9:夢の終わり
私は静かに日記を閉じた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。心を落ち着けるためだ。
ルネが心配そうにこちらを見ている。だけど、大丈夫。動揺はしているが、思っていたよりもショックは受けていない。
それは一度経験した傷だからか。それとも、記憶がないせいで他人事のように感じているからなのか。
「エチカ……大丈夫……?」
ルネがぎゅっと私の手を握る。私は大丈夫だと返事をする代わりに、その手を握り返した。
「しかし、なんというか……。私ってば、なーんにも考えずに先輩と結婚したんだね」
私は近くの出窓に腰を下ろし、沈みかけた空を見上げながらため息をこぼした。茜色がゆっくりと夜に溶けていく。
きっと、馬鹿な私はただ好きな人に好きと伝え、想いを返してもらえて舞い上がっていたのだろう。だから気づいていなかった。結婚がゴールではないこと。自分が結ばれた相手は、正真正銘の雲の上の存在だったこと。
平民の女が王子様に見初められ、結婚して、その後幸せに暮らしました……なんて物語の中だけの話だ。現実は生まれの違いに苦しむだけ。
「馬鹿だね、私。ほんと馬鹿」
「そ、そんなこと……」
「ねえ、ルネはどこまで知っていたの?」
「……何も、知らなかったわ。まさかここまで苦しんでいたとは思わなかった。あたしはただ、親族会やお茶会に行ったあんたが、帰宅後に疲れた顔をしていることしか……」
ルネは困惑したように眉を顰めた。きっと私は強がって、何も相談しなかったのだろう。
「相談、してくれたら良かったのに……」
悔しそうに小さく呟くルネ。私も、そう思う。
「……ねえ、エチカ。これからどうする?」
「どうするって?」
「こんなことを知って、このまま先輩との結婚生活なんて続けられないでしょう?だから、もしエチカが……」
ルネが何かを言いかけたその時、ドアがノックされた。
「エチカ、いるか?」
少し焦ったような先輩の声。私は首を傾げながら立ち上がり、ドアを開けた。
「はい、おりますが……」
そう言いながら私がドアの隙間から顔を出した瞬間、先輩は安堵したように息を吐き、私を強く抱きしめた。
「ちょ、先輩!?」
「良かった。いつも俺が帰るとエントランスまで迎えに来てくれるのに、今日はいなかったから。体調でも悪いのかと思ったよ」
「あー、すみません。まだ勉強が終わっていなくて……」
「そうかそうか。それなら仕方ないな。勉強の邪魔してごめんな」
先輩は私から体を離すと、私の額にそっと唇を落とした。
きっと、今までの私なら動揺して顔を真っ赤にして、騒いでいたのだろう。
でも日記を読んだ後で動揺している私は、この愛情表現をどう受け止めればいいのかわからない。
(とりあえず、距離取っておこう)
私は唇の触れたところを手で押さえ、スッと半歩後ろに下がった。
その動きに、先輩は怪訝そうに眉をひそめる。
「……どうして距離を取るんだ?」
「先輩が軽率に私に触れるからです」
「嫌だったのか?」
「………」
嫌、ではない。むしろ嬉しいとすら思ってしまう。何故なら私は先輩のことが大好きだから。
(悔しいな……)
悲惨な結婚生活を知っても尚、まだこの人が好きな自分が嫌になる。
私はたまらず顔を伏せた。
「…….エチカ?どうした?どこか具合でも悪いのか?」
「悪くないです……。でも、たくさん頭を使ったから、ちょっと疲れてしまって」
「そうか……。社交シーズンが近づいているからって頑張っているんだろうけど、あまり無理するなよ?ゆっくりでいいんだから」
「はい……」
「あ、そうだ。これ、今日のお土産なんだけど」
先輩はポケットから小さな瓶を取り出す。
それは私が好きな、砂糖を溶かして着色し、星型に固めただけの庶民のお菓子。わざわざ帰りに、庶民の店に行って買って来てくれたらしい。
先輩は小瓶の蓋を開けると、お菓子を一粒取り出して、それを私の口に入れた。
先輩の指先が私の唇に触れる。それだけで私の体温は上がった。
「美味しい?」
先輩は屈託のない笑みで、愛おしそうな瞳で、私を見つめてくる。
その微笑みに、私は胸がキュッと苦しくなるのを感じた。
(この人、何を考えているんだろう……)
先輩が見せる表情のどれが本当で、どれが嘘なのか、私にはわからない。
でも、一つ言えるのは、日記の中の先輩が全てではないということ。
そもそも、あの日記の中の先輩は私から見た先輩だ。先輩がその時どう思っていたのかまでは、私の知る由もないことだ。
