第87話 全力ってなんだよ!?
男は、騎士団長に正体を見破られた瞬間、改心の念も罪悪感も全て吹き飛び、逮捕への恐怖という剥き出しの本能に従った。彼は、座っていた椅子を蹴り倒し、一目散に後ろの部屋へと向かい、古い木製のドアに手をかけた。
「捕まってたまるか!」
男はそう叫び、力を込めてドアを押し開けた。そのドアの先は、裏口へと続く細い通路に面した部屋だ。
「待て!逃がすか!」
騎士団長は、職務への意識を再燃させ、怒鳴りながら男の後を追った。しかし、彼が一歩踏み出したその瞬間、ギルが破壊した扉の木片と土埃が散乱した床に足を取られた。騎士団長の体はバランスを失い、派手な音を立てて前方に転倒した。
「ぐあっ!」
騎士団長は、埃を吸い込みむせ返り、立ち上がることができない。その背後では、ギルが顔面蒼白で呟いた。
「あ…ヤベッ…俺のせいだ…」
ギルは、自分の起こした破壊が、今や指名手配犯の逃走を助けるという最悪の結果を招いたことを悟り、絶望的な気分になった。
男は、転倒した騎士団長を見て、「よし!」と心の中で歓喜し、躊躇なく次の部屋の裏口へと続く扉を開けた。その部屋は、みんながいる部屋以上に汚れており、床から天井まで、長年の埃、カビ、そして生ごみのような得体の知れないゴミが堆積していた。湿気でどろどろに腐敗した生ゴミと、ネズミの糞らしきものが混ざり合い、強烈な悪臭が漂っていた。
男は、そのゴミの山を両手で必死にかき分け、裏口の扉へと必死にあがく。彼の顔は恐怖と焦りで歪み、とにかく裏口へと続く扉へと急いだ。
その腐敗臭とゴミの光景に、部屋に残されたアリシアとキスティーは、思わず顔をしかめた。
「ありえないわ…人が住める場所じゃないわよ…」
アリシアは、その部屋から目を背けようとした。彼女の美意識が、この汚部屋の極地を拒絶する。しかし、彼女が視線を逸らそうとした、まさにその時だった。
ゴミの山の至る所から、黒く、おぞましい数の「奴ら」が、蠢きながらこちらへ向かって這い寄ってくるのを、彼女は視界に捉えたのだ。それは、先ほどのアリシアの魔法を生き延びた仲間たち、そして、その場に潜んでいた「黒の本隊」に間違いなかった。
アリシアの全身の毛が逆立つ。彼女の瞳孔は極限まで開き、心臓は痙攣する。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
その絶叫は、先ほどまでの激昂の怒声とは質が違う、純粋な恐怖とパニックに満ちたものだった。そのおぞましい数に、彼女は意識が飛びそうになるが、この街を守るという責任感、母譲りの使命感が、寸でのところで彼女の意識を繋ぎ止めた。
アリシアは、震える声で、しかし強い覚悟を込めて絞り出した。
「こんなところにいたのね…分からないはずよ…。こそこそこそこそと…卑劣な奴らね!ここが正真正銘、黒の本隊に間違いないわ!いえ、まって、…もしかして待ち伏せされてたの?さっき逃した偵察部隊の奴の仕業ね。だとしたら、もう囲まれてるかも!?私のミスよ…言い訳はしないわ。お母様のように、見つけたと同時にそばにあるもので瞬殺なんて神業、私にはまだできないもん…。今できる全力で私が責任を取る…いくわよ!」
彼女の目に、強い決意の光が宿る。彼女の頭の中には、黒の本隊へ一人で立に向かう恐怖と、街の平和を守るという使命感のみだった。彼女にとって、この戦いは街の命運を賭けた、避けられない最終決戦なのだ。
アリシアは、鉄鉱石を抱えたギルに手を差し出した。
「ギル、ごめん、全力で行くから、持ってて。」
ギルは、目の前の汚部屋にも、アリシアの言葉にも、同時にパニックになった。
「お、おい!やめろって!黒の本隊ってなんだよ!?全力ってなんだよ!?何にだよ!?炎も氷もヤバいって!騎士団長さんもいるんだぞ!捕まるぞ!」
ギルが叫んだが、アリシアはもう自分の世界に入り込んでいた。彼女は目を閉じ、深く集中する。その体は、一瞬、蒼白く全身を魔力で包まれた後、その力が前に伸ばした両手に集約され、どす黒い赤色に変わっていく。その光景は、先ほどの炎の魔法とは比べ物にならないほど不吉で、強大な力を秘めていることを示唆していた。
「ヤバいって、死ぬって!街消し飛ぶって!!やめろって!!!」
ギルの悲鳴が響き渡る。キスティーもまた、この異常な状況に涙目になっていた。
「アリシア?な、何してんの!?え?ギル?ここに来るまでに何があったの!?」
キスティーは、混乱と恐怖でギルを叩く。
「俺も分かんねーよ!アリシア、何も覚えてないんだって!ヤベーって!」
そんな言葉の応酬の中、アリシアの準備は完了した。彼女は目を見開き、その赤くどす黒い魔力を放つ両手で、裏の部屋を睨みつけた。
「…終わらせるわ…さっきのようなミスはしない!塵すら残さないわ!すべて消えて無くなりなさい!!!!」
その声と同時に、裏の部屋の男、ではなく、黒の本隊に向けて、アリシアの両手から赤くどす黒い魔力の奔流が放たれた。それは、業火とも爆発とも形容しがたい、純粋な破壊の力だ。
裏の部屋の黒の本隊にその魔力が着弾し、赤く光った刹那、想像を絶する爆音とともに、裏の部屋だけではなく、人を残して、家すべてが粉々に吹き飛んだ!
転倒していた騎士団長は、吹き飛ばされそうになるのを必死に耐えるが、道路まで吹き飛んだ。土埃と木片の巨大な柱が天を突き、その場にあった家屋の存在は完全に消滅した。
しかし、その爆発のエネルギーは、空間を赤くどす黒く染めた後、急速に時空が歪みながら収束していった。それは、まるで全てを飲み込む黒い巨大な渦のようであり、爆発の跡地には、跡形もない空虚だけが残された。
アリシアは、その場に立っているのがやっとで、意識朦朧としていた。彼女の銀色の髪は乱れ、全身から湯気が出ているかのようだ。彼女の魔力は、この一撃で全てを使い果たしたことを示していた。
「はぁ…はぁ…もう…ダメ…。立ってられないわ…。お母様、全部出し切ったよ…。私、この街守れたよ。でも、やっぱり強過ぎね…これだけの数…あなた達の本気が伝わったわ、敵ながらさすがよ…ほぼ相打ちね…もう…私……」
彼女は、達成感に満たされた笑みを浮かべたまま、その場に力尽きて倒れ込んだ。




