沈黙手当
昼のニュースは、いつもより音が少なかった。
「来月から**沈黙手当(SBA)**を導入します」
司会者は淡々と告げ、唇の前に人差し指を立てた。画面の隅で、アニメのキャラクターが同じ動きをする。テロップが滑るように現れる。
公の場における個人の発話時間を計測し、話さないほど給付増。
対象:屋外・役所・駅・公共施設・“公的範囲”SNS。
例外:医療・災害・保安(申請制)。
同時リリース:沈黙管理アプリしずかPay。
数字が出た瞬間、部屋の静けさが柔らかくなった。
ユイは電卓を弾いた。月末の残額に、画面の「最大三万五千円」を足す。計算は合う。ため息が喉につかえたが、飲み込んだ。ため息は計測されない。
区役所の休憩室はカップと紙の擦れる音だけが目立つ。掲示板にはポスターが増えた。《質問はフォームで》《合意済み字幕》《沈黙割はじめました》——居酒屋のチラシまで静かな顔をしている。
同僚が口を開きかけたが、しずかPayの角が小さく震えた。《そのひと言、必要?》
彼は笑って肩をすくめ、ポケットに端末を戻した。笑いは判定されない。安心の表情には、国章の小さなスタンプが付いた。
帰り道、商店街は合図で満ちていた。店主は値札を指で弾き、胸の静音達成バッジをトントンと叩く。
ユイはスマホを振って、恋人のリョウにスタンプを送る。
《(親指)》《(コイン)》《(口に指)》
少し遅れて、リョウから返る。
《(ゴミ袋)(月)(∞)》
夜勤に変えたのだ。発話ゼロに近い仕事。満額に近づく。
部署会議は三十分で終わった。
「質問、ありますか」
係長の口が形だけ動く。誰も手を挙げない。挙げないのが賢明だからではない。挙げないほうが暮らしが安定するからだ。
会議メモは翌朝、合意済み字幕つきの動画で配信される。字幕には誤字がない。誤字に気づいても、指摘は翌月のフォームだ。
◇
しずかPayの円グラフは、毎日きれいに塗られた。ユイの端末は、朝の満員電車で緑(沈黙)を稼ぎ、昼の窓口で黄(必要発話)を消費する。夕方の商店街で、また緑。
アプリは、薄い声で提案する。
《混雑時の“ありがとう”はジェスチャーで代替できます》
《家族内のおかえりは、スタンプでも満点です》
家に帰ると、玄関の内側に小さな紙が貼られていた。
《おかえり=(目を合わせる)+(手を振る)》
ユイは笑って、紙をそっと撫でた。
キッチンのテーブルには、リョウのメモが置いてある。《深夜、行く。朝方、帰る。》
短い文は、やさしかった。文字に声が乗っていないぶん、読み手の声が混ざる。
土曜日の広場は、妙に静かだ。バンドの代わりに、無音のパフォーマーが増えた。透明な箱を押し広げる仕草。リズムだけが、足の裏に伝わってくる。
リョウはスティックを売り、静音清掃の会社に入った。社名は〈トウモクサービス〉。社のロゴは耳を閉じた木の絵。夜の床はよく光り、彼の歩幅は数値化された。
帰ってきた彼は、手話混じりに近況を伝える。
(親指)——いい
(手のひらを前に)——静か
(人差し指で円を描く)——ずっと
しずかPayがピロンと鳴る。
《世帯沈黙ボーナス+6%》
二人の視線が合い、同時に小さく笑う。笑いは、計測されない。
◇
制度は滑らかに浸透した。
抗議が消えた。
広場の集会は「サイレント集会」と名を変え、手のひらの向きを合わせる儀礼で終わる。
窓口は速くなった。
「お名前をお願いします」が、番号カードの点滅に置き換わる。
議会中継は穏やかになった。
ヤジも拍手もなく、合意済み字幕と要約が先行配信される。再生回数は増えた。音量を上げる必要がないから、赤ちゃんのいる家庭でも見やすい。
ダッシュボードの数字は、毎晩、国旗色のグラデーションで更新される。
《国民平均沈黙時間:10h23m(前月比+52m)》
