2:目覚めたら5年後でした(1)
翌朝、私はゆっくりと目を開けた。
仄かに香る花の匂いと、正午にしか鳴らないはずの中央広場の鐘の音。それから朝の柔らかさとは違う、鋭く刺すような日差しが心地よく…………、ん? 刺すような、日差し?
「ち、遅刻!?」
ようやく頭が覚めた私は飛び起きた。
まずいまずいまずい。だって今日は平日。週のど真ん中の水曜日だ。昨日、先輩にクッキーを渡したことで浮かれていたが、普通に授業がある日。しかも、運の悪いことに、一限目は鬼教官ハイネ先生の特別講義ときた。
ああ、どうしてこんな日に限って寝坊なんて……!
「もう!どうしてルネは先に行っちゃうのよぉ!!裏切り者ぉ!!」
起こしてくれても良かったのに、なんて。自分の非を親友になすりつけながら、私はベッドから降りようと、二段ベッドの柵に手をかけた。
いや、違うな。かけようとした、だ。
私はそこにあると思っていた柵がないことに気づかず、右手に体重をかけてしまい、そのままベッドから落ちた。
「痛ったぁ……」
落ちた時に打った腰をさすりながら立ち上がる。
そして私はそこでようやく違和感に気づいた。ベッドは2段ベッドじゃないし、床は木じゃなくて大理石。机も椅子も棚も、どれも使い古された粗末なものでなく、明らかに高級品。おまけに目の前に広がるのは、寮の部屋の三倍以上はある。
そういえば、よく見ると、身を包む布団の肌触りもいつもとは違うような気がする。まるで絹のように滑らかだ。
「え……、どういうこと?寮……じゃない?」
まさか、寝ぼけて別の部屋に入ってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。寮にこんな豪華な部屋はないし、そもそも昨夜は屋上でルネと星空を眺めたあと、ちゃんと自分たちの部屋のベッドで眠ったはずだ。
私は寝起きの頭で必死に考えた。だが、どう考えても正しい答えが見つからない。
「まさか寝てる間に誘拐……なんてね。そんなわけないか。あはは……」
私は動揺をごまかすように笑った。
その瞬間。ガシャンと何かが割れる甲高い音がした。
私が音のした方に視線を向けると、そこには呆然とこちらを見つめる先輩の姿があった。短髪だったはずの黒髪は肩くらいまで伸びて一つにまとめられているし、着ているものも学園の制服じゃないが、あの顔立ちは間違いなく先輩だ。
(どういうこと……?)
起きたら見知らぬ空間にいて、目の前には憧れの先輩がいる。これは夢だろうか。はちゃめちゃな具合がもう、高熱の時に見る夢のように思えた。
けれど、どうやら夢でもないらしい。
先輩は涙ぐみながら私に駆け寄り、私を強く抱きしめた。骨がきしむくらいに。
「い、いたたたた……」
多分、この痛みは本物だ。夢じゃない。
「あの、何がどうなって……?」
「エチカ……!エチカ……!!」
先輩は何度も何度も私の名前を繰り返しながら、私の存在を確かめるようにきつく抱きしめた。
その様子はまるで出征した恋人が生きて帰還したかのような、もしくは死んだと思っていた恋人に再会したかのような、そんな印象だった。
いつも冷静な彼がこんなに取り乱しているところを、私は見たことがない。だから私は思わず尋ねてしまった。
「えっと……、先輩? エリック・ド・モンフォール先輩、ですよね……?」
「……先輩?」
「ねえ、先輩……。あの、これって今どういう状況なんでしょうか……?」
「………先輩、だと?」
「え……?」
「ハッ……。君にそう呼ばれるのは、三年ぶりだな……」
先輩はどこか傷ついたような顔をして、私を抱きしめていた手を緩めた。
そして私をゆっくりとベッドに座らせると、その前に跪き、じっとこちらを見上げた。
