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この溺愛にはウラがある  作者: 七瀬菜々


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3/7

3:目覚めたら5年後でした(2)

 先生の話によれば、私はひと月前、モンフォール公爵家の本邸で開かれた新年を祝う夜会の最中、涼を取るためにテラスへ出たのだという。

 そしてそこで、かなり酔っていた私は星を見ようと手すりから身を乗り出し、そのまま手を滑らせて転落。落下の際に頭を強く打ち、そのまま意識を失い、ひと月近く眠り続けていたーーというのがことの顛末らしい。

 私は頭に巻かれた包帯に触れた。

 今は特段痛みなどないが、この包帯の下は高度な治癒魔法を必要とするほどの怪我で、先生曰く、よく生きていたなと思うほどだったそうだ。


「記憶の抜け方が揃いすぎている点はやや気になりますが、脳への強い衝撃の影響による一時的な健忘だと考えて良いでしょう」

「……はぁ」

「幸いにも、日常生活に必要な知識や認知機能は保たれていますし、言語、動作、常識的な判断も問題ありません。今後の生活に大きな支障が出ることは少ないかと思います」

「そ、そうですか……」


 五年分の記憶喪失。その数字が胸の奥に重く沈んだ。

 昨日、先輩に告白した時のことを私は確かに覚えているのに、その間にあるはずの時間がまるごと霧のように消えている。 

 状況は何となく理解出来たが心がそう簡単に追いつく訳もなく、不安になった私は無意識に先輩の方を見上げた。

 すると先輩はベッドに腰を下ろし、私の肩をそっと抱き寄せた。先輩のシャツの袖から、シダーウッドの香りが漂う。その香りが、私を安心させた。

 

「スタンリー、記憶は戻るのか?」

「現時点ではなんとも言えません。なにせ五年分の記憶ですからね。ある日突然戻ることもあれば、このまま一生戻らない可能性も十分にあります」

「そうか……」

 

 先生の言葉に、先輩は複雑な表情を浮かべた。

 先生はそんな彼を慰めるように言葉を続けながら、紙にペンを走らせた。


「エリック様。記憶のことは一旦置いて、今はまずエチカ様の体力の回復を最優先としましょう。怪我自体は治癒魔法で完治していますが、一ヶ月近くも眠り続けていたわけですから、筋力も落ちています。内臓の働きも弱っているでしょう。食事はお粥など消化の良いものから始め、運動は三十分程度の軽い散歩から。生活リズムを整えることが、心にも良い影響を与えます。そうやっていつもと変わらぬ生活を送れるようになれば、徐々に記憶を取り戻す事もあるかもしれません」

「そう、だな……」

「こちらに食事と運動に関する注意事項を記してあります。何かあれば、いつでもご連絡ください」


 先生はそう言って、メモ紙を先輩に渡した。そして私に向き直り、目線を合わせると柔らかく微笑んだ。


「エチカ様も、くれぐれも、無理に思い出そうとはなさらないで下さいね。無理をすると心身に支障をきたす事もありますから」

「は、はい」

「それと、社交の類はしばらくお休みした方が良いでしょう。今の段階では、まだ外部の人と会うのは避けた方がいい。きっと脳が混乱してしまいます。記憶が戻っても戻らなくても、新しい生活に慣れてきてから社交界に復帰という形の方が、エチカ様の負担にもならないかと」

「社交界……」

「わかった。気をつける。ありがとう。もう下がって良いぞ、スタンリー」

「はい。それでは、私はこれで失礼いたしますね。エチカ様、お大事に」

 

 先生は先輩と私に一礼すると、静かに部屋を後にした。穏やかな先生だ。それでいて、指示が的確で頼り甲斐がある。さすがは公爵家お抱えの医師である。私は先生のやや丸まった背中を見送りながら、感心した。

 