《SBA総額/GDP比:0.6%(政策効果寄与推定:+0.4pt)》
《政策反対件数:0》
スマホの画面は気持ちよかった。滑らかで、まっすぐで、文句が少ない。
ただ、ユイの部署の隅に、未処理の紙束が残った。
保育枠の算定がおかしい。新設園の予測では足りない。フォームで届いた質問は、翌月集計だ。
ユイは係長にメモを差し出し、目で合図を試みた。係長はうなずく。うなずきは合意を意味する。対応は意味しない。
翌週、待機児童リストに名前が重複した。数が合わない。
ユイは電話をかけようとして、手を止めた。
電話は“公的発話”に含まれる。
彼女はフォームに入力する。《件名:配分ロジック誤差/本文:重複検知>通達希望》
送信ボタンは、午前0時〜4時に押すとポイントがつく。夜は静かだ。ユイは目覚ましをかけた。
翌朝、送信履歴に未送信の赤い丸が灯っていた。《サーバ負荷による順延》
赤い丸は、しばらく点滅を続け、やがて見慣れた。
◇
「サイレント選挙」が始まった。候補者は身振りで公約を示す。合意済み字幕が先に配られ、紙面の余白は少ない。質疑はフォームのみ、投票後に集計される。
駅前に、ボランティアの学生がいた。胸には〈聞こえないからこそ聞く〉の缶バッジ。
学生は、手話と指差しでアンケートを取っていた。
——ぼくたち、ほんとは話したいんですけどね
ユイは笑って、財布から小銭を、ごく小さな音で置いた。
商店街のパン屋に、メニューが一冊の漫画になって並んだ。ジャムパンはジャムの飛沫で描かれている。店主は口を開かない。唇の形が、ありがとう、と言った。
静音割で十パーセント引き。
レジ前の掲示に、消えかけのチラシが挟まっていた。《保育園の件、だれか知ってますか》
ユイは視線を走らせ、すぐに逸らした。だれかは、たいてい誰でもない。
夜、リョウが帰ってきた。
彼は汗を拭き、手の甲に指で円を描いた。
(円)——ずっと/(人差し指で×)——中止
(肩をすくめる)
どうしたの、とユイは口を開きかけ、しずかPayが震えた。《そのひと言、必要?》
ユイは、アプリの光を手で覆い、小さな声で訊いた。
「何が、中止?」
リョウは少し驚いた顔をしたが、声で答えた。
「バンド仲間、広場でサイレント抗議やるはずだった。でも、沈黙手当、満額切れるって。やめた」
ユイはうなずくしかなかった。うなずきには、給付の減点がない。
◇
ある朝、商店街の端で小さな事故が起きた。合図ミスだ。青いアイコンを指したつもりが、赤い点滅に変わる。自転車は止まり、歩行者は進み、ベビーカーがよろける。
誰も叫ばなかった。叫ぶと、近くの人の月のグラフが崩れる。
ユイは走り寄り、手を差し出してベビーカーをまっすぐにした。
母親は、両手でユイの手を包むように握り、深く礼をした。
声は出ない。
ただ、目の表面に光が乗っていた。
ユイは、その光だけで胸がいっぱいになる。
事故の報告はヒヤリフォームに入力され、集計予定になった。予定は多く、現実より正確だ。
夜、広報官AI〈トウモク〉の配信が流れた。木目の背景に、穏やかな目の絵。
「沈黙文化は、市民の成熟の証です。議論は減り、生産性は上がり、心の平穏が広がっています」
画面の下でグラフが伸びる。ユイは、保育枠の紙束を思い出した。
目の端に、赤い丸が点った気がした。未送信は、点滅をやめることもある。
◇
年次報告の日、区役所のモニターに国のダッシュボードが映し出された。
《実質GDP:+2.4%(要因の一つにSBA安定)》
《SBA総額/GDP比:0.9%(給付は適正、雇用に正の効果)》
《政策反対件数:0》
係長が小さく拍手した。拍手は最大2回までポイント対象外。
ユイは画面の隅を見た。細い文字が寄り添うように表示されている。
