17:地獄のお茶会(3)
ーー記憶喪失のことは、ここだけの話にしておこう
私が目覚めたとき、そう言っていたのは確かに先輩だった。
「え……?先輩が?どうして……?」
思わず声が裏返る。コレット様は私の動揺を楽しむように、ゆっくりと微笑んだ。
まるで、この瞬間を待ち構えていたかのように。
「どうして、なんて……。だってエリックは、昔から大事なことほど私にだけは隠さない人でしょう?」
「……はい?」
「あ、どうかエリックを怒らないであげてね?彼、とても悩んでいたのよ。これからあなたのことをどう支えればいいのかって。これから先、記憶を失ったあなたを支えていける自信がないって。ただでさえ夫婦関係は破綻していたのに、愛情のない人間に尽くすなんてできないって……」
困ったように眉を下げ、慈悲深い姉のような顔をして話すコレット様。
その言葉の端々に「エリックのことは私が一番知っているのよ」という気持ちが滲んでいる。
私はその声を聞きながら、ふと腑に落ちた。
(ああ、なるほど)
記憶を失くす前の私はコレット様のこういう、「エリックと私は特別な関係なのよ」的な言葉をずっと聞かされていたから、真偽を確かめようともせず、簡単にコレット様との関係を疑ったのか。
(馬鹿だなぁ、私)
目の前の先輩が伝えてくれる言葉を信じず、こんなわかりやすい嘘を信じて。
思わず、乾いた笑みがこぼれる。
そんな私の態度に、コレット様はわずかに眉を顰めた。
「……何、笑っているのよ」
「いえ、こんなわかりやすい嘘を信じた自分が情けなくて」
私がそう言うと、コレット様の口元に浮かんでいた笑みが消えた。
「嘘、ですって……?」
「嘘ですよ。だって、先輩がそんなこと言うはずないもの。コレット様、本当は誰から聞いたんですか?スタンリー先生?あ、ひょっとして別邸のメイド?まあ、記憶が無いことは薄々感づいていたでしょうし、噂程度に耳に入ってきていてもおかしくはないか……」
「だ、だからエリックから……!」
「やだなぁ。だから、そんはなずないんですって。だってほら、先輩って私のこと大好きですし……?」
それこそ、私に逃げられると思って、怯えて監禁するほどに。
「まあ、記憶がないことで私が苦労すると思った先輩が、先にそのことをコレット様に話していてくれた、と言うのならわからなくもないですが……。そうならそうと私に言うはずですよね?」
私がそう言ってコテンと首を傾げた瞬間、コレット様の表情が固まった。
きっと、いつもならこんなふうに言い返したりしないのに、などと思っているのだろう。
コレット様の表情はじわじわと歪んでいった。
「……な、何なの。あなた」
「それはこちらのセリフですよ、コレット様。何が目的でそんな嘘をつくんです?どうして私と先輩を仲違いさせようとするんですか?私、もしかして、何かあなたの気に触ることでもしましたか?それとも、モンフォール家に私が相応しくないと思っていらっしゃるとか?」
私は息を吸い、まっすぐに彼女を見つめた。
「私が何かしてしまったなら謝ります。モンフォール家に相応しくないとお思いなら、相応しい人になれるよう努力します。だから、私と先輩を別れさせるために、先輩に精神干渉魔法を使うのはやめてください!」
私のことが気に食わないというのなら、かまわない。仕方のないことだ。
けれど、先輩を巻き込むのは違う。
私が真剣にそう訴えると、コレット様は一瞬ぽかんとした表情を浮かべたあと、急に高笑いを上げた。
「……随分と頭の中がお花畑なのね。気に触ることをしたかって?あなた、存在自体が気に食わないのよ。昔からエリックの周りをウロチョロして!何様なの!?」
その言葉には、これまで隠していた毒がむき出しになっていた。
今のコレット様は、表情、声色、雰囲気、どれをとっても悪役にしか見えない。
誰だよ。この人を社交界の金の薔薇とか言ったやつ。とんだ毒花じゃないか。