「……エチカ。君の最後の記憶は、あの卒業式前の二月十四日で合っているか?」

「はい、そうですね。その日の夜に寝て、起きたら今この状況という認識です」

「そうか……」

「だから正直、すごく不思議な気分です」

「そうだよな……。何か困ることがあればいつでも言ってくれ」

「ありがとうございます。私も、なるべく早く記憶を取り戻せるよう努力しますね!」

「いや、無理に思い出そうとしなくても良いよ。今は体力の回復を最優先にしよう。スタンリーもそう言っていただろう?大丈夫。ゆっくりでいいから……」

「でも……」

「大丈夫だ。今は不安かもしれないけど、きっとすぐに新しい生活にも慣れるさ。俺が……、俺がずっとそばにいるから、心配しなくてもいいよ」


 先輩は私を抱きしめ、額に優しく唇を落とした。彼のその仕草にあまりドキドキしないのは、こういうことをするのが普通の関係だったからだろうか。

 不意に沈黙が降りる。私と先輩、二人だけの空間に、仄かな緊張が宿った。


「……あの、一応確認と言いますか……、一つお聞きしたいことがあるのですが……」

「ん?何だ?」

「私と先輩って一体どういう関係で……」

「……夫婦だ」

「ふっ…………!?」

「夫婦だよ、俺たちは。ほら」


 何となくそんな気はしていたが、実際にそう言われると違和感しかない。

 だが先輩は、疑いの目を向ける私の左手を取って、薬指に軽く口づけた。

 

「この指輪が何よりの証拠だと思うけど?」


 薬指に光る、立派なピンクダイヤの指輪。

 それはどう見ても、庶民に毛が生えた程度のロアン男爵家には買えない代物で、私はそれが結婚指輪であると認めざるを得なかった。

 

「こ、これは、いわゆる結婚指輪というやつで……?」

「そうだよ。ほら、俺とおそろい」


 先輩は私の左手に自分の左手を重ねると、覆い被せるようにして指を絡めた。二人の薬指には同じデザインの指輪が輝いている。


「ど、どうして……?」

「どうしてって?」

「どうして私と先輩が結婚なんて……」

「君が言ったんじゃないか。結婚を前提に付き合ってくれって。卒業式の日に」

「……で、でも!仮にそうだとしても、先輩は私の事なんて全然興味なかったのに……!」


 私の記憶が正しければ、先輩は昨日……、じゃなくて五年前の二月十四日まで、私のことなど小指の先ほども好きではなかったはず。それなのに、たったひと月で結婚しても良いと思うほど気持ちが変化するなんてこと、あるんだろうか。

 私はそんなことを考え、はたと気づいた。


「もしや、私に脅されましたか!?」

「……は?」

「な、何か弱みを握られたとか!!」


 私が真剣にそう言うと、先輩は堪えきれないとでも言うようにプッと吹き出した。

 そして、私の頭を撫で回したかと思えば、なぜかベッドに押し倒した。


「あ、ああああの……?」

「脅されてはいないけど、『私と結婚しない人生はとてもつまらないものになるはずです!』とは言われたかな?」


 先輩は、五年前より長く伸びた私の髪に指を絡め、そっとすくい取ると、毛先に軽く口づける。

 

「せ、先輩……?」

「…………単純に絆されたんだよ。何度断っても、君が好きだと言い続けるからさ。もしこのまま卒業したら、君に好きだと言われることもなくなるのかと思うと、なんだか寂しいなって」


