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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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9/17

9:夢の終わり

 私は静かに日記を閉じた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。心を落ち着けるためだ。

 ルネが心配そうにこちらを見ている。だけど、大丈夫。動揺はしているが、思っていたよりもショックは受けていない。

 それは一度経験した傷だからか。それとも、記憶がないせいで他人事のように感じているからなのか。


「エチカ……大丈夫……?」


 ルネがぎゅっと私の手を握る。私は大丈夫だと返事をする代わりに、その手を握り返した。


「しかし、なんというか……。私ってば、なーんにも考えずに先輩と結婚したんだね」


 私は近くの出窓に腰を下ろし、沈みかけた空を見上げながらため息をこぼした。茜色がゆっくりと夜に溶けていく。

 きっと、馬鹿な私はただ好きな人に好きと伝え、想いを返してもらえて舞い上がっていたのだろう。だから気づいていなかった。結婚がゴールではないこと。自分が結ばれた相手は、正真正銘の雲の上の存在だったこと。

 平民の女が王子様に見初められ、結婚して、その後幸せに暮らしました……なんて物語の中だけの話だ。現実は生まれの違いに苦しむだけ。


「馬鹿だね、私。ほんと馬鹿」

「そ、そんなこと……」

「ねえ、ルネはどこまで知っていたの?」

「……何も、知らなかったわ。まさかここまで苦しんでいたとは思わなかった。あたしはただ、親族会やお茶会に行ったあんたが、帰宅後に疲れた顔をしていることしか……」


 ルネは困惑したように眉を顰めた。きっと私は強がって、何も相談しなかったのだろう。 


「相談、してくれたら良かったのに……」


 悔しそうに小さく呟くルネ。私も、そう思う。


「……ねえ、エチカ。これからどうする?」

「どうするって?」

「こんなことを知って、このまま先輩との結婚生活なんて続けられないでしょう?だから、もしエチカが……」


 ルネが何かを言いかけたその時、ドアがノックされた。

 

「エチカ、いるか?」


 少し焦ったような先輩の声。私は首を傾げながら立ち上がり、ドアを開けた。


「はい、おりますが……」


 そう言いながら私がドアの隙間から顔を出した瞬間、先輩は安堵したように息を吐き、私を強く抱きしめた。


「ちょ、先輩!?」

「良かった。いつも俺が帰るとエントランスまで迎えに来てくれるのに、今日はいなかったから。体調でも悪いのかと思ったよ」

「あー、すみません。まだ勉強が終わっていなくて……」

「そうかそうか。それなら仕方ないな。勉強の邪魔してごめんな」


 先輩は私から体を離すと、私の額にそっと唇を落とした。

 きっと、今までの私なら動揺して顔を真っ赤にして、騒いでいたのだろう。

 でも日記を読んだ後で動揺している私は、この愛情表現をどう受け止めればいいのかわからない。

 

(とりあえず、距離取っておこう)


 私は唇の触れたところを手で押さえ、スッと半歩後ろに下がった。

 その動きに、先輩は怪訝そうに眉をひそめる。


「……どうして距離を取るんだ?」

「先輩が軽率に私に触れるからです」

「嫌だったのか?」

「………」


 嫌、ではない。むしろ嬉しいとすら思ってしまう。何故なら私は先輩のことが大好きだから。


(悔しいな……)


 悲惨な結婚生活を知っても尚、まだこの人が好きな自分が嫌になる。

 私はたまらず顔を伏せた。


「…….エチカ?どうした?どこか具合でも悪いのか?」

「悪くないです……。でも、たくさん頭を使ったから、ちょっと疲れてしまって」

「そうか……。社交シーズンが近づいているからって頑張っているんだろうけど、あまり無理するなよ?ゆっくりでいいんだから」

「はい……」

「あ、そうだ。これ、今日のお土産なんだけど」


 先輩はポケットから小さな瓶を取り出す。

 それは私が好きな、砂糖を溶かして着色し、星型に固めただけの庶民のお菓子。わざわざ帰りに、庶民の店に行って買って来てくれたらしい。

 先輩は小瓶の蓋を開けると、お菓子を一粒取り出して、それを私の口に入れた。

 先輩の指先が私の唇に触れる。それだけで私の体温は上がった。


「美味しい?」


 先輩は屈託のない笑みで、愛おしそうな瞳で、私を見つめてくる。

 その微笑みに、私は胸がキュッと苦しくなるのを感じた。


(この人、何を考えているんだろう……)


 先輩が見せる表情のどれが本当で、どれが嘘なのか、私にはわからない。

 でも、一つ言えるのは、日記の中の先輩が全てではないということ。

 そもそも、あの日記の中の先輩は私から見た先輩だ。先輩がその時どう思っていたのかまでは、私の知る由もないことだ。

 もしかしたら、コレット様とのことだって、先輩にも言い分があるかもしれない。

 

