第85話 今回の戦場か…
木片と埃が舞い上がる薄暗い部屋の中で、アリシアの怒りの声が響き渡った。
「ギル!なんでも力任せにしないの! 馬鹿力なの自分でもわかってるでしょ!?もう…壊しすぎよ…」
アリシアの銀色の髪は埃をかぶり、その美しい顔は怒りと、そして疲労でわずかに歪んでいた。彼女の心身の疲弊は、直前の連戦と、この予期せぬ扉の破壊という情けない結末によって、さらに悪化していた。
ギルは、自分の起こした破壊の規模に顔面蒼白になりながらも、必死に自己を正当化しようと努めた。
「いや…力入れてねーし…ホントだって!でもよ…なんかそこまで言われるとな。そんなこと言うけど、アリシア、お前、今日何してきたか分かってんのか?火柱だの、氷の塊だの、町中であんなことしていい訳ないだろ!被害出てないのが奇跡的だぞ!」
ギルは、自分の起こした破壊を棚に上げ、アリシアの行動を責めることで、自分の罪の意識を打ち消そうとした。彼の脳裏には、先ほど見た恐ろしい炎と氷の魔法の光景がまざまざと蘇っていたのだ。
しかし、アリシアの返答は、ギルの予想を遥かに超える、純粋な「無自覚」だった。
「何のこと言ってるの?意味わかんない! ギル、さっきからおかしいわよ?怒鳴ったりして?論点すり替えない!ギルが扉壊した話です!」
アリシアの瞳には、一切の悪意や虚偽はなかった。彼女の認識では、自分はただ街の平和を守るための「正義の行い」をしただけであり、巨大な魔法を連発したという自覚もほぼなかった。
ギルは、その絶対的な無自覚さに、言い返す言葉を失った。
「あのなー…まあ、被害出したのは俺だしな…アリシア被害出てないしな…」
彼は、悔しさと諦めが混ざったような声で、ボヤボヤと呟くしかなかった。論点以前に、話が通じないのだ。
キスティーは、二人の言い争いを楽しげな表情で見つめていた。
「ギル、壊すのは良くないよ。どうする?おじさん困っちゃうよね…ごめんなさい…」
キスティーは、壊れた扉よりも、親切な案内係のおじさんの「困っている」顔を心配し、申し訳なさそうに男を見つめた。
人さらいの男は、この状況で最も理性を保てていない人物の一人だった。自分のアジトの扉が粉砕され、誘拐の計画は瓦解し、そして何より、目の前の子供たちの会話と行動の「異常性」に、彼の心は混乱しきっていた。
「あ、ああ…扉…ど、どうするかなぁ…」
男は、自分の置かれた状況に対する困惑を、そのまま口にした。しかし、その時、彼はキスティーの純粋で、悪意のない、心からの謝罪の眼差しを真正面から受け止めた。その瞳は、まるで曇りのない鏡のように、男の汚れた魂を映し出していた。
(俺はなんて酷い男なんだ…。こんなに真っ直ぐな瞳をした子をさらうなんて。もともと向いてないんだ、人さらいなんて…。他の二人はもともと根っから腐ってる奴だが、俺はそうじゃないだろ?ただ流されただけだ…。この子には敵わないな…ありがとよ、目が覚めたよ…)
男の心に、罪悪感と、そして自らを省みる気持ちが、潮のように満ちてきた。彼は、この歪んだ状況の中で、皮肉にも「人さらい」を辞める決意を固めていた。彼の困惑は、状況への理解不能と、自らの愚行への後悔が入り混じった複雑なものだった。
子供たちの騒ぎが収まらない中、アリシアがようやく本題へと切り込んだ。
「で、キスティー?なんでここにいるの?」
キスティーは、満面の笑顔で、純粋に答えた。
「道に迷って、親切な案内係のおじさんに、お皿あるとこに連れてってもらってたの。」
彼女はそう言って、何の疑いもなく男のほうを見て微笑んだ。その笑顔は、男の罪悪感をさらに深くえぐる。
アリシアは、その言葉を聞いて、男に鋭い視線を向けた。彼女の直感が、この男が「害をなすもの」だと告げていたのだ。
「でも、こっちって、お店ないわよ?なんでここに連れてきてるの?あなたは誰なの?」
アリシアの瞳は、まるでレーザービームのように男を射抜いた。その目は、キスティーに害をなすものを絶対に許さないという、強いメッセージが込められていた。
男は、その鋭い視線に冷や汗が止まらなかった。目が泳ぎ、顔をそらす。彼の動揺は隠しようがなかった。
キスティーは、その緊迫した空気を気にせず、純粋な疑問を投げかけた。
「え?こっちお皿ないの?おじさん?こっちじゃないの?」
キスティーの純粋な眼差しが、男に再び突き刺さる。男は、その瞳に抗うことができなかった。
男は、キスティーの純粋さに触れ、心の底から改心することを決めた。彼は、もはや人さらいとしての職務を全うすることはできなかった。
その頃、騎士団長は、遠くに聞こえる大きな爆発音のような音が聞こえた方向へと歩を進めていた。遠くには、木片と埃が舞い上がる土煙が見える。
「ああ…あそこが今回の戦場か…」
騎士団長の顔は、蒼白になっていた。彼の心は、昨日からの悪夢のような出来事の連続で、完全に疲弊しきっている。
土埃の場所へ近づくにつれ、大きな声での子供たちの言い争いがはっきりと聞こえてくる。
「間違いない…子供たちだ…。殿下はおられない、私一人で抑えられるだろうか…」
不安に駆られるが、彼の脳裏には、国を守る騎士としての職務が刻み込まれていた。彼は、まるで死地へ赴く兵士のような、悲壮な覚悟で、土埃の向こうへと踏み出した。
彼の足取りは重い。一歩踏み出すごとに、昨日のゴーレムたち、今日の炎、氷の記憶が彼の精神を苛む。
(頼むから…もう何も起きないでくれ…私はもう…限界だ…)
騎士団長は、心の底からそう願いながら、子供たちが引き起こした「戦場」へと向かっていった。彼の心労は、もはや職務への忠誠心のみが彼を支えているという、極限の状態だった。彼の頬を冷たい何かが伝うが、それが涙なのか汗なのか、もう分からなかった。