「貴族家の令嬢でさえ、エリックには気軽に近づけなかったというのに、庶民の分際で図々しいのよ!」
「それは確かに、そうかもしれませんが……」
「周りがあなたの恋を応援するのも気に食わなかったわ。だからあなたには、わざわざエリックに近づくなと忠告してあげたのに!あなたはそれを無視してしつこく付き纏って!」
「すみません。近づくなという意味だとは思わなくて……」
「私、あなたみたいな女が一番嫌いなのよ!無垢なフリして人の男に近づいて!」
「人の男……?あ!シルヴァン様とのことなら誤解です!あれは誰かが悪意を持って噂を流して……」
「そっちじゃないわよ!ほんと鈍いわね!そういうところが嫌なのよ!!」
「……へ?」
どうやら私は彼女の言葉の意図が理解できていないらしい。
苛立ちを抑えられない様子のコレット様の頬は紅潮し、握りしめた指先が震えている。
「エリックはね、ずっと私のことが好きだったのよ。そしてそれは、これから先も変わらないはずだったの。それなのに、あなたが現れてから、全部狂ってしまった!」
エリックはずっと一途に私を思っていたのに。これからもそうであって欲しかったのに。
コレット様は吐き捨てるように言う。まるで私に恋人を奪われたような言い方だ。
だけど、それって……
「えっと……、おかしくないですか?だってまるで先輩がコレット様のものみたいな……」
「みたい、じゃなくてそうなのよ」
「……え?……コレット様は先輩のことが好きなんですか?」
「好きじゃないわ。エリックが私のことを好きなのよ」
「んん??」
理解が追いつかず、思わず眉を寄せる。
よくわからない。婚約の時に先輩を選ばなかったのはコレット様ではなかったのか。それなのになぜ、先輩に執着しているのか。だったら初めからシルヴァン様じゃなくて、先輩の方を選べば良かったのに。
しかし、そう言うと、コレット様は私を鼻で笑った。
「エリックは公爵にはなれないんだから、選ぶわけないじゃない」
その言葉は、温室の静けさの中で重く響いた。
えーっと、それはつまり……どういうことだ?
シルヴァン様が次期公爵だから選んだということ?
そのくせ、先輩が他に目を向けるのは嫌と?
え? すごく我儘なこと言ってない? ん?
理解できず、私はぽかんと首を傾げた。
その時、ふと、温室の外を歩く気配に視線が引かれた。
ガラス越しに、シルヴァン様と先輩の姿が並んで見える。
こちらへ向かってくるわけではないのに、私はなんだか嫌な予感がしてすぐに視線を戻した。
だが、この私のわずかな動きを、コレット様は見逃さなかった。
私の目線の先を追い、二人の姿を確認した途端――
彼女の口元に、ぞくりとするほど不穏な笑みが浮かんだ。
「……わからないなら教えてあげるわ。エリックが誰のものなのかを」
ゆっくりと瞬きをすると、コレット様は私の席に置いてあったティーカップへ手を伸ばした。
白い指先がカップの縁をなぞり、紅茶の残りを軽く揺らして確認する。
そして――そのまま、それを頭から被った。
「……え?」
紅茶が髪を伝い、滴となってドレスの襟元へ落ちていく。
温室の光を受けて、濡れた金髪がゆっくりと揺れた。
あまりに異様な光景に、私の理解は追いつかない。
「コレット様、何を……」
そう問いかけようとした私の声を、コレット様の動きが遮った。
ゆっくりと顔を上げた彼女の前髪は濡れて頬に張りつき、その隙間から覗く瞳は氷のように冷たく、そしてどこか楽しげだった。ニヤリ、と口角が上がる。
(あ、これはまずいパターンのやつだ)
そう思った時には、もう遅かった。
「きゃああっ!!」
甲高い悲鳴が温室に響き渡った。
庭園へ向かっていた令嬢たちが、驚いた様子で戻ってきた。
「コレット様!?」
「どうされたのですか!?」
コレット様は震える手で濡れた髪を押さえ、今にも泣き出しそうな顔を作る。
さっきまでの冷たい笑みは跡形もなく、完璧な被害者の表情だった。
「エチカが突然怒って………!」
「何ですって!?
