマッチョ!」


 隣の常連がこちらを見た。


「慣れたね」


「慣れてません」


「その注文で?」


「注文だけです」


「ダンベル、買うなら今月安いよ」


「買いません」


「桜カラー、残り一本だって」


「買いません」


 私はそう答えながら、カウンターの下に飾られた桜色のダンベルを見た。


 悪くない色だと思った。


 大将が奥から出てくる。


「本日もありがとうございます」


「たまたま近くに来ただけです」


「そうですか」


「本当です」


「では、こちらを」


 大将が一枚の紙を差し出した。


 マイダンベルお預かり申込書


「まだ買ってません」


「念のためです」


「用意が早すぎる」


「お客様は、なかなかですので」


「何がですか」


「前腕が」


「見ないでください」


「五キロでは、すぐ物足りなくなるでしょう」


「居酒屋で成長を見越さないでください」


「こちらで」


 大将は桜色のダンベルを差し出した。


「七・五キロです」


「重い」


「ですが、よく似合う」


「ダンベルに似合うとかあるんですか」


 私は試しに持ってみた。


 確かに重い。


 だが、持てないほどではない。


 一度。


 二度。


 三度。


「きれいです」


 大将が言う。


「フォームが」


「褒められると困るんですよ」


「こちら、今月だけ一割引です」


「商売がうまいな」


「グリップ交換永久無料」


「条件が強い」


「お預かり初月無料」


「完全に契約させにきてる」


「桜カラーは残り一本です」


 隣の常連がうなずいた。


「買った方がいいよ」


「あなたは黙っててください」


「後悔するよ」


「ダンベルを買わなかったことで後悔する人生は嫌です」


 店員がビールを置いた。


 続いて、バナナプロテイン豆乳濃いめが置かれる。


 焼き鳥の香りが厨房から漂う。


 店内には笑い声。


 ダンベルの触れ合う鈍い音。


 シェイカーを振る音。


 館内放送。


「左大胸筋のお客様。ベンチプレス台が空きました」


 誰かが席を立つ。


 若い店員が樽を運ぶため、上着を脱ぐ。


 大将は桜色のダンベルを磨いている。


 私はビールを一口飲んだ。


「申込書、ペンあります?」


 店内が静かになった。


 全員がこちらを見た。


「見るな!」


 大将が深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「まだ買うとは言ってません」


「お名前だけでも」


「囲い込みが強い」


「五キロは下取りできます」


「借り物でしょう」


「お気持ちです」


「何のお気持ちですか」


 私は申込書を受け取った。


 名前を書く。


 住所を書く。


 預かり重量の欄に、七・五キロと書く。


「書いてるじゃん」


 隣の常連が言った。


「うるさい」


「ようこそ」


「何にですか」


「こっち側へ」


「どっち側だよ」


 大将が桜色のダンベルを私の前へ置いた。


「こちら、お客様のマイダンベルです」


「急に愛着が湧く言い方をするな」


「本日から、最高の状態でお預かりいたします」


「持って帰る選択肢もありますよね」


「もちろんです」


「重いから置いていきます」


「かしこまりました」


 店員が丁寧にダンベルを持ち上げた。


 棚へ運び、私の名前を書いた札を掛ける。


 その瞬間、店の一部に自分の居場所ができてしまった気がした。


「次回は七・五キロをご用意します」


「次回も来る前提ですね」


「右上腕二頭筋も空けておきます」


「予約してません」


「バナナ豆乳濃いめも?」


「それは頼むかもしれません」


「焼き鳥は塩で?」


「それも」


「では、いつものですね」


「二回目で『いつもの』を作るな」


 店員は嬉しそうに笑った。


「お客様」


「はい」


「努力は人を裏切りません」


「またそれですか」


「筋肉もまた、裏切りません」


「だから同じことを二回言ってるでしょう」


「いえ」


 店員は、棚に置かれた桜色のダンベルを見た。


「ダンベルは、ここでお待ちしております」


「筋肉ではなく、ダンベルの話になってる」


「次回も最高の状態で」


「手厚いな」


 私は焼き鳥を食べた。


 ビールを飲んだ。


 プロテインも飲んだ。


 帰り際、店員が筋肉カードに二つ目のスタンプを押した。


「あと八回でプロテイン一杯無料です」


「意外とすぐですね」


「あと四十八回で前鋸筋の命名権です」


「それはいりません」


「候補はございますか?」


「ありません」


「考えておいてください」


「考えません」


「出口は大臀筋です」


「知ってます」


 私は大臀筋から外へ出た。


 背後で戸が閉まる。


 腕が少し張っている。


 悪くない。


 いや、良くはない。


 居酒屋に来ただけで腕が張るのは、明らかにおかしい。


 私は筋肉カードを財布へしまった。


 隣には、マイダンベル預かり証が入っている。


 次に来る理由が二つもできてしまった。


 駅へ向かう途中、コンビニの前を通った。


 サラダチキン。


 ゆで卵。


 プロセスチーズ。


 魚の缶詰。


 蒸し大豆。


 ギリシャヨーグルト。


 するめ。


 豆乳。


 スモークチキン。


 店と同じものが並んでいる。


「コンビニか」


 私は一人でつぶやいた。


 自動ドアが開く。


 入ろうとして、やめた。


 どうせ同じものを食べるなら、皿に盛り付けてもらった方がいい。


 ゆで卵も半分に切ってくれる。


 それに、私のダンベルはあそこにある。


 私は踵を返した。


 再び、赤い提灯の方へ歩き出す。


 戸を開ける。


「いらっしゃいマッチョ!」


 店員が両腕を曲げる。


 今度は、戸を閉めようとは思わなかった。


「お忘れ物ですか?」


「いや」


 私は財布から筋肉カードを出した。


「もう一杯だけ」


「ビールですか?」


「バナナプロテイン。豆乳、濃いめで」


 店員が笑った。


「おかえりなさいマッチョ!」


「まだマッチョじゃない」


「時間の問題です」


「怖いことを言うな」


 右上腕二頭筋には、私の席が空いていた。


 カウンターの奥には、桜色のダンベルが静かに光っている。


 私は席に座った。


「おしぼりです。どうぞ」


「ありがとうございます」


「ダンベルです。どうぞ」


 私は少し考えた。


「七・五キロで」


 言ってから、顔を覆った。


 店内に拍手が起きた。


「拍手するな!」


 大将がうなずく。


「なかなかです」


「何がですか」


「仕上がってきました」


「まだ二日目です」


「筋肉は、日数ではありません」


「名言っぽく言うな」


「では、こちらで」


 桜色のダンベルが差し出された。


 私は受け取った。


 重い。


 だが、前よりしっくりきた。


「ダンベルです。どうぞ」


「知ってます」


 私は一度、持ち上げた。


「いらっしゃいマッチョ」


 今度は、誰も笑わなかった。


 もちろん私も笑わなかった。


 なぜなら、それがこの店では、ごく普通の挨拶だったからである。


筋肉芸人の方へ。


どうぞお持ち帰りください。

むしろプロの方にやってもらいたいと思いマッチョ。

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