5:甘い先輩と夢心地
靄のかかった世界の中で、私は誰かの背中を必死に追いかけていた。
足元はふわふわと頼りなく、地面に触れているのかどうかも曖昧だ。
それでも私は一生懸命走る。足がもつれてこけそうになりながらも、彼を求めて。必死で。
『ねえ、待って!聞いてよ、ーー!お願い、信じて!私はーー!』
途切れ途切れの言葉。何を聞いて欲しくて、何を信じて欲しいのか、その内容は自分でもよく分からない。
けれど必死で、薄い光の向こう側に立つ彼を追いかける。輪郭がぼやけていて、顔立ちもはっきりしない。それでも、私がよく知っている人だという確信だけはあった。
しかし、私が近づくほどに彼の表情はゆっくりと変わっていった。穏やかな微笑みをを浮かべていた彼は、まるで私を値踏みするように、冷たく、蔑むような目を向けてくる。
『―――』
その言葉の途中だけが、ぐにゃりと歪んで聞こえなかった。まるで霧の中に吸い込まれたみたいに、意味が掴めない。
私は思わずピタリと足を止めた。スッと冷たいものが背筋を伝って落ちていく。
いつの間にか靄は消え、目の前には灰色の荒野が広がっていた。先ほどまでふわふわと頼りなく浮ついていた足下は、今は逆に、根を張ったみたいにピクリとも動かない。
『……ああ、そう。もういいわ』
絶望から出た言葉は震えていた。落胆と、諦めの感情が静かに心の幕を下ろす。
彼は何かを言いかけたけれど、結局、私に背を向けてそのままどこかへ消えていった。
一人残された私は静かに目を閉じ、耳をふさいでその場に蹲った。
『もう、消えて無くなりたい』
そう呟いた瞬間、私は灰色の荒野に溶けて、無くなった。
荒野には、人の顔ほどの大きなハート型のクッキーだけが残された。
***
「……夢?」
薄暗い室内を柔らかい朝の光が照らす中、私はぼうっとしたまま、体を起こした。
目がゆっくりと暗がりに慣れていく。薄い朝の気配、布団の柔らかさ、まだまだ見慣れない広い部屋を見渡し、さっき見ていた光景が夢であったとようやく理解した。
けれど、心臓は不思議と早鐘のように打っていて、喉の奥がひりつく。あの感じたことのない絶望だけが、今もまだ胸の奥に残っている。
「エチカ……?うなされていたけど、大丈夫か?」
すぐ隣から落ち着いた声がした。心配しているような声色に、私は反射的に返事をする。
「あ、大丈夫です……」
そしてそう言いながら、ふと気づく。隣から声がしたという事実の異常さに。
(……え?何で?)
私はゆっくりと顔を向けた。
するとそこには、布団の中で横になって心配そうな顔をしてこちらを見上げる先輩がいた。
「……? …………??」
一旦、思考が停止する。頭の中が真っ白になり、さっきまで感じていた不安や絶望が一気に吹き飛んで、代わりに強烈な混乱が押し寄せてきた。
「……き」
「き?」
「きゃぁぁぁあああ!?」
喉の奥でつっかえていた声が爆発するように飛び出し、先輩は耳を押さえて不服そうに眉をひそめた。
「そんな風に叫ばれるとさすがに傷つくぞ」
「な、ななななななんで!?」
「何が?」
「なんでこの部屋にいるんですか!?しかもベッドに!!」
私は先輩から布団を剥ぎ取り、自らを守るようにそれにくるまった。
「なんでって、起こしに来たんだよ」
「レディの部屋に無断で入るなんて、どうかしてます!」
「夫婦なんだから別に良いじゃないか」
「良くない!というか、起こすのはルネの仕事ではないのですか!?」
「そうだけど……、なんか不安でさ」
「不安!?」
「……だって、ほら。また目を開けなかったらと思うと。……ね?」
「あ……」
先輩は困ったように笑った。その表情を見て私は、彼がこの一ヶ月間、どれほどの恐怖と苦悩の日々を過ごしていたのかを悟った。
「……あ、えっと……、す、すみません。心配、かけました」
記憶はないけれど、大切な人が生死の境をさまよう経験は誰だってしたくないものだという事はわかる。
だから私は素直に謝った。すると、先輩は少しだけ目を丸くして、それから照れたように視線をそらした。
「いや……こっちこそごめん。臆病で」
「臆病なんて、そんなこと……」
「いや、臆病だよ。俺は臆病で、どうしようもない男なんだ。本当に」
そう呟く先輩の声音があまりに弱々しくて、私は思わず布団をぎゅっと握りしめた。
けれど、そこでふと冷静さが戻ってくる。
(……いや、でも)
心配してくれたのはわかるけど、でも、だからといって……
「あの、先輩」
「ん?」
「起こしに来るだけなら……その……わざわざベッドに入る必要、なくないですか?」
そう、わざわざベッドに、しかも同じ布団の中に入り込む必要は一切無い。
けれど、先輩はニコッと笑い、「あるよ」と答えた。
「だってほら、君がちゃんと息してるか、近くで確認したかったんだよ」
「それ、理由になってると思います?」
「んー?あんまり思わないかなぁ?」
「私の事、馬鹿にしてます!?」
「してないよ。全然してない」
先輩はニコニコと笑いながら、じりじりと近づいてくる。私は布団を握りしめたまま、ゆっくりと後ろに下がる。
「あ、あの……何で近づいて……」
「君が……、俺を見てるから」
「意味わからないんですけど……」
「まっすぐに俺を見てくれるのが嬉しくて。ごめんな?」
「謝るくらいなら近づかないでもらえます!?」