(……知りたいな。先輩の気持ちを、ちゃんと)


 そう思った私は、気づけば口が勝手に動いていた。


「先輩って、私と離婚したいんですか?」

「…………は?」

「…………あ」


 言った瞬間、やってしまったと両手で口を塞いだ。

 もっと先に聞くことがあるだろう。ど直球に核心に迫ってどうする。

 私は助けを求めるように、チラリとルネの方を振り返った。すると、ルネは目を丸くして固まっていた。

 そりゃそうだ。私だって、逆の立場なら同じ顔をしていたことだろう。

 ああ、本当に。私はどうしてこうなんだろう。

 昔から、考えるより先に口が動く。

 まったく、よくこんなのが公爵家に嫁げたものだ。

 

「えーっと、先輩。あのですね、つまりはえっと……」


 どうにか自然に話を戻そうと、私は先輩の方を見た。

 その瞬間、息が止まった。

 先輩は、笑っていなかった。

 怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えない。ただ、感情の読めない、底の見えない表情で私を見下ろしていた。

 

 それが、私にはとても怖かった。


「せん、ぱい……?」

「記憶が戻ったのか?」

「い、いえ……そういうわけでは……」

「なら、どうしてそんなことを聞く。誰かに吹き込まれたのか?」


 先輩の視線がルネへと鋭く向けられた。その瞬間、ルネの肩がびくりと震える。

 嫌な予感が走り、私は慌てて二人の間に割って入った。


「ル、ルネは関係ありません!わ、私が部屋で……その、日記を見つけてしまって……!」

「日記?そんなものを書いていたのか?」

「は、はい……書いていたみたいです……」

「……そうか」


 先輩はフッと短く笑った。それは乾いた、痛みを押し殺すような笑いだった。


「その日記には何が書いてあったんだろうな。どうせ俺への恨みで埋まっていたんだろうな」


 先輩はそう呟くと、視線を再びルネの手元へ向けた。

 ルネはぎゅっと日記を胸に抱きしめ、一歩後退る。


「ルネ、日記をこちらに渡しなさい」

「い、いやです……!」

「ルネ、これは命令だ。お前の雇い主は俺だろう」

「わ、渡せません」

「渡せ」

「い、いやです!!」


 日記を抱きしめて拒否するルネ。先輩はそんな彼女に、小さく舌を鳴らした。

 その瞬間、空気がピリッと震えた。


「せ、先輩?」


 髪がふわりと揺れる。魔力の気配に、私は思わず息を呑んだ。

  

「先輩、待って――」


 言い終わる前に、先輩の指先から青白い風が走った。

 耳鳴りのような高い音が空気を裂き、風圧が一直線にルネへ向かう。

 ルネは咄嗟に防御魔法を展開しようとしたが、間に合わず。突風が彼女の身体を押し飛ばした。


「きゃっ──!」


 風で軽く体が浮き、ルネはよろめいてそのまま尻もちをつく。

 手から離れた日記が床に落ちた。


「ルネ……!」


 私は駆け寄って彼女を抱き起こした。


「怪我は……?」

「だ、大丈夫……」

 

 ルネは怯えた目で先輩を見上げる。体が小刻みに震えているのは、それだけ彼の殺気を感じたからだろう。

  私はキッと先輩を睨みつけた。


「何をするんですか!危ないじゃないですか!」

「ルネの実力なら、防御魔法で防げる程度の威力しか出していない。現によろけただけで怪我もしていないだろう?」

「でも、よろけてこけました!」

「それは反応できなかったルネが悪い。……ルネ、君はエチカの護衛も兼ねて雇ったはずだが、忘れたのか?この程度の魔法に反応できないなんて、情けない」


 ひどく冷たい声。まるで先輩じゃないみたいだ。

 先輩は落ちた日記を拾い上げ、それを見つめて、またフッと乾いた笑みを浮かべた。

 その笑みはどこか自嘲するような、諦めているような、そんな笑みだった。


「エチカ、さっきの質問。君と離婚したいのかって話だけど……答えはNOだよ」


 先輩はそう言うと、私の前にしゃがみ、指先に魔力を纏わせた。

 私は咄嗟に防御魔法を展開する。けれど、私の展開速度が先輩に敵うはずもなく……


「俺は君と離婚する気はない。たとえ君が泣いて望んだとしてもだ」

 

 その言葉と同時に、先輩の魔力が私の魔力を上書きするように流れ込んできた。

 身体がふっと重くなる。視界が白く滲む。


「ま……って……」


 手を伸ばそうとしたが、力が抜けていく。

 先輩の大きな手が私の目元を覆い、柔らかな光が意識を包み込んだ。

 

 抵抗する間もなく、私は闇に沈んでいった。


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