《※フォーム未送信:92,104件(システム負荷・夜間繰延)》
文字は、スクロールとともに、ゆっくり下に消えた。
上のテロップが重なる。
《政策は概ね順調》
窓口に来た老婦人が、書類の端を震える指で押さえていた。
ユイは、しずかPayの角を押さえ、口を近づける。
「ここは、声で説明していいです」
老婦人は目を丸くし、うなずいた。
「ありがとう」
その二文字が、ユイの胸で長く鳴った。
アプリは、そっと震えた。《そのひと言、必要?》
ユイは通知をスワイプで消す。
必要なときには必要だ。採点外であるべき言葉が、世の中にはいくつかある。
◇
夜、リョウが手提げ袋を持って帰ってきた。中にはスティックが一本だけ、古いテープで巻き直されていた。
彼は、いつもよりはっきりした声で言った。
「練習場、借りた。二時間だけ。うるさくしない。叩く前に叩かない」
ユイは笑って頷いた。
「叩く前に叩かないって、難しいね」
「でも、やってみる」
彼は空気を叩く仕草をした。音が出ない。
出ない音は、二人の間に形を残した。
帰り道、区役所の掲示板の端に、手書きの紙が張られていた。
《ここは、声にしていい場所》
紙の幅は狭く、画鋲は小さい。
誰が貼ったのか、名前はない。
次の日、その紙の隣にもう一枚、違う字で紙が増えた。
《ここでは、黙っていてもいい》
どちらの紙にも、政策番号も、承認印もなかった。
紙は夜風で少しめくれ、そのたびに、誰かの目に入った。
◇
数日後、ユイは保育枠の紙束を抱え、係長の机の前に立った。
彼は目で合図をした。「後でフォームに」
ユイは頭を下げ、机に紙束を置く。
そして、小さな声で言った。
「係長、今です」
係長は驚いた顔をし、ユイのしずかPayを見た。角は静かだ。
しばらくして、彼は頷いた。
「……今」
二人は、紙束を開いた。音がした。
紙が擦れる、ごく普通の音。
ユイは、その音が好きだと思った。
ただの仕事に戻っていく音。
ダッシュボードには載らない音。
その日の終わり、区のサイトにお知らせが掲載された。
《保育枠配分のロジックを修正しました。該当者へは個別に通知します》
テキストは短く、端正だった。
コメント欄は閉鎖されている。
それでも、ユイは少し、胸が軽かった。
◇
年末、街の大型ビジョンに恒例の総括が映った。
《抗議は消え、GDPは上がり、心は静まりました》
最後に、小さな文字が一瞬だけ現れた。
《政策ミスは、該当者内で調整済み》
該当者内——世界の外のような言い方だ。
ビジョンのふもとで、子どもが母親の袖を引いた。
「どうして、だれも叫ばないの?」
母親は考え、指で子の額にしーの合図を描いた。
「叫ぶのは、高いの」
子どもはうなずき、それから小さな声で言った。
「ぼく、たまに叫びたい」
母親は、声にせず、抱きしめた。抱きしめるのは安い。そして、よく効く。
◇
年が明け、ユイは窓口に小さな紙をもう一枚貼った。
《ここは、やり直せる場所です》
声でも、合図でも、フォームでも。
紙は、しばらくの間、誰にも剥がされなかった。
誰かが、薄い鉛筆で小さな丸を描き足した。未送信の赤ではない。
ただの、丸。
丸はやがて増え、壁に静かな星座ができた。
星座は音を立てない。
それでも、そこを見る人の目の中には、音が出た。
ユイは、ダッシュボードを閉じ、窓を開けた。
遠くで、叩く前に叩かれない音が、かすかに響いた気がした。
それが何であれ、誰かの暮らしのやり直しであることを願った。
しずかPayは胸ポケットの中で、静かだった。
年次報告は静かに締めくくられた。
抗議は消え、GDPは上がり、政策ミスは誰にも知られない。
画面の隅で、未送信フォームの赤い数字だけが、点滅していた。
— 完 —