もしかしたら、コレット様とのことだって、先輩にも言い分があるかもしれない。
(……知りたいな。先輩の気持ちを、ちゃんと)
そう思った私は、気づけば口が勝手に動いていた。
「先輩って、私と離婚したいんですか?」
「…………は?」
「…………あ」
言った瞬間、やってしまったと両手で口を塞いだ。
もっと先に聞くことがあるだろう。ど直球に核心に迫ってどうする。
私は助けを求めるように、チラリとルネの方を振り返った。すると、ルネは目を丸くして固まっていた。
そりゃそうだ。私だって、逆の立場なら同じ顔をしていたことだろう。
ああ、本当に。私はどうしてこうなんだろう。
昔から、考えるより先に口が動く。
まったく、よくこんなのが公爵家に嫁げたものだ。
「えーっと、先輩。あのですね、つまりはえっと……」
どうにか自然に話を戻そうと、私は先輩の方を見た。
その瞬間、息が止まった。
先輩は、笑っていなかった。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。ただ、感情の読めない、底の見えない表情で私を見下ろしていた。
それが、私にはとても怖かった。
「せん、ぱい……?」
「記憶が戻ったのか?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
「なら、どうしてそんなことを聞く。誰かに吹き込まれたのか?」
先輩の視線がルネへと鋭く向けられた。その瞬間、ルネの肩がびくりと震える。
嫌な予感が走り、私は慌てて二人の間に割って入った。
「ル、ルネは関係ありません!わ、私が部屋で……その、日記を見つけてしまって……!」
「日記?そんなものを書いていたのか?」
「は、はい……書いていたみたいです……」
「……そうか」
先輩はフッと短く笑った。それは乾いた、痛みを押し殺すような笑いだった。
「その日記には何が書いてあったんだろうな。どうせ俺への恨みで埋まっていたんだろうな」
先輩はそう呟くと、視線を再びルネの手元へ向けた。
ルネはぎゅっと日記を胸に抱きしめ、一歩後退る。
「ルネ、日記をこちらに渡しなさい」
「い、いやです……!」
「ルネ、これは命令だ。お前の雇い主は俺だろう」
「わ、渡せません」
「渡せ」
「い、いやです!!」
日記を抱きしめて拒否するルネ。先輩はそんな彼女に、小さく舌を鳴らした。
その瞬間、空気がピリッと震えた。
「せ、先輩?」
髪がふわりと揺れる。魔力の気配に、私は思わず息を呑んだ。
「先輩、待って――」
言い終わる前に、先輩の指先から青白い風が走った。
耳鳴りのような高い音が空気を裂き、風圧が一直線にルネへ向かう。
ルネは咄嗟に防御魔法を展開しようとしたが、間に合わず。突風が彼女の身体を押し飛ばした。
「きゃっ──!」
風で軽く体が浮き、ルネはよろめいてそのまま尻もちをつく。
手から離れた日記が床に落ちた。
「ルネ……!」
私は駆け寄って彼女を抱き起こした。
「怪我は……?」
「だ、大丈夫……」
ルネは怯えた目で先輩を見上げる。体が小刻みに震えているのは、それだけ彼の殺気を感じたからだろう。
私はキッと先輩を睨みつけた。
「何をするんですか!危ないじゃないですか!」
「ルネの実力なら、防御魔法で防げる程度の威力しか出していない。現によろけただけで怪我もしていないだろう?」
「でも、よろけてこけました!」
「それは反応できなかったルネが悪い。……ルネ、君はエチカの護衛も兼ねて雇ったはずだが、忘れたのか?この程度の魔法に反応できないなんて、情けない」
ひどく冷たい声。まるで先輩じゃないみたいだ。
先輩は落ちた日記を拾い上げ、それを見つめて、またフッと乾いた笑みを浮かべた。
その笑みはどこか自嘲するような、諦めているような、そんな笑みだった。
「エチカ、さっきの質問。君と離婚したいのかって話だけど……答えはNOだよ」
先輩はそう言うと、私の前にしゃがみ、指先に魔力を纏わせた。
私は咄嗟に防御魔法を展開する。けれど、私の展開速度が先輩に敵うはずもなく……
「俺は君と離婚する気はない。たとえ君が泣いて望んだとしてもだ」
その言葉と同時に、先輩の魔力が私の魔力を上書きするように流れ込んできた。
身体がふっと重くなる。視界が白く滲む。
「ま……って……」
手を伸ばそうとしたが、力が抜けていく。
先輩の大きな手が私の目元を覆い、柔らかな光が意識を包み込んだ。
抵抗する間もなく、私は闇に沈んでいった。




