第92話 おーい…
夕暮れが夜へと移り変わる頃、アリシア、ギル、キスティーの三人は、ようやく宿の門をくぐった。一日の疲労、恐怖、そして破壊の記憶は、この門をくぐることで、まるで魔法のように遠ざかった。
「はぁ…疲れたぁ。」
アリシアは、持っていたアクセサリーの包みを抱えたまま、銀色の長い髪を揺らしながら、一歩一歩、部屋へと向かった。ギルは、串焼き肉で少し落ち着きを取り戻しつつも、鉄鉱石の重みと今日の出来事の重みに、心底ぐったりとした表情を浮かべていた。
アリシアとキスティーが部屋に入ると、二人の大きなベッドが目に飛び込んできた。その瞬間、二人は吸い寄せられるようにその柔らかなベッドに倒れ込んだ。
「なんか色々あったわね。疲れちゃった。」
アリシアは、枕に顔を埋めながら、今日の騒動を反芻するように言った。すぐに彼女は起き上がり、キスティーの顔を覗き込む。
「キスティー、もう知らない人について行ったらダメよ!心配したんだから!」
アリシアは、優しくも強い口調でキスティーを抱きしめた。その抱擁には、キスティーが誘拐されかけたことへの恐怖と、ようやく安全な場所に戻れた安堵が強く滲んでいた。
キスティーは、アリシアの温かい胸の中で、深く抱きしめられながら、小さな声で答えた。
「…うん、ごめんなさい。こんなことになるなんてね…」
彼女もまた、親切な人に裏切られたショックと、アリシアとギルに迷惑をかけた罪悪感で、心が疲弊していた。キスティーはアリシアの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。
アリシアは優しく微笑み、キスティーの柔らかな髪を撫でた。
「大好きよ、キスティー。」
キスティーも満面の笑みで応える。
「うん!大好きだよ!アリシア!」
二人は笑い合い、心から安堵した瞬間を分かち合った。この親愛の抱擁が、お互いの心にこびりついた恐怖や疲労を溶かしていくかのようだった。
「さ、汗を流しましょうか。今日は色々ありすぎたから、ゆっくり浸かりたいわ。」
アリシアが立ち上がり、優雅な仕草でバスルームへと向かった。キスティーも追うように、二人でお風呂場へと向かう。
豪華な宿屋の大きな湯船には、すでに湯気が立ち込めていた。服を脱ぎ、湯船に足を踏み入れると、温かい湯が肌の表面にこびりついた疲労をゆっくりと洗い流していく。
「あー、気持ちいいー…」
アリシアは深い息を吐き出し、目を閉じた。湯気の中のアリシアの銀髪は、湯の湿気を帯びて、さらに艶やかに見えた。
キスティーは、湯船の縁に頭を乗せながら、尋ねた。
「アリシア、さっき言ってた、黒の本隊って何のこと?私、全然わかんなくて。」
その言葉に、アリシアの表情が一瞬硬直したが、すぐに柔らかく微笑んだ。彼女の脳内は、都合よく「戦闘の記憶」を封印しているため、彼女にとって「黒の本隊」とは、もはや過去の、あるいは来るべき未来の「敵」という抽象的な概念に過ぎなかった。
「ふふ、何のことかしらね?気のせいよ。でも、私はこの街にいる限り、守るべきものがあるからね。それが誰かには分からない敵でも、私は油断しないわ。」
その言葉は、どこか遠い目をしており、彼女の内に秘めた使命感だけが、湯気の中に漂っていた。
「そっか。アリシア、すごいね!」
キスティーは、深く考えず素直に感心した。
二人は、湯船の中でじゃれ合い始めた。キスティーがアリシアの髪に泡をつけ、アリシアがキスティーの背中を優しく洗ってあげる。
「キスティー、背中綺麗ね。スベスベしてる。」
「うん!アリシアも髪がキラキラしてて綺麗だよ!長いから大変そうだね。」
「そうね、でも、この髪は私の誇りだから。キスティーも、これからもっともっと綺麗になるわよ。」
湯船に響く二人の会話は、ただの子供たちの他愛ないやり取りであり、少し前までの街を壊滅させるような力を持つ者たちとは思えない、穏やかで平和な時間だった。
湯から上がり、アリシアは先に自分の体を拭き、着替えを済ませた。バスルームのドアの隙間から、まだ湯船に浸かっているキスティーに声をかける。