「そんな……!」
令嬢たちの視線が、一斉に私へ突き刺さる。
私は慌てて否定した。
「私何もしてません!コレット様が――」
「最低っ!」
リーリア様の叫びと同時に、頬に鋭い衝撃が走った。
乾いた音と共に、視界が一瞬揺れる。
私は赤くなった頬を抑え、リーリア様を見た。
「コレットお姉様になんてことをするの!?いつもいつもお姉様を困らせることばかりして!庶民の分際で、調子に乗るんじゃないわよ!」
温室に響く、リーリア様の怒声。
その言葉を皮切りに、オリビア様、スカーレット様も次々と私を罵倒し始めた。
ルネは慌てて私の前に立ち、私を庇うように両手を広げる。
けれど、彼女一人ではこの空気の流れを止められない。
その時だった。
温室の入り口から、急ぎ足の気配が近づいてきた。
振り返ると、そこには困惑した様子のシルヴァン様と、先輩が立っていた。
「コレット!?」
シルヴァン様は真っ先にコレット様に駆け寄った。濡れた髪と紅茶で染まったドレスを見た瞬間、彼の顔色がさっと変わる。
コレット様はその腕にすがりつき、弱々しい声を震わせた。
「お茶を被ったの!?火傷は!?」
「わ、私は……ただ……エチカと話をしていただけで……」
そのか細い声は、周囲の同情をさらに煽るように響いた。
令嬢たちの視線が、ますます私へと集中する。
先輩はこの状況を一瞥し、濡れたコレット様と、頬を打たれた私を見比べた。そして
「……エチカ」
短く名前を呼ばれる。私はびくりと肩をはねさせた。
「せんぱい……」
「何があった?」
じっと私を見つめる先輩。私はその瞳に促されるように口を開いた。しかし、
「エリック、エチカを責めないであげて……!きっと私が何か気に障ることを言ってしまったのよ……」
コレット様はシルヴァン様の腕の中で、先輩に訴えた。
そして涙を浮かべた瞳で、私を見つめる。
「……ごめんなさい、エチカ」
その声は震えているのに、口元だけがわずかに笑っていた。
先輩はそんなコレット様を見下ろし、小さく息を吐いた。
「コレット。少し黙っていてくれないか」
「……え?」
「俺はエチカに聞いているんだ」
「エリック……?」
「君の話は聞いていない」
冷たく言い放つ先輩に、コレット様は困惑の表情を浮かべた。
だが先輩は彼女を気にする様子もなく、もう一度、先輩は私を見据えた。
「エチカ、何があった?」
先輩の声からは決して怒っているわけではないことが窺えた。
だから私は呼吸を整え、まっすぐに先輩を見つめた。
「コレット様が、自分で頭からお茶を被りました」
「そうか。それで、君は今、それを証明できる術を持っているか?」
「いいえ。何も」
「そうか、わかった」
淡々とした問答。その短いやり取りで、すべてを察した先輩は、仕方がないと言うように静かに頷いた。
「エチカ。首飾りを返してくれ」
「……はい」
胸元に手を当てると、今朝贈られたばかりの魔石のネックレスがひんやりと指先に触れた。
ルネがそっと後ろから外し、それを先輩へ差し出す。
コレット様は先輩のその行動を、私への決別の意味に受け取ったらしい。彼女は勝利を確信したように、薄く笑った。
「ああ、エリック……!どうか、穏便に!エチカはまだ、あなたの妻なのよ……。私なら大丈夫だから……!」
心優しいヒロインを演じるコレット様。劇団に入れそうなほどの演技力だ。私は思わず感心してしまう。
「兄さん……、ごめん」
先輩はシルヴァン様の方に向き直り、困ったように笑った。
「エリック……?」
「本当はこんな風に使うつもりじゃなかったんだけど、エチカの名誉のためだ。どうか許してほしい」
「何の、話だ?」
「これから聞かせるものは兄さんにとっては、酷かもしれない……」
先輩はそういって、ネックレスの魔石の部分にそっと魔力を込めた。
すると魔石は柔らかい光を放ち、そしてーー声を発した。