 先輩はそう言って笑うと、今度は私の頬に触れた。先輩の手はひんやりと冷たくて、気持ちがいい。


「ほ、本当に?絆されてしまったんですか……?あの鉄壁ガードの先輩が?本当に?」

「嘘だと思うのか?」

「はい」

「おい、即答するな」

「だってぇ……」


 先輩はなかなか信じない私に、やれやれと肩をすくめた。そして、耳元に顔を近づけると、吐息混じりの声で小さくつぶやく。


「好きだよ、エチカ。愛してる」


 耳に吹きかかる先輩の吐息と、低く甘い声。私は耳を抑えて飛び起き、彼と距離を取った。


「な、な、なななな何をするんですか!?」

「だって、君がなかなか信じてくれないから」

「だ、だからってこんな……!破廉恥です!」

「破廉恥って……、この程度で?」

「こ、この程度!?」

「ああ、そうか。今の君はまだ十七歳だったか。なるほど、お子様には刺激が強すぎたようだ」


 先輩はそう言うと、クツクツと笑った。なんだろう。失礼だな。


「わ、笑わないでくださいよ!」

「悪い悪い。でも、そうだなぁ。記憶は戻らなくてもいいけど、スキンシップには慣れて欲しいところだな」

「なんで……」

「だって俺たちは夫婦なのだから」


 先輩は揶揄うような口調で、自分の薬指を見せつけてくる。光を受けてきらりと輝く指輪は、まるで現実を突きつけるように、エチカの胸を静かに打った。


「先輩と、夫婦……」


 言葉だけが頭の中を空回りする。実感がなさすぎる。昨日まで片思いだった相手と、五年後の私は夫婦になっている――そんな現実を、どう受け止めればいいのだろう。

 しかも、先輩の反応を見る限り、かなり円満な関係だったように見える。


(ということは……、当然夫婦としてのあれやこれやをしてきたということで……?)


 そこまで考え、私は頭の中に浮かんだ光景を振り払うように首を横に振った。


「いやいやいや、あり得ないあり得ない!」

「あり得なくないよ、夫婦だったら普通のことだ」

「ふ、普通……?」

「そう、普通だよ」


 先輩はいたずらな笑みを浮かべながら、ジリジリと私に近づく。

 そして、私の頬に手を伸ばした。その手はするりと肌を滑り、自然と唇の方へと流れる。

 

「あ、ああああの、わ、私……!」

「ちょっと黙って」


 先輩はそのまま、親指の腹で私の唇を軽くなぞる。これはもうキスされる流れだ。私はたまらず、ぎゅっと目を閉じた。

 しかし、先輩の唇が私の唇に触れることはなく。私は恐る恐る片目だけ開けた。

 すると先輩は静かに肩を震わせていた。彼のその姿を見て、私は思わず半眼になる。


「……何を笑っているんですか」

「いや、だってあまりにもあたふたするものだから」

「私を弄びましたね?」

「君が勝手に勘違いしただけだ」

「きーっ!!むかつくぅ!」

「ははっ。……その反応、学生の頃と同じだな……」

「そりゃ、心はまだ十七歳ですからね!」

「……そうか。本当に、忘れているんだな。何もかも……」

「だからそう言ってるじゃないですか!何ですか!二十二歳にもなって、純真な反応が痛々しいとでも!?」


 私は恥ずかしくて両手で顔を覆った。

 だが、すぐに先輩に手首を掴まれ、引き剥がされた。


「懐かしいなぁ」


 真っ赤になった私の顔を見て、そう呟く先輩はどこか悲しげな笑みを浮かべていた。


「先輩……?」

「好きだよ、エチカ」

「ふぇ……!?」

「俺は君が好きだ。大好きだよ」

「あ、あの……」

「君のことが世界で一番好きだ。愛してる」

「あ、あああああの。ちょっと待っていただいて……」

「エチカは……、もう俺の事、好きじゃない?」

「は?好きですけど!?私から先輩をとったら何も残らないくらいには好きですけど!?」

「だったら、どうして逃げるの?」

「だ、だって!こんな甘い先輩は解釈違いというか……!こ、心の準備が……!」


 突然降ってわいた憧れの先輩との結婚という事実。

 素直に喜べていないのは記憶喪失という状況のせいなのか、それとも見たことがないほど甘い態度の先輩のせいなのか。

 私はもう勘弁してくれと、頭から布団をかぶった。


 だからこの時、先輩がどんな顔をして、私を見つめていたのかは知らない。

 



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