「キスティー!もう上がって、拭いてあげるから!」
キスティーは、まだ湯に浸っていたかったようだが、アリシアに拭いてもらえるのが嬉しくて、湯船から上がった。アリシアは、大きなタオルでキスティーの全身を丁寧に包み込み、優しく拭いていく。その後、髪も丁寧に乾かし、ブラシでサラサラに整えてあげた。
「ありがと、アリシア!」
キスティーは、満面の笑みで感謝を伝えた。
アリシアも微笑んで、ベッドへと促す。
「さあ、今日は疲れたわ。寝ましょう。」
「うん!」
元気よく返事をしたキスティーだったが、その時、何かを思い出したかのようにハッとした表情になった。彼女は、目を大きく見開き、急いで自分のバッグの中を探し始めた。
アリシアは、そんなキスティーの様子を微笑みながら見守った。
「どうしたの?キスティー?」
やがてキスティーは、バッグから何かを手に取り出すと、それをそっと背中に隠し、アリシアの前にやってきた。
「あった!」
キスティーは、屈託のない、いたずらっ子のような笑顔で言った。
「あのね、あげたいものがあって…目つぶって、手出して!」
アリシアは、その可愛らしいお願いに、自然と顔が緩む。
「あら?何かしら?」
彼女は言われた通りに目を閉じ、左手を前に出した。内心、旅の思い出の小さなプレゼントか何かかと、期待に胸を膨らませていた。
そして、キスティーがアリシアの手のひらに、隠していた何かをそっと置いた。
「もういいよ!」
キスティーの声と同時に、アリシアは期待に満ちた表情で目を開ける。手のひらに置かれた感触は、微かに硬く、そして生々しい形をしていた。
アリシアの瞳が、手のひらの上のそれを捉えた瞬間、その美しい顔は硬い彫像のように固まった。
その手のひらにあったのは、キスティーが人さらいのアジトで開けたおまけ付きお菓子、そのびっくりシリーズのおまけだった。しかしそれは、あろうことか、今日一日、彼女が街を守るために命懸けで戦い、全身の魔力を使い果たした「黒の奴ら」に酷似した、精巧に作られた黒いおもちゃだった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
王都の静かな夜に響き渡るほどの、極限の恐怖と絶望が混ざり合った、甲高い絶叫が轟いた。その声は、恐怖の魔力が込められているかのように、空気そのものを震わせた。
次の瞬間、アリシアは糸が切れたように、その場で後ろへと倒れた。意識が途切れ、彼女の意識は深い闇の中へと沈んでいった。
彼女の手の中に、今、「黒の奴ら」が触れた。それは、アリシアの脳内における、「敗北」を意味した。
(うそ…私負けた…?…最後の最後で油断したわ…。ここまで残存兵が追っていたなんて…。油断大敵ね…今思っても後の祭り…。さすがよ、我が永遠の好敵手…。認めるわ…あなた達は強い…。お母様…志半ばで力尽きることをお許しください…)
アリシアの心の声が、深き眠りへと落ちていく。その時、彼女の頬を、一筋の煌めく涙が伝った。それは、偽物だが「黒の奴ら」に敗北した戦士の、悲壮な一滴だった。
キスティーは、目の前の突然の展開に、完全に唖然として立ち尽くした。
「あ…アリシア?おーい…アリシア?起きてー!ごめんなさい!こんなになるなんて思わなかった!」
彼女は、アリシアにすがりつき、必死に謝罪した。軽くびっくりさせるつもりが、おまけ付きお菓子の「びっくりシリーズ」の景品が、アリシアをここまで追い詰めることになるとは、夢にも思っていなかったのだ。彼女は、アリシアの戦いの記憶を全く共有していないため、事の深刻さを理解できていない。
「もう…アリシア起きてよ…」
途方に暮れたキスティーは、倒れたアリシアの隣に座り込み、疲れからそのままアリシアに抱きついて寝てしまった。
静寂を取り戻した部屋には、勝利を確信した「黒のアイツ」のおまけが、アリシアの無力な手のひらに、静かに置かれたまま、朝を待っていた。




