第94話 聞いているよ
翌朝、明るい陽光が宿屋の部屋に差し込み、湯上がりの石鹸と木の香りが微かに残る空間を満たしていた。
アリシアは、一番に目を覚ました。全身に纏わりついていた疲労感は嘘のようになく、むしろ体が芯からリフレッシュされているのを感じた。
「んー!よく寝たわ…」
彼女はベッドの上で大きく背伸びをした。その瞬間、背筋にゾクッと冷たいものが走った。昨夜、眠りに落ちる直前の強烈な絶望感と、手に触れたおぞましい感触の記憶が、無意識下で微かに刺激されたのだ。しかし、彼女の覚醒した意識はその原因を思い出せず。
「なぜかしら…すごく深い眠りについた気がするわ…」
ただそう感じた。
もう一度、太陽に向かって伸びをすると、その感覚は消え失せた。彼女は窓を開け、爽やかな朝の空気を目一杯吸い込んだ。
「気持ちのいい朝ね!」
窓の外には、王都の整然とした街並みが広がっていた。早朝の清々しい光に照らされた石畳の道は、まるで洗われたように輝き、遠くの市場からは活気の予兆のような喧騒が微かに聞こえてくる。空は雲一つない青で、一見して、昨日までこの街で家屋が一つ消滅したなどとは想像もつかない平和な光景だった。アリシアは、太陽に微笑みかけ、身支度に取り掛かった。
着替えを済ませ、軽く銀髪を整えたアリシアは、まだ熟睡しているキスティーの傍へ寄った。
「キスティー!朝よ!起きて!」
キスティーは、アリシアの声にわずかに身じろぎするが、深い眠りから抜け出せないようだ。疲労困憊で眠りについた彼女は、寝返りを打つだけで、起きる気配を見せない。
「キスティー!起きないとお菓子食べるわよ?」
アリシアは、切り札として「お菓子」というワードを口にした。その言葉に、キスティーの体は一瞬ピクッと反応したが、それ以上は動かない。よほど昨日一日で心身ともに歩き回り、そしてパニックになった疲労が溜まっていたらしい。
アリシアは、そんなキスティーを見て優しく微笑んだ。言葉で起こすのを諦め、彼女は身をかがめ、キスティーに向かってダイブするように抱きついた。
温かいアリシアの重みと、彼女が纏う清潔な香りに包まれ、キスティーはゆっくりと目を開けた。顔の前には、至近距離にアリシアの顔があり、キスティーはすぐさま満面の笑顔になった。
「アリシア、おはよう。」
キスティーは、アリシアを抱き寄せ、もう一度ベッドの中に引きずり込もうとした。
「もうキスティーったら!私着替えて支度してるのよ。お洋服しわくちゃになっちゃうわ。もう…キスティー!」
アリシアは笑いながら抵抗するが、その表情は嬉しそうで、二人はしばらくベッドの中でじゃれ合っていた。
しばらく戯れた後、アリシアはキスティーを半ば引きずり出すようにベッドから起こした。
「さあ!支度しましょう。今日はコレットの町に帰るわよ。」
キスティーはそれを聞いて、ぱっと顔を輝かせた。
「うん!早くみんなに会いたいね!」
笑って急いで支度を始めた。アリシアに手伝ってもらいながら、身なりを整える。
最後に荷物をまとめる段になり、アリシアはキスティーのバッグを見て苦笑いした。
「キスティー…お菓子多すぎ…。昨日買った分だけじゃないわよね?」
昨日購入した大量のお菓子の袋に加え、バッグの中には以前からの備蓄も山盛りに詰め込まれていた。
キスティーは、そんなアリシアの指摘を全く気にしない。
「みんなにあげるし、お腹に入る分だから少ないくらいだよ!」
彼女の頭の中では、このお菓子がみんなへの愛情と感謝を伝える重要なアイテムなのだ。
アリシアは微笑んで、優しく促した。
「さあ下に行きましょう。今日はお弁当作ってくれるって言ってたわよ。馬車で食べましょう。」
「わーい!お弁当何かな?楽しみ!」
キスティーは、ぴょんぴょん飛びはねてはしゃいだ。
二人は大きな荷物を抱えてロビーへと向かった。
ロビーでは、すでにギルが待ちくたびれた様子で彼は顔をしかめた。
