第84話 壊したよね…
お菓子の足跡は、ついに一つの建物の前で途絶えていた。それは、カビと煤で黒ずんだ、陰鬱な雰囲気を纏った建物だ。壁はひび割れ、窓は煤けて光を通さない。
アリシアは最後のあめ玉を拾い上げ、小さく呟いた。
「あ、ここでお菓子終わってるわ。じゃあ、このお家にお菓子の人いるのかしら?」
ギルはその古びた扉を観察し、腐りかけた木材と茶色の汚れを見て、優しく推測した。
「この家か、なんかだいぶボロボロだな…やっぱり貧しい人にお菓子届けてるんじゃないか?」
アリシアは頷き、その優しい推測に同意した。
「きっとそうよ!優しい方なんだわ。呼び鈴は…」
彼女は扉の脇をまさぐったが、呼び鈴の金具すら見当たらない。
ギルは、アリシアの綺麗な手を汚させまいと、一歩前に出た。
「叩いていいんじゃないか?俺がするよ。なんか扉汚れてるし、アリシア汚れちゃうからな。」
ギルは、自分の並外れた力の強さを自覚しているため、細心の注意を払った。彼は、まるで雛鳥の羽に触れるかのように、ごくわずかな力で扉に拳を当てた。
ドン!ドン!ド…ドォーンッ!
最初の二回のノックは、か細い音だった。しかし、三回目の接触で、長年の湿気と虫食いで内部まで朽ち果てていた扉は、ギルのわずかな衝撃に耐えきれず、木材の悲鳴と共に、蝶番が根元からへし折れた。扉は、砂煙と埃を巻き上げながら、外枠を残して内側へ向かって派手に吹き飛んだ。蝶番の金具が、壁の漆喰を削り取り、コンクリートの粉が舞い上がった。
アリシアは、その光景に呆然とし、目を丸くした。
「ち、ちょっと何してるのよ!!壊してるじゃない!力強すぎるのよ!よごれても私がやるべきだったわ…どうするの…」
ギルは、自分の予期せぬ結果に顔面蒼白になり、全身から冷や汗が噴き出した。
「あ…いや…力入れてねーぞ?ホントだって!この扉、ボロボロで腐ってたんだ!ぜってーそうだ!そうしよう…そうゆうことに…」
ギルは、自己保身のため、必死に自己暗示をかけた。
アリシアは、申し訳なさに顔を伏せた。
「もう壊したものは仕方ないわ…素直に謝りましょう…」
ギルは、子犬のようにうなだれて返事をした。
「…はい…」
家の中では、キスティーが鼻歌を歌いながらガムを噛んでいた。彼女の頰は色とりどりのガムで丸く膨らみ、次に噛むガムを選ぼうと、ポケットに手を入れた、その瞬間。
爆弾が炸裂したかのような轟音が響き、扉が木片と粉塵となって吹き飛んだ。
人さらいの男は、その衝撃で椅子から飛び上がり、真っ先にキスティーの安否を気遣った。
「な、なんだ!なんだ!敵襲か?騎士団か?お嬢さんは大丈夫か?」
彼の頭の中は、もはや身代金よりも、目の前の無邪気な少女の安否でいっぱいだった。
キスティーは、ポカンとした顔で、吹き飛んだ扉よりも、涙ぐむ男を心配した。
「おじさん、大丈夫だよ!おじさんも怪我してない?大丈夫?」
男は、その純粋な気遣いに、堰を切ったように涙を流した。
「ああ、ああ…大丈夫だよ…ぐすん…ありがとう…ありがとう…」
キスティーは壊れた扉の方を見ると、埃が立ち込める光の向こうに、二つの人影が騒いでいるのが見えた。
その瞬間、彼女の顔は一気に晴れやかになり、弾けるような声で叫んだ。
「ギルー!アリシアー!ここだよ!やっぱりギルたちもここに来たんだねー!」
ギル、アリシアは、その声に目を凝らして奥を見た。木片と塵埃が舞う室内、異臭とカビの匂いが漂う薄暗い空間に、満面の笑みを浮かべたキスティーの姿を確認すると、二人は驚愕した。
アリシアは、目を丸くして、激情を込めた大声で叫んだ。
「キスティー!?なんでこんなところにいるのよ?お皿はどうしたの?こんなところにないでしょ?」
ギルも、安堵と疲労と空腹が混ざった怒りを込めて言った。
「おい!何してんだよ!こんなところで!探し回ったんだぞ!腹も減ってきたし!」
男は、目の前の非現実的な状況に、頭の中がはてなマークで埋め尽くされていた。
(な、なんだ?なんで二人がいるんだ?仲間は失敗したのか?じ、じゃあ、なんでこいつらはここに来られたんだ?…それに、あの轟音はなんだ?騎士団の突入かと思ったが、子供?一体何が…)
キスティーは、壊れた扉を指差し、ギルを責めるでもなく、ただ事実を述べた。
「ギル…壊したよね…」
ギルは、弁解の余地がないことに気づき、顔面を青ざめさせたまま、しどろもどろになった。
「いやいや…ボロボロでよ…力入れてないんだぜ?でもよ…こんなになって…」
キスティーは、親切な案内係のおじさんを見て、心底申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい、おじさん…ギルが壊しちゃった…」
ギルは、気まずそうに、アリシアに脇腹を小突かれながら、しおしおと頭を下げた。
「あ…あの、ごめんです…わざとじゃないんです…ごめんです…」
アリシアも、涙を溜めて、淑女の礼儀をもって謝罪した。
「申し訳ありません…少し力が入ってしまい…この様な結果に…誠に申し訳ありません。」
男は、自分のアジトの扉が粉砕され、人さらいである自分が、さらう予定だった子供たちに謝罪されているという、前代未聞の状況に、完全に思考停止した。
「いや…ああ…ああ…ええ…ああ…と…えー…と…」
彼は、言葉を失い、ただ目の前の異常な光景を見つめるしかなかった。
騎士団長は、まだアジトには到着していなかった。
彼は、一歩一歩、その最悪の場所へと向かっていた。彼の心の中は、静かなる地獄だった。
(頼む…何もないでいてくれ。…いや、何も起こっていない。ただの私の勘違いだったのだ。そうに違いない。氷も炎も、全て気のせいだ。幻覚だ。疲労による錯覚だ。頼む…)
彼の歩みは、もはや職務への忠誠からではなく、「何も起きていない」という希望的観測にしがみつくための、現実逃避の手段だった。
路地の静寂が、かえって彼の神経を逆撫でする。少しの物音も、彼の耳には雷鳴のように響き、彼の心臓を痙攣させた。彼は、悪夢のような出来事が、もうこれ以上増えないようにと、天に祈りながら、極度の心労に耐え、ただひたすらに進むしかなかった。




