第80話 けしからん!!
キスティーは、親切な案内係のおじさんに連れられて、人さらいのアジトへと向かっていた。薄暗い路地は、街の喧騒から隔絶されており、二人の足音だけが静かに響いていた。
しばらく歩き、男は目的地に到着した。それは、汚れた壁と、黒くすすけた木の扉を持つ、陰鬱な建物だった。薄暗い重たい空気が漂っており、とても食器店には見えない。男は扉の前で立ち止まると、キスティーは不思議そうに首を傾げた。
「ここ?お皿ある?」
その純粋な問いかけに、男は一瞬ひるんだ。しかし、すぐに優しい笑顔を取り繕い、最上級の落ち着いた声で言った。
「あ、ああ、ここはまだ違う場所なんたよ。ごめんね。ここはおじさんたち親切な案内係が、迷ってる人をおもてなしするおうちなんだ。お嬢さん、ここまで歩いて少し疲れただろう?ここでお茶でも飲んで、ゆっくり休んでから、お皿を買いに行こうね。」
男の言葉は、まるで蜂蜜のように甘い囁きだったが、キスティーは不思議な顔をした。
「うーん?まだ歩けるよ?元気だもん!」
男の言葉に首を傾げた。その様子に、男は再び焦りを覚えた。自分の計画では、もっと早くキスティーをアジトに閉じ込めるはずだった。
(いや、お茶を飲んで…じゃない。ここはもうアジトなんだ。もうホントのこと言っていいよな?叩いても…いや、どうする?俺!しかし…こんなに純粋な子どもを、どうやって…)
揺らぎ始めた心を、男は必死に叩き直そうとした。すると、キスティーが、はっとしたような顔で言った。
「あっ!おじさんが疲れちゃったんだね!」
その言葉に、男は救われたような気がした。彼女は、自分の疲労を気遣ってくれているのだと、都合よく解釈してくれたのだ。
「ごめんね…、朝からたくさん親切に案内したから少し疲れててね。休ませてくれるかい?」
男は、申し訳なさそうに言った。
「うん!いいよ!案内頑張ってくれてるんだもんね!休んだら連れてってね!」
キスティーは、何の疑いもなく頷いた。彼女の心は、ただただ、男の親切を喜んでいた。
「あ、ありがとう、じゃあ入ろうね。」
男は、キスティーを促し、扉を開けた。中へ入ると、冷たい空気が肌を刺す。殺風景な部屋には、テーブルと椅子が一つずつあるだけだった。壁はカビで黒ずみ、天井からは剥がれかけた漆喰がぶら下がっている。床は埃と、何かがこびりついたような茶色いシミで汚れており、歩くたびにべたつく感触が足の裏に伝わった。空気は重くジメジメとしていて、嫌な匂いがこもっていた。男は、キスティーの背後で、こっそりと扉に鍵をかけた。カチャリと、重い音が響く。
「じゃあそこに座っておいてね。飲み物飲んでくるね。」
男はそう言って、部屋の奥へと向かおうとした。
「うん!待ってるね。」
キスティーは、言われた通りに椅子に座り、ニコニコと笑顔で答えた。そのあまりの無防備さに、男はもう一度、頭の中で自問自答した。
(さて、どうするか…縛るか?いや、このまま優しくしていれば暴れずにいそうだな…痛いことはしたくないしな。他の二人ももう帰ってくるだろうし、それまで待つか。)
男は、キスティーのあまりの無邪気さに、さらってきた張本人であるにもかかわらず、情が湧きそうになっていた。彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥がチクチクと痛み、まるで自分がひどい悪党であるかのように感じていた。ひどい悪党なのだが。
(こんなことなら、叩いて気絶させて持ってきたほうが楽だった…)
男は、今更ながら後悔の念に駆られていた。
キスティーは、そんな男の葛藤には気づくことなく、ポケットから何かを取り出した。それは、今日買った、キスティーの大好きなシリーズの、おまけ付きのガムだ。一つ口に入れると、ぷうーっと風船を膨らませて遊び始めた。ガムの甘い香りが、ジメジメとした部屋に、ほんのりと広がった。
「おじさん、これ風船よくできるんだよ!すごいでしょ!」
キスティーは、男に見せつけるように、もう一度大きな風船を膨らませた。その無邪気な笑顔は、まるで部屋の汚さや、男の悪意を、すべて浄化してしまうかのようだった。
男は、眉間にしわを寄せ、かすれた声で言った。
「ごめんね…ちょっと体調が良くなくて。もう少しで他の親切な案内係が戻ってくるから、交代してもいいかな?それまで待っててもらえるかな?」
「仕方ないね。おじさん頑張ってるんだもんね!休んでて。待ってるから!」
キスティーは、快く承諾した。男は、その素直さに心の中で叫んだ。
(いやいや、知らないおじさんだぞ!?親切な知らないおじさんほど怪しい奴はいないだろ!?もっと疑わないと悪い人だったらどうするんだ!?もしかして、大貴族様の親は、娘に愛情を持って接していないのか?政略結婚の道具くらいにしか見ていないのか?だからこんなに他人になつくのか…こんなにかわいいのに、なんて親だ!けしからん!!)
男は、キスティーのあまりの純粋さに、憤りを感じていた。彼は、世の中のすべての悪から、この子どもを守らなければならないとさえ思い始めていた。しかし、すぐに我に返り、身代金…大金、大金、と自分に言い聞かせていた。
キスティーは、一人でガムを膨らませながら、楽しそうに時間を潰していた。彼女の頭の中は、おばあちゃんへのプレゼントと、自分へのお土産のことでいっぱいだった。キスティーは、悪意のただ中にいることなど、知る由もなかった。