「これからはもう、先輩後輩じゃないから、その呼び方はやめようと話したじゃないか。なのに……どうしてなんだ?」
「……え、結婚?」
「俺のことをもう、名前で呼びたくもないということか?」
「……はい?」
悲痛な表情でそう言う先輩。今にも泣き出しそうな彼の姿に、私は胸が痛くなる。
だが、そんな顔をされても、どうすることもできない。もうわけがわからない。
「……えっと、結婚式って何の話ですか?というか、さっきから何の話してます?私、ちょっとイマイチ状況が呑み込めてなくて……。あの、そもそもなのですけど、ここって何処なのでしょうか?」
私は遠慮がちに尋ねた。
すると、今度は先輩の顔がサアッと青ざめた。
「まさか……、記憶がないのか……?」
「へ……?記憶?」
私が首を傾げると、先輩は焦った様子ですぐさま廊下に顔を出し、使用人を呼びつけた。
「おい!誰でもいい!スタンリーを呼んでこい!」
大きな声で怒鳴りつけるように命じる先輩に、私はびくりと肩を震わせた。そんな先輩を見たのは初めてだったからだろうか。なんだか、とても怖く感じた。
しばらくすると、バタバタとメイドたちが部屋に集まって来た。彼女たちは私に意味ありげな視線を向けつつも、先ほど先輩が落とした花瓶の破片を片付けている。
そして片付けが終わるとすぐに、彼女たちは初老の医師を迎え入れた。
部屋にやってきたスタンリー・フォード先生はモンフォール公爵家お抱えの医者らしい。彼は白衣の裾を整えながら、ベッド脇の椅子に腰を下ろし、私に微笑みかけた。
「おはようございます、エチカ様」
「……おはよう、ございます?」
「まずは体温を測りましょう。こちらを腋に挟んでくださいね」
「あ、はい……」
スタンリー先生は優しく、体温計を手渡した。そして私がそれを受け取ると、彼はカルテに目を落としながら言葉を続ける。
「体温を測っている間に、いくつか質問をさせていただきますね。答えられる範囲で構いませんので」
「……はい」
「お名前は?
「エチカ・ロアンです」
「ご年齢は?」
「十七歳です」
「ここがどこか、わかりますか?」
「……いいえ」
スタンリー先生はふむふむと軽くうなずき、次に胸ポケットからペンを手に取って見せた。
「これは何か、わかりますか?」
「えっと……、ペンです」
「あそこの壁にかけられた時計は何時を指していますか?」
「十三時五十分……」
「りんごが目の前に三つあるとします。一つ食べたら残りはいくつでしょう?」
「二つ……」
「この問診票にお名前を書いていただけますか?」
「はい……」
質問の意図がわからない。私は戸惑いながらも、ペンを受け取り、丁寧に「エチカ・ロアン」と署名した。
スタンリー先生はその文字を見て、また、小さくふむ、とうなずいた。
「では最後にもう一つ。今日は何年何月何日でしょうか?」
「聖暦九八一年の二月十五日です」
私は迷いなくそう答えた。 だって昨日が十四日で、今日は十五日。それ以外のはずがない。
けれどその瞬間、先輩が息を呑んだ。スタンリー先生も少しだけ表情を曇らせたが、すぐに穏やかな声に戻った。
「ありがとうございます。診察は以上です。楽にしてくださいね」
「えっと……、あの、先生?」
「はい、何でしょうか」
「さっきの質問は何だったのでしょう? まるで私の記憶に問題があるみたいな……」
私は不安げにスタンリー先生を見つめた。すると先生はそっとカルテを閉じ、そして、静かに告げた。
「エチカ様、落ち着いて聞いてくださいね。今日は聖暦九八六年の二月三日です。あなたの年齢は一七歳ではなく、二十二歳なのです」
「それはつまり……?」
「つまり、あなた様は今、過去五年ほどの記憶を失っていらっしゃるようです」
「………………はい?」
その瞬間、世界の時間が止まったような気がした。




