第88話 神…いや…悪魔か?
裏の部屋、腐敗した生ゴミと悪臭の山の中を裏口目指して這いずり回っていた人さらいの男は、背後に迫るこの世のものとは思えない禍々しいエネルギーの波動を感じ、全身の毛穴が開いた。
(え…俺、死ぬのか…)
改心したばかりの彼の心から、恐怖も焦燥も消え失せ、ただ諦めだけが残った。迫りくる赤黒い魔力の塊は、まさに終焉の光景だった。一切の思考が停止し、彼は走馬灯のように短い人生を振り返った。
(長いようで短い人生だったな…お嬢さんに会えて、最後に改心する事が出来た…もっと早くお嬢さんには会えていたらな…ありがとよ…お嬢さん…)
彼は、心の底からキスティーの純粋な優しさに感謝を捧げ、目を閉じ、死を待った。
その刹那、人さらいの男の運命を再び変える、無邪気で奇妙な「奇跡」が起こった。
「おじさん危ない!」
キスティーは、男の顔が死の恐怖に歪んでいるのを見て、咄嗟に行動を起こした。彼女は、まだ口の中で噛み続けていた風船ガムを、ありったけの強化魔法を込めて思いっきり膨らませた。さらにその中に、大量の風の魔法を詰め込み、ガム風船は見る見るうちに巨大な球体へと膨れ上がった。
キスティーは、膨れ上がったガム風船を両手で持って、呆然としているギルに叫んだ。
「ギル、おじさんのところまで投げて!急いで!」
「な、なんだ?ガムかよ?これ投げるのか?でけーな…そりゃ!」
ギルは、状況が全く理解できなかったが、キスティーの必死な表情に突き動かされ、彼女から受け取った巨大なガム風船を、抱えていた鉄鉱石を地面に置く暇もなく、思いっきり叩いて男へと向かって飛ばした。
アリシアの赤くどす黒い魔力は、禍々しく、ゆったりとした速度で裏の部屋の「黒の本隊」へと向かっていた。それを、キスティーの風魔法入り強化ガム風船が、タッチの差で追い抜き、死を覚悟した人さらいの男を完全に包み込んだ。
その刹那、アリシアの魔力が黒の本隊に着弾し、全て吹き飛んだあと、ブラックホールのようなものに飲み込まれ、その場にあった建物の存在は完全に消滅した。
その時のキスティーたちはと言うと、その極大魔法のエネルギーの収束の直前、アリシアの魔法は、無意識でも、キスティー絶対第一主義は変わらず発動し、キスティーとギルに対して、無意識のうちに絶対的な結界を張り巡らせていた。彼女はキスティーとギルは、結界により外界とは隔離された空間の中に存在させ、彼らはこの世の終わりとも言えるほどの衝撃を微塵も感じなかった。
人さらいの男は、キスティーが作り出した、衝撃吸収安全性能五つ星レベルの巨大なエアバッグに完全に包まれ、本来ならば跡形もなく消えていたはずの魔力の奔流の衝撃から守られ、奇跡的に無傷で立ち尽くしていた。
一方、子供たちの騒ぎに巻き込まれ、道路まで吹き飛ばされていた騎士団長は、この極限的な事態において、ある意味一番の被害者となっていた。
彼は、遠くに吹き飛ばされたこともあり、「消滅」は免れたが、土埃と木片の雨の中を道路まで派手に転倒し、一瞬意識を失いかけたが、命懸けの職務への義務感が彼を繋ぎ止めていた。
(ぐっ…何が…)
彼は必死に顔を上げ、道路に叩きつけられた体を震わせた。目の前で起こったのは、建物が人を残して跡形もなく消滅するという、この世の理を完全に超越した光景だった。
「な、何が起きた?どす黒い禍々しいエネルギーが放たれたと思ったら、すべてが消えた…何が…」
彼の視界の先に、黒い渦が収束していく光景が見えた。それは、まるでブラックホールの開閉を思わせる、人類の知識では到底理解できない現象だった。彼は、道路に這いつくばったまま、全身を埃まみれにしながら、震える手で頭を抱えた。
(神…いや…悪魔か?…わからん…。人の所業ではない…)
騎士団長は、心の底から絶望した。昨日からのゴーレム生成、炎、氷、そして今回の家屋消滅。子供たちが引き起こす現象は、彼の人生観、騎士としての誇り、そして何より精神の安定を根底から打ち砕いていた。
彼は、この国を守る騎士団長という重責と、目の前の理解不能な現実との間で、精神的な限界を迎えていた。彼の脳裏には、「平和な日常」という概念は、もはや遠い過去の幻想としてしか存在していなかった。
(私は…私は…何をすればいいんだ…。敵は誰だ?あの子供たちか?いや、そんなことはない。あの神とも悪魔とも言えぬ力を持つ子どもたちが、この街から消してしまったのは、指名手配犯のアジトではなかったのか?害虫と悪党を一掃した?正義の行いではないのか?…では、私は…私は一体何と戦い、何を守っているのだ?王国の敵か?それとも…私の精神か?)
彼は、地面に額を押し付け、涙と泥にまみれた。心労は、肉体の疲労を遥かに凌駕し、彼の魂を削り取っていた。彼にとって、この戦場は死地ではなく、あの世のように思えていた。
「もう…もう嫌だ…」
かすれた声が、土煙の舞い上がる空間に消えていった。彼の心は、現実逃避を求める極限の悲鳴を上げていた。




