第83話 職務遂行あるのみ
物語は、三つの異なる場所で、それぞれの感情の極限へと向かっていた。
人さらいのアジトである薄暗い部屋で、キスティーは椅子に座り、大人しく待っていた。
彼女は口の中で、ガムを一つ、また一つと増やし、ポケットから二個、三個と異なる種類のお菓子まで取り出して一緒に噛み始めた。頰は大きく膨らみ、甘いフルーツやミントの香りが、カビと埃のこもった重苦しい部屋の空気をわずかに和らげた。集中力を増したキスティーは、ぷうーっと大きな風船ガムを膨らませ、その破裂音に一人で楽しそうに笑っていた。
親切な案内係を装う男は、そんな無邪気な獲物から決定的な情報を引き出そうと、穏やかな声で尋ねた。
「お嬢さん、王子様に呼ばれて来たそうだけど、どこから来たのかな?」
キスティーはガムを噛みながら、少し考え、屈託なく答えた。
「私たちは、コレットっていう町から来たんだよ。周りは自然豊かで、たくさん動物さん達がいるの!」
男は、その聞き慣れない地名に内心で舌打ちしたが、すぐに思考を切り替えた。
(コレット?聞かない町の名だな?まあ、大きな国だし、知らないところもあるだろう。だが、すごく広いな土地がありそうなところだな…自然豊かで動物が多いとなると、牧場や農耕の土地が豊富なんだろう。地方の大貴族様で間違いなさそうだ…。町が豊かであるならば、きっと、かなりのお金持ち領主の娘あたりで間違いないだろう。)
男は勝手に想像を膨らませて、一人でニヤついていた。その下卑た笑みは、一瞬、優しげな顔の皮が剥がれ落ち、欲望に満ちた素顔をさらけ出したかのようだった。
しかし、キスティーの純真な声が、その邪な思考を遮る。
「おじさん、他の人達はまだなの?そろそろアリシア達が心配するかも…」
キスティーの瞳に、わずかな不安の色が浮かんだのを見て、男は焦った。
「い、いや、も、もうすぐのはずなんだよ。ごめんね…。待たせてしまって。もしかしたら、お嬢さんのお友達を案内してるのかもしれないね。」
男は、冷や汗をかきながら、最もらしい嘘でごまかした。
キスティーの顔がパッと明るくなった。
「そっか!アリシアたちも迷子で案内してもらってるかもね!そしたらここに来るね!」
疑うという回路が完全に欠落している天真爛漫なキスティーの反応に、男は再び罪悪感と、奇妙な憤りに襲われた。
(いやいや…今の俺の言い訳は無理があるだろう!どう考えても不自然だ!そんなに素直に信じるか?知らないおじさんだぞ?やっぱり人恋しいのか?愛情に飢えているんだな…。なんて育て方をしているんだ!こんな無防備な子にしてしまって!もっと愛情注げよ!これは一言親にガツンと言わないとだな…)
男は人さらいでありながら、キスティーの親に対する謎の道徳的憤りを感じ、自らの立場を忘れかけていた。慌てて、自分は人さらいだと、我に返り、「いかんいかん!」と首を振り、職務を全うしようと心に誓うが、キスティーの曇りのない笑顔を見ると、すぐに彼の決意はぐらぐらと揺らいでしまう。
キスティーは、男の顔色が優れないのを見て、ニコニコと優しく言った。
「おじさん疲れてるんでしょ?休んでていいよ!私ちゃんと待っとくから!」
その優しく純粋な言葉が、男の心の防壁を打ち破った。彼は目頭を押さえ、涙ぐんだ。
「ああ、ありがとう、ありがとう…」
悪党が、さらった子供から向けられた親切に、心から感謝を述べるという歪んだ光景が、薄暗い部屋の中で展開されていた。
その頃ギルは、呆れながらも、もう何も言う気力もなく、散らばった氷の破片を踏みしめながら、再び鉄鉱石を抱え直した。彼の隣を歩くアリシアは、魔力大量消費の疲労が隠せないのか、わずかにふらついていた。
「まだなのー、疲れたわ…」
アリシアが弱音を吐くと、ギルは深い諦めを顔に浮かべた。
「いや、お前あんな魔法立て続けに放つからだろ?あれ必要か?まだ被害出てないからいいけどよ。」
ギルの指摘に、アリシアは心底不思議そうに首を傾げた。彼女の認識では、自分は街を危機から救った英雄なのだ。
「え?何言ってるの?ギルなんか今日おかしいわよ?私に怒鳴ったり変な質問したり?」
彼女には、自分がなぜ責められているのか全く理解できなかった。
ギルは、心底呆れた表情で、吐き捨てるように言った。
「ああ…もういいや、なんもなけりゃそれでいい!被害は俺だけにしろよ!」
アリシアはまた首を傾げ、純粋な疑問を投げかけた。
「被害って何よ?え?え?私なんかした?」
ギルは、これ以上説明しても無駄だと悟り、全てを諦めて淡々と続けた。
「もういい、もういい…何にもないからお菓子届けてキスティー探すぞ!」
アリシアは、その言葉にようやく意識を切り替え、満面の笑みを浮かべた。
「うん!早くしないとね!キスティーにおみやげあげたいし、喜ぶかな。」
彼女は、直前の大魔法の記憶や、最強の敵への恐怖を完全に封印し、心弾ませて軽やかな足取りでギルの後を追った。彼女の頭の中は、今やお土産を渡す楽しみでいっぱいだった。
二人は、無意識に、落ち続けるお菓子を道標とし、キスティーの閉じ込められた、陰鬱なアジトへと着実に近づいていた。
騎士団長は子供たちを見失いながらも、上空に出現した巨大な氷の塊という、この世の理を超えた現象によって、彼らの正確な位置を把握してしまった騎士団長は、心身の限界を超えていた。
彼は路地の入り口に立ち尽くし、目の前にある子供たちの「足跡」、すなわち粉砕された氷の破片を見て、深い絶望に苛まれていた。
「行かないと行けないよな…ああ、そうだ…俺は国を守る騎士団長だ…守る義務がある。たとえそれが死地だとしても向かわねばならん…」
彼の体は、鉛のように重かった。昨夜の疲労に加え、この非日常的な出来事の連続が、彼の精神の均衡を完全に崩壊させていた。彼の頬を伝うのは、汗か涙かも分からない冷たい雫だ。
(平穏な日々は…もう訪れないのではないか。いや、そもそも私は…私は一体、何と戦っているのだ?何と戦い、何を守っているのだ…?)
騎士としての誇りは、巨大な氷の破壊という超常的な力を目の当たりにして、砂粒のように砕け散った。彼の心に残るのは、職務への義務感、これがすべてであった。
(…私は…死ぬのか?…戦場でもなく、心労で…だと?そんな不名誉、許されるわけがない…職務遂行あるのみ!)
騎士団長は、遠い次元の彼方へと現実逃避したい衝動と戦いながら、全力で職務に当たる決意を、涙を流しながら、再び自らに誓った。それは、英雄的な決意ではなく、極度の疲労と恐怖から生まれた、悲壮な覚悟だった。
彼は重い足取りで、子供たちの後を追った。その背中には、国を守る重責と、この世の理不全に抗う、一人の男の哀愁が深く刻まれていた。




