12:記憶の照合(2)
扉が閉まったあと、部屋には静寂だけが残った。
私は扉を見つめ、呆然と呟く。
「先輩のあの言い方……やっぱり、私は先輩の浮気を疑って、先輩は私の浮気を疑っていたってことよね」
日記に書かれていた通りだ。お互いに誰かから聞いた話を信じて、相手を問い詰め、相手が否定すれば嘘だと決めつける……。私たちはそんな悪循環に陥っていた。それはきっと、間違いない。
でも、どうしてだろう。
その構図だけでは説明できない違和感が、ずっと引っかかっている。
私は目を閉じ、日記の内容をひとつひとつ思い返した。
日記には三年間の結婚生活が時系列で綴られていて、最初の一年ほどは穏やかで幸せな日々だった。
けれど一年を過ぎた頃、私は誰かから「先輩はコレットへの恋心を忘れるために私と結婚した」ということを聞かされた。
そしてその少し後、夜にコレット様の部屋を訪れる先輩を目撃し、浮気を疑った。また同じ時期、今度は私と義兄シルヴァン様の不倫の噂が流れ、先輩はそれを信じて私を糾弾した。そこから関係は急速に悪化していった。
状況的に、私が先輩の浮気を疑ったのは仕方のないことだろう。先輩の初恋について知ってしまったあと、割とすぐに、コレット様の部屋を訪れる先輩を見てしまったのだから。
ただ……
「どうして先輩は私の噂を信じたの……?」
私は首をかしげた。
私が知る先輩は、とても慎重な人だ。真偽の怪しい噂話をそのまま信じるようなタイプではない。むしろ、疑わしいことがあれば徹底的に調べ、事実を突き止める人。
だからこそ、先輩の魔法はいつも正確で安定していた。術式には無駄がなく、緻密に編まれていて、失敗の余地がない。私はその正確さと美しさに、一目惚れしたのだ。
「先輩が噂を信じるなんて……よほど決定的な場面を見たってこと?でも、そうなると私は本当に浮気していたことになる。日記の内容と一致しない」
私は日記の筆跡を思い出す。
最初は丁寧で整っていた文字が、途中から徐々に乱れ、ところどころ滲んでいた。きっと泣きながら書いたのだろう。
その一方で、最後の方は筆圧が強く、滲みもなかった。おそらく、怒りのままに書いたのだろう。
私は嘘でこんなに文字に感情を込められるほど器用じゃない。
「どうしてこんなに拗れている?私の方は……身分違いの結婚で精神的にも疲弊していたみたいだし、追い詰められた状況なら視野が狭くなるのもわかる。けれど先輩はどうして……」
考えれば考えるほど霧が濃くなるみたいだ。思考が堂々巡りを始め、私はふと視線を落とした。
静かな部屋の空気が、やけに冷たく感じられる。
そのときだった。
カツン、と窓の外から小さな音がした。
私ははっと顔を上げる。すると、テラスの手すりの向こうから、ひょこりと亜麻色の髪がのぞいた。
「……ルネ?」
あの髪色、間違いなくルネだ。
どうやら梯子を使って、こんな高い場所まで登ってきたらしい。
「もう……無茶するんだから」
きっと私を心配してくれたんだろう。本当に、ルネは私の事が大好きすぎる。まあ、それは私もなのだけど。
私は呆れたように笑いながら、駆け寄った。そして窓を開け、ルネを迎え入れようとした。
けれど、ルネは一歩も部屋に入らなかった。
代わりに、私の足元へと視線を落とす。足枷を見た瞬間、彼女の表情が怒りで強張った。
「逃げよう、エチカ」
ルネは低く、震えるような声でそう言って私の手を掴み、その手のひらに小さな金属の鍵を押し込んだ。
「これ、足枷の鍵。……今すぐ外して」
「え……」
「先輩はいない。今しか逃げるチャンスはないわ。早く!」
ルネの声は切羽詰まっていて、いつもの余裕なんて欠片もない。私は手のひらを開き、鍵を見つめた。
そして思った。
――今ここで逃げたら、先輩が壊れてしまう。
その予感は、理由もなく胸に落ちてきた。ただの思いつきではなく、確信に近いものだった。
だから、私はそっと首を横に振り、ルネの手に鍵を返した。
ルネは目を見開き、困惑と焦りが入り混じった表情で私を見つめた。
「エチカ……どうして?」
「ルネはさ、先輩のことを信じられないって言ってたよね。先輩の溺愛には裏があるって。でも……私は違うと思うの。先輩の言葉は本物だよ」
だってあんなふうに取り乱した先輩は見たことがない。
もしあれが演技だというなら、役者にでもなった方がいい。
「記憶を取り戻すことに消極的なのは、私が全部思い出したら屋敷を出て行くと思ってるから。私に出て行ってほしくないのは、私のことが好きだから。そう考えるのが一番自然だよ。……私がこの状況で突然いなくなったらきっと先輩は泣いちゃうかもしれないわ」
冗談めかして笑う。ルネはそんな私を見て、怪訝な顔をした。
「どうしてそんなに信じようとするの?先輩、コレット様と浮気してたんだよね?」
「確定したわけじゃないよ。私がそう決めつけただけで、先輩は否定してる」
「先輩が嘘ついてるのかもしれないじゃん」
「それは、ちゃんと話してみないとわからないよ。でも、決めつけるのは良くない。視野が狭くなっちゃう」
「エチカ、あんたが先輩を信じたい気持ちもわかるよ。でも、私は先輩を信用できない。
本当にエチカのことが好きなら、こんなふうに監禁なんてしない。好きな人を傷つけるようなこと、しない!」
ルネの視線が足枷に落ちる。
そうだね。ルネの言うことはもっともだ。
でも、先輩は多分、私を傷つけようだなんて思っていない。
