7:まだ先輩のこと好きなの?(2)
「は、破綻って……そんなわけ……」
「結婚当初は仲良かったと思う。でも一年も経たないうちに喧嘩が増えて……最終的には離婚話まで出ていたわ」
「で、でも、先輩はあんなに私のこと好きだって言って……」
「ごめんね、エチカ。信じられないよね。でも……正直、あたしは今の二人の方が信じられない。だって、顔を合わせれば口論ばかりだったんだから」
仲違いのきっかけはわからない。けれど、気づけば私と先輩の間の信頼は少しずつ崩れ、互いを疑い、顔を合わせれば喧嘩ばかりの日々を過ごしていたとルネは言う。
そしてその不仲はいつの間にか外へ漏れ、やがて社交界でも有名な話となったらしい。
もともと先輩の親族は、ただの商家の娘に過ぎない私との結婚には反対だった。だから不仲の噂が広まると、親族は当然のように原因は私にある決めつけ、容赦なく責め立て、先輩と離婚するように迫ったそうだ。
ルネはその時のことを思い出すように、悔しそうに唇を噛んだ。
「……そうだったんだ」
私は目覚めた時に感じた、メイドたちからの冷たい視線のワケをようやく理解した。
「あたしは、先輩を信用できない。だって先輩は孤立していくエチカを、泣いているエチカをそばで見ていたのに、何もしなかった。そんな人のことをあたしは信じられない。今、先輩がエチカのことを溺愛してるのだって、絶対何かウラがあるに決まってるわ!」
ルネはそう言うと、私の肩を掴み、真剣な眼差しでこちらを見据えた。その瞳には私のことを思う気持ちしかなかった。
「ウラか……」
確かに、学生時代の先輩の姿からは想像がつかないほどの溺愛っぷりは、むしろそこに何かウラがあると言われた方が、納得できる。
(でも……)
私は立ち上がり、窓際に立って正門の方を見下ろした。すると、そこにはいつもより少し早く帰宅した先輩の馬車が見えた。
馬車から降りて来た先輩は私の部屋の方を見上げ、笑顔で手を振る。
私は反射的に手を振り返した。
(どうにも繋がらないんだよなぁ……)
あそこで私に手を振る笑顔の先輩と、ルネの話す先輩の像が結びつかない。
私は腕を組み、うーんと唸った。
すると、ルネが寂しそうに呟いた。
「あたしの話……信じられない?」
「違うよ!ルネを疑ってるわけじゃないよ!むしろ、あなたの話は辻褄が合ってるし、嘘をつく理由なんてないじゃない!」
「エチカ……」
「ありがとね、ルネ。言いづらいことを教えてくれて」
「ううん。あたしこそ……ごめん」
「もう、なんでルネが謝るのよ。変なの」
「……こんな話、聞きたくなかったかなって」
「そんなことないよ。教えてくれて助かったよ。ただ……」
私は窓の外に視線を戻す。
「ルネの話が本当なら、先輩はどうして今、私のことを好きなフリなんてしているんだろうって思ってさ」
もし離婚寸前まで関係が拗れていたのなら、『記憶喪失の女など、公爵家の嫁としてふさわしくない』とでも言って別れた方が、先輩にとっては楽なはずだ。
それなのに、どうして先輩は私を手放さないのだろう。
単に、世間体を気にして離婚したくないだけ?
記憶を失った私が扱いやすかったから?
記憶喪失前の私が、何かとんでもない秘密を知ってしまっていて、手放すに手放せないから?
色々と考えてみるが、どれも、しっくりこない。
だって、窓の外で手を振る先輩の笑顔が、私にはどうしても嘘には見えなかったのだ。
「ねえ、ルネ……、先輩って……」
「……まだ、先輩のこと信じたい?」
「え……?」
ルネはぽつりと呟くと、何かを決めたように突然立ち上がった。
その勢いに驚く間もなく、私はそっと腕を取られ、机の前へと導かれる。
「ルネ?どうしたの?」
そう尋ねても、ルネは答えない。ただ静かに、机の上から二番目の引き出しに手を伸ばした。
ためらいがちに底板へ指をかけると、カチリ、と小さな音がして板が外れる。その奥には、隠すように置かれた小さな革張りの手帳がひっそりと眠っていた。
それは私に取っては見覚えのない手帳。だが、ルネにはそうではないのだろう。
ルネはしばらくその手帳を見つめ、やがて、覚悟を固めたようにそっとそれを取り上げた。
「……これ、何?」
問いかけると、ルネは一瞬だけ目を伏せ、深く息を吸い込んだ。
その仕草に、彼女がどれほど迷い、どれほど私を思っているのかが滲む。
「これはエチカの日記」
「日記?私、日記なんて書いていたの?」
「そうみたい。この間、エチカが散歩してる時にこの部屋を掃除していて、偶然見つけたの。まさか引き出しにこんな仕掛けがあるなんて思わなかったわ」
ルネはそう言うと、手帳を私に持たせた。革の表紙は思ったよりも重く、冷たい。
「中身は、詳しくは見ていないわ。スタンリー先生の忠告を聞くのなら、読まない方が良いと思って黙っていたの。……でも、もしエチカが先輩との結婚生活について知りたいと思うのなら、一緒に読まない?エチカと先輩がどんなふうにすれ違っていったのかとか……全部じゃないけど、断片が残ってるはずよ。きっと、あたしの話より信じられると思う」
「……そう、ね」
私は手帳を見下ろした。
指先がじんわりと汗ばむ。
この中には私の知らない、私と先輩がいる。
「……読んでみる」
私は震える手で、そっと表紙をめくった。
その傍らで、ルネはほっとしたように、けれどどこか痛むように微笑んだのがわかった。
「エチカ。あたしだけはずっと、あんたの味方だからね」
ルネはそう言って、私の手に自分の手を重ねた。
ほんのりと冷たいその手は、不思議と私の頭を少しだけ冷静にさせた。