「おせーよ!何してんだよ?腹減って死ぬかと思ったぞ!」
アリシアは、すかさず反論する。
「ギル、前も言ったよね?女の子は支度に時間がかかるって!」
アリシアはキスティーと顔を見合わせ、「ねー!」と二人で笑って言った。ギルは、その笑顔に気圧され、気まずそうに顔をそらした。
「あ、ああ、そんなこと言ってたな…」
その時、宿の給仕がお弁当を持ってきて、三人に手渡した。人数に対して少し多すぎる量のお弁当に、三人は大喜びし、ロビーの隅で、はしゃいで騒いでいた。
その賑やかな雰囲気を切り裂くように、重厚な扉が開き、レイエス殿下と騎士団長が入ってきた。
騎士団長は、昨日からほとんど眠れていないことが一目でわかるほど、顔色が悪く、目の下には濃い隈ができていた。全身の鎧は磨かれているものの、その動きには重く、どこか不安定な疲労感が漂っている。彼は、力ない咳払いをして、子供たちに注意を促した。
「おほんっ!」
その音に、三人は雷に打たれたように固まり、反射的にピシッと気をつけの姿勢になった。
レイエス殿下は、彼らの緊張とは裏腹に、にこやかに微笑んだ。
「おはよう、よく寝られたかい?昨日は色々あったんだってね。聞いているよ。」
その言葉を聞いた瞬間、三人の顔色が一斉に変わった。
(え…?聞いてるって…やっぱり私のことよね…)
(私が悪い人について行っちゃって騒ぎになったことかな…)
(ヤベー…俺がドア壊したことだ…)
三人の頭の中で、それぞれの「罪状」と、その先に待つ「最悪の事態」が鮮明に浮かび上がった。そして、三人は同じ光景を共有した。
(((捕まる…牢屋……)))
一瞬の沈黙の後、三人は一斉に、必死の弁解を始めた。
キスティーは、最も素直な恐怖で涙ぐむ。
「王子様!私みんなに心配かけて、大ごとになっちゃって…ごめんなさい!悪い人と思わなくてついて行って…牢屋は嫌なの…ごめんなさい…」
ギルは、しどろもどろで、もはや何が重要か分からなくなっている。
「あ、あの…王子様…俺…わ、わたくしは…扉を壊して…その…でも、直そうとしたら…えー…と、家なくなって…でごめんです!牢屋は…ごめんです…」
そしてアリシアは、潤んだ瞳でレイエスに詰め寄った。その距離はあまりにも近く、レイエスがドキッとするほどだった。
「レイエス殿下…申し訳ありません…。私…王様の…作ったお家…なんか…その…壊し…消しちゃった…みたいな?わざとじゃない…と言うか…覚えてなくて…その…ごめんなさい!!牢屋だけは…」
彼女は深々と頭を下げた。その姿は、国をも滅ぼしかねない力を持つ者が、ただ「怒られること」に怯える、滑稽でいて痛ましい姿だった。
レイエス殿下は、三人の必死すぎる反応に、思わず後ずさりした。
「あ…ああ…それぞれ騎士団長から報告は受けたよ。まあ、でも極悪非道のコックローチ団の逮捕に繋がったんだ。お手柄だよ。」
レイエスは、最も恐れているであろう言葉を、優しく否定した。
「牢屋は彼らに入ってもらうから、空いてないから、入らなくていいよ。」
その言葉に、三人はパッと顔を上げ、驚きと安堵で満面の笑みになった。
「じゃあコレットへ帰る時間だ。馬車に乗ってくれたまえ。」
レイエス殿下は、子供たちの騒動の後始末と、彼らの極端な反応に慣れたかのように、優雅に馬車へと向かった。
その背後で、騎士団長は深く、重く、諦めに満ちたため息をついた。彼の頭は、昨日の家屋消滅という超常現象、そして今日の子供たちの「牢屋への恐怖」という普通の反応によって、限界を超えていた。
(一体、何が正しいのだ…この子たちに…怒るべきなのか、褒めるべきなのか…。もう、考えるのはやめよう。私はただ、職務を全うするのみだ…)
騎士団長は、全身の骨が軋むかのように重い足取りで、子供たちに背を向けていたレイエス殿下を追って、馬車へと向かうのだった。