「逆に聞くけど、どうして近づいちゃダメなんだ?」
「い、今は寝起きで、あんまりジロジロ見られたくないって言うか……」
「……俺は見たいよ。どんな君も、一番近くで見ていたい」
その言葉に、私は息を呑んだ。
先輩はまっすぐに私を見つめていて、その眼差しは冗談でも軽口でもなく、本気の色を帯びていた。
「せ、先輩……?」
そう呼びかけた瞬間、先輩の手がそっと伸びてきた。逃げる暇もなく、布団ごと私の身体を引き寄せる。
バランスを崩した私は、そのまま先輩の胸元に倒れ込んだ。硬い胸板の奥から聞こえる鼓動は、驚くほど速い。
私の心臓と同じくらい、いや、それ以上かもしれない。
「……エチカ」
先輩の腕が私の背に回る。強引なのに、どこか必死で、壊れ物を扱うように優しい抱きしめ方だった。胸の中で顔を上げると、先輩はやっぱり、どこか切なげに微笑んでいた。昨日からずっと気になっていた、あの表情だ。
「せ、先輩……?」
「エチカ、おはよう。エチカ……」
「お、おはようございます……?」
「今日は良い朝だね」
「……そ、そうですね?」
「エチカ、君のアンバーの瞳はとても澄んでいて、まっすぐで……、綺麗だね」
「……あ、ありがとう……ございます……」
「この瞳に、俺だけが映っていれば良いのに……」
「……先輩?どうし……え……?」
先輩はまるで私の瞳に吸い寄せられるかのように、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「せ、先輩。あの……近いです……」
「うん……」
「いや……、うん、じゃなくて……」
先輩との距離がさらに狭まる。私はどこか懇願するような先輩の群青の瞳から目を逸らす事が出来ず、気がつくと彼の唇が私の唇に触れるまであと数センチの距離まで迫っていた。
これはキスする流れではないだろうか。
(ど、どどどどうしよう!?どうしたら良いの!?受け入れたらいいの!?)
私は馬鹿だった。散々『好きです、付き合って下さい』って言って来たのに、具体的に『付き合うとはどういうことなのか』を考えていなかった。わかっていなかった。付き合うということは、つまりキスだってするわけで。
というかそもそも私と先輩は今、夫婦なのだから当然、それ以上のことだって……してもおかしくはない。
(……え、それ以上のこと、するの?朝から!?)
まるで耳年増な少女のように、思考が飛躍していく。私の頭の中はぐるぐると迷走し始めた。
しかし、その瞬間だった。
ガンッ!と勢いよく扉が開く音が響き、私は思わず肩を跳ねさせた。
「エチカっ!!今の悲鳴は――」
そう言いながら部屋に飛び込んできたのは、息を切らしたルネだった。
きっと私の悲鳴がルネの部屋にまで届いてしまったのだろう。まあ、当たり前か。だって彼女の部屋は私の部屋の二つ隣だから。
「…………何してんの?」
寝間着のままのルネは、ベッドで向かい合って顔を近づけている私と先輩を見て、スッと目を細めた。
安堵が一瞬で霧散し、一気に氷点まで温度が落ちたように、彼女のヘーゼルの瞳はとても冷たい。
(し、視線が痛い……)
朝早く悲鳴で起こされた挙げ句、心配して駆けつけたのに、まさか親友とその旦那がイチャついていたとなれば、誰だってあんな目になるだろう。私は言い訳を探しながら、ルネの視線から逃れるように
目を伏せた。
「ほほう?」
ルネの声が低い。私は思わず背筋を伸ばした。
「ま、まさか先輩が起こしに来てくれるとは思わなくて……その……びっくりして大きな声出しちゃったの。ご、ごめんね?」
「で?」
「で?……とは?」
「今は何してるの?」
「何って、それは……」
言い淀んだ瞬間、私はふっと顔を上げてしまった。
すると当然、そこには先輩の端正な顔があった。鼻先が触れそうな距離に私は小さく声を上げる。
「ひっ……!」
「何をしているの、か……。そうだな。強いて言うなら『おはようのキス』をしようとしていたところかな?」
先輩はニッと口角を上げ、私の頬に触れた。わざとゆっくり指先を滑らせ、そして人差し指で、ちょん、と唇を押す。
その瞬間、体の芯が一気に熱くなった。先輩はそんな私を見て、心底愛おしそうに微笑んだ。
「……ほんと、かわいいな。エチカは」
「な、何するんですか……!」
「おはようのキス、しても良い?」
「えっと……」
「……だめ?」
小さく首をかしげる先輩。その仕草があまりに可愛くて、私は『だめ』と言えなくなる。
「だ……、だめじゃ……」
ダメじゃない。むしろ……したいかも。
そう言いかけた、その時。
「コホンッ!」
ルネの、わざとらしいほど大きな咳払いが部屋に響いた。その瞬間、私は一瞬で二人の世界から現実に引き戻された。
「あたしがいることをお忘れなく」
短く言い放たれたその言葉には、明らかに『それ以上やったら許さない』というルネの心の声が乗っかっていた。私は恥ずかしさで頭が爆発しそうになり、逃げるように布団を頭から被った。
「あーあ、残念」
先輩は心底残念そうに呟き、ベッドから降りる。そしてルネに私の着替えを頼むと、部屋を出ていった。
布団越しで見えなかったけれど、ルネが先輩をどんな顔で見送ったかは……想像に難くない。
案の定、この後の身支度を手伝ってくれるルネの表情は、終始、怖かった。