その証拠に、枷の内側に布が当てられている。食事はいつも栄養のあるものを用意してくれるし、髪も梳かしてくれる。
足枷がなければ、ただ妻の世話を焼きたいだけの優しい夫にしか見えない。
「ルネは、私が傷ついてるのを見てきたから不安なんだよね。心配してくれてるんだよね。ありがとう。でも、冷静になって考えてみて?」
もし私が良くない秘密を知ったのなら、殺せばいい。
もし利用したいだけなら、別の女を探せばいい。
もし世間体を気にしているなら、記憶喪失を理由に離婚すればいい。
「先輩が私にこだわる理由って……私が好きだから以外に、なくない?」
自分で言いながら、頬が少し熱くなる。
ルネは呆れたように目を細めた。
「……どうしてそんなに嬉しそうなのよ。自分の置かれた状況わかってる?」
「え、そんなに顔に出てる?」
「出てる」
「でもさ、仕方なくない? どう考えても先輩、私のこと大好きなんだよ」
「どうしてそうポジティブなのよ……」
「こういう性格だから仕方ないわ。……ねえ、ルネ。私、やっぱり先輩が好き。だから、ごめんね?」
私はルネの手を取り、甘えるように首をかしげた。
するとルネはなんとも言えない複雑な表情をして、大きく息を吐いた。
「……わかったわよ。ほんと、仕方がないなぁ」
「えへへ。わかってくれて嬉しいよ、ルネ。大好き。さすが親友」
「はいはい」
口ではそっけなく言いながらも、ルネの指先は微かに震えていた。
きっと私を置いていけない気持ちと、どうしようもない不安が混ざっているのだろう。
「じゃあ、あたしはもう……」
ルネが言いかけたその時、廊下の向こうからかすかに足音が近づいてきた。ルネの肩がびくりと跳ねる。
「……っ、先輩が戻ってきた!」
私が小声でそう言うと、ルネはびくりと身を震わせ、慌ててテラス側へ身を引いた。
死角になる柱の陰へ滑り込むように身を隠す。私は息を呑みながら、ルネの隠れた側のカーテンをそっと閉じた。
ほんのわずかに揺れた布の動きが、やけに大きく感じられる。
「エチカ、何処へ行こうとしているんだ?」」
部屋に入ってきた先輩は、窓辺に立つ私を見て、険しい顔をした。
静かなのに、胸の奥を掴まれるような圧のある声色に、私は慌てて首を振る。
「空気の入れ換えをしたかっただけですよ」
できるだけ自然に微笑みながら、ゆっくりと先輩へ歩み寄る。
しゃらりと鳴る足枷の鎖が、部屋の空気をさらに重くした。
「朝食、ありがとうございます。私が運びますね」
私は先輩の手からトレイを受け取ると、そのままテーブルへ運んだ。
そして、窓が見える位置の椅子に自分が座り、先輩が窓に背を向ける位置に座るよう、自然な動作で誘導した。
カーテンの向こうで息を殺すルネがなんとか隙をついて去っていってくれることを祈りながら。
「先輩、今日の朝食は豪華ですね。私、このオムレツ好きなんです。野菜たっぷりで」
「……」
「あ、でもトマトは苦手なんですよね。そういえば先輩って苦手な食べ物ありますか?」
「エチカ」
「はい、何ですか?」
「何を企んでいる?」
「……え?」
「そんなに不自然に明るく振る舞って、一体何を企んでいる?」
先輩の声は低く、静かで、けれどどこか怯えたようでもあった。
私は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに微笑んだ。
「……何も考えてませんよ。強いて言うのなら、先輩のことを考えています」
「……俺の事?」
「ええ。私、先輩のことが大好きなので。だから、先輩が一体何におびえているのかとか、今、何を考えているのかとか、これからどうしたいのか……とか?」
私は先輩を見上げ、真剣に言った。
先輩は複雑そうな顔をして、目を逸らす。
「先輩……。先輩はどうして私とシルヴァン様が浮気していると勘違いしたのですか?」
「は?勘違い?」
先輩が鋭く眉を顰める。だが、私は揺るがない。
「私の日記には、先輩が私の話を信じてくれないと書いていました。シルヴァン様との噂は事実じゃない。浮気なんてしていないのに、と。でも先輩はそう言う私を鼻で笑って、『嘘つきの言うことは信用できない』と言ったそうです。私はその言葉にとてもショックを受けていたようでした」
「そんなこと、言った覚えは……!」
──ない、とも言い切れない。
先輩は言葉を詰まらせた。そして困惑した表情を浮かべる。
「……エチカに責められた場面は覚えている。だけど、エチカを責めた時の記憶は……曖昧かもしれない」
先輩は自信がなさそうに言った。
私は先輩の手をそっと掬い上げるように取り、指を絡めるでもなく、ただ重ねた。
「……先輩、私のこと好きですか?」
「好きだよ。世界で一番、愛している」
「私もです。私も世界で一番、先輩が好きです。大好きです。それなのに、私が先輩以外を好きになると、本気で思っているんですか?私は一目惚れしてからずっと、毎月のように告白し続けたのに、もしかして何も伝わっていなかったのですか?」
「それは……」
「では、もう一度聞きます。先輩はどうして、私が心変わりしたと思ったのですか?」
そう尋ねた瞬間、先輩の表情が固まった。
反論しようと口が動くのに、言葉が出てこないみたいな、そんな感じ。
先輩の視線が揺れる。テーブルの縁、床の模様、私の手元――どこにも焦点が合わない。
私は静かに息を吸い、動揺する先輩の手にそっと触れた。
「先輩」
呼びかけると、先輩の肩がわずかに震えた。
先輩はしばらく沈黙したのち、観念したように短く息を吐いた